ピアノメーカー一覧

 
ピアノカルテ
【詳細解説 アルファベット順】
日本と世界のピアノメーカー(A~Z)720種類一覧

ピアノメーカー一覧/ピアノブランド一覧 ピアノメーカーロゴ/トレードマーク 日本のピアノメーカー/世界のピアノブランドランキング

ピアノメーカー一覧アルファベット順
★このアルファベット順 PC版ページ(当ページ)の情報量が最も豊富です★

ピアノメーカー.com」 という日本語URLでも当ページが検索出来るようになりました
http://www.ピアノメーカー.com




五十音順(アイウエオ順)のページは下記バナーから
ピアノメーカーブランド五十音順

調律のご依頼は経験台数の豊富さと、ピアノカルテを発行する調律師 杉本へ
あなたのお宅に来てくれる調律師さんは『ピアノカルテ』を発行してくれますか?
ピアノカルテ(R)を発行する全国の調律師さんのご紹介も致します→こちらへ





ピアノ調律師の杉本豊と申します。ピアノメーカーやブランドは、日本や世界中には2000種近くあったと言われています。
ピアノ製造会社がたとえなくなってしまっても、ピアノ自体は世の中に末長く残り続けるために当ページを作りました。
太平洋戦争以前の国内メーカーとしてはヤマハ・カワイをはじめ、ニシカワ・マツモト・トレフリッヒ・ルビンシュタイン
シュー・リー・モートリー・シュベスター・ブッホルツ・フクシマ・ホルーゲル・オオツカ・ヒロタなどがありました。

当ページ内には現在およそ720種類以上のピアノメーカー/ブランド名を掲載しており、情報は出来る限り日々更新しています。

良いピアノを作ろうと日々情熱を傾け、長きにわたり尽力してこられた
先人の偉大なるピアノ製作者の方々に対し、心から敬意を表します


最終更新日:2019/10/17
Last updated:October 17, 2019

尚、当ページ内容には万全を期しておりますが、もし間違った内容を発見した場合や、
新情報、誤字脱字等ございましたら 修正受付フォーム より遠慮なくお知らせ下さい。

日頃から多くの方々からの新情報のご提供、及びトレードマークのご寄稿いつも有り難うございます。
これからも皆様とご一緒に当ページを少しでも良いものに作り上げていきたいと願っております。
今後ともご協力の程、心より宜しくお願い申し上げます。


ピアノトレードマーク/エンブレムマーク画像も皆様から広く募集中です
→トレードマークご寄稿フォームはこちら(薄謝あり)









情報量が多いので 「ページ内キーワード検索」 をお勧めします →パソコンでの検索方法
スマートフォンでのキーワード検索の方法はこちら →iPhoneの方 →Androidの方


  ピアノ知名度ランキング 1個 (マイナー) 4個 (超メジャー)



五十音検索は下記各ボタンから別ページへ直接ジャンプ出来ます





ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング



  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

A.GRAND ドイツ 創業1869年 詳細不明
ACACIA アカシア 詳細不明
ACACIAN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アカシアン
エビスピアノ製作所(飯田一郎)、アカシアン製作所(後のマイシュナーピアノ製作所)

戦争中は東洋航空機として木製飛行機を作ったが、戦後(株)アカシアン製作所を再興、
アカシアンのブランドで昭和26年まで製作されたようです。
後にマイシュナーピアノ製作所となりました。

1965年頃まで、兵庫県伊丹市の北の外れに広大な敷地のピアノ工場がありました。
ACACIAN時代は出雲出身の飯国一族の経営。
会社が解散した後MEISCHNERと名前を変えて故・町田幸重氏が引き継ぎました。
しかし、2度も続けて重加算税を支払う羽目に陥り、存続できなくなったと伝えられています。
創業時期は太平洋戦争前だが詳しい時期は不明。

町田氏は、高知出身で、高等小学校卒業後、アカシアピアノ製作所に木工見習で入り
ピアノの設計や調律を習得。
独学で英語やドイツ語の専門書を読む大変な努力家だったようです。
その後、海軍に入り傷痍軍人として退役。
会社を辞めてからは、個人的に調律師として活躍。
全国ピアノ技術者協会会長。
後に社団法人日本ピアノ調律師協会設立に尽力し、その初代会長。

アカシアンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ACORD ACORD? ACCORD? スペル不明 アコード 詳細不明
ADAM GERHARD ドイツ製 アダムゲルハルド 詳細不明
ADELSTEIN



画像クリックでHPへ戻る
アーデルスタイン/アデルスタイン
(有)日米楽器工業所(アトラスピアノ社の前身) 当時:浜松市神田町

日米楽器工業所は1955年頃に設立、その後1960年頃にアトラスピアノ製造株式会社に改組
頼金忠氏が当時大きく関わったとされています。
※平成の初め頃に倒産との情報有り

機種バリエーション:AD250、AD300等

アーデルスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ADOLPHGEYER ドイツ製 アドルフガイヤー 詳細不明
AEOLIAN



画像クリックでHPへ戻る
エオリアン

ウィリアム・B・トレメインによって1883年に創業。

エオリアン社の社名は、風によって鳴る楽器「エオリアン・ハープ」から由来して名付けられた。
ウィリアム・B・トレメインによって設立されたこの会社は、長い間自動演奏ピアノの市場を独占していた。
1895年に
この会社の名称は1897年にエドウィン・ヴォーティーが開発した空気式の自動演奏ピアノ「ピアノラ」で
知られるようになった。しかし、エオリアン社を一気に大企業へ成長させたのは、その後に発売された
リプロデューシング・ピアノ「デュオ・アート」でした。
「デュオ・アート」は精巧な機構をもった楽器で、ロール紙に記録された演奏者による細かいニュアンスや
強弱をとても正確に読み取ることができたという。
この楽器の成功によって会社は高い地位を得て、ニューヨークにエオリアン・ホールを建設し、また、
チッカリングやメイソン・アンド・ハムリン、クナーベなど、数多くの有名なブランドを買収するに至った。
ところが、エオリアン社は極めて評価の高いブランドの楽器を生産していたにもかかわらず、その後に
陥った会社存続の危機には勝てなかった。エオリアン社は、不況に加えて非常に品質の劣る楽器を
生産し続けてしまったために財政危機に陥り、1983年にスタインウェイ社の元社長のピーターペレスによって
買収された。ペレスはこの会社の主要な財産であるチッカリングやメイソン・アンド・ハムリン、クナーベなどの
ブランドを売り込むために尽力を注ぐが、なんとか会社のイメージを回復させるまでところまでいったが、
その後も品質の劣る楽器の生産が続いたために、ついにこの有名なメーカーは消滅する時を迎えた。
そして1985年、エオリアン社は生産を中止しました。

<附録>
エオリアン 製造番号/製造年代 対照表(1903年~1930年) →★

エオリアンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

AIZENAHA

AIZENAHA

画像クリックでHPへ戻る

アイゼナハ

昭和53年に創立した大阪の日本ピアノ(株)で製造していたブランド。
(※現在は東洋ピアノ製造の所有ブランド)

高級品にはエゾ松の響板、ドイツのレンナーハンマーを使用していました。
全盛期当時、アップライト10機種、グランド2機種。U-901等。

ちなみにアイゼナハとは、ドイツ連邦共和国の都市名でテューリンゲン州に属する。
音楽家、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの出生地としても知られる。
(ドイツ語: Eisenach、アイゼナッハとも)

下のトレードマークは東洋ピアノの所有ブランドになってからのもの。

<附録>
アイゼナハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1990年~1999年) →★

アイゼナハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ALBART
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アルバート トニカ楽器(昭和39年創業) 浜松 詳細不明
株式会社トニカ楽器の当時の住所:浜松市浅田町1666番地
ALBERT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アルバート 東海楽器工業有限公司 台湾(中国)

工場は台中市北屯路。ピアノメーカーとしては極めて新しい社歴で、その製作技法は
西ドイツ最大のメーカーであるシンメル社から引き継いだと言われている。
ALBERT HALM アルベルト・ハルム オランダ 詳細不明
ALEXANDER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アレキサンダー 大成ピアノ製造(浜松)、福山ピアノ社(東京) 村瀬克己氏 詳細不明

アレキサンダーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ALEXANDER アレクサンダー ロシア(ソ連) 詳細不明
ALEXANDER HERRMANN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アレキサンダー・ヘルマン  福山ピアノ社(フクヤマピアノ)

昭和20年代に新品の生産が間に合わなかったころ、
主として中古ピアノ(国産)を改装して売り出したもの。
MATERIAL MADE IN GERMANY と書き添えがしてあるものが多い。
部品の一部にドイツ製のものもあるという意味であろう。
現在ドイツにはアレキサンダー・ヘルマンという本物の楽器がある。

アレキサンダーヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ALEXANDER HERRMANN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ALEXANDER HERRMANN アレキサンダー・ハーマン (アレクサンダー・ヘルマン)
ドイツ(旧東ドイツ) 詳細不明
ALFRED KNIGHT ALFRED KNIGHT LTD. アルフレッド・ナイト イギリス
→詳細な内容はKnightへ
 ALLISON  Allison アリソン イギリス(ロンドン) その他詳細不明

ALTENBURUG

ALTENBURUG

ALTENBURUG

画像クリックでHPへ戻る

アルテンブルグピアノ  ALTENBURUG

このピアノは珍しくトレードマーク付いていません。(他にもトレードマークのないピアノもあります)
ピアノ表面(鍵盤近くの鍵盤押さえ部分)にDesigned by STEINBERG, Germanyという
シールが貼ってあるので、ドイツ製のように感じますが、日本で組み立て製造?(詳細不明) 
ただ、中音部ピアノ線の後ろ側の鉄骨部分にはMade in Germanyと入っています。

外装は艶消しでモールディングが付いているなど、
とてもおしゃれなピアノでドイツっぽい雰囲気です。

音色はとても広がりのある音量豊富で豊な音ですが、やや分厚い感じの印象。
シーズニングがあまりなされておらず、音の狂いが落ち着くまで何年もかかった感じです。 

アルテンブルグのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

AMABILE


画像クリックでHPへ戻る

アマービレ 東洋ピアノ製造(浜松) 詳細不明

トレードマークは普通の東洋ピアノとは違い、DESIGNED BY TOYO PIANOとなっています。中国製造?
一般的な東洋ピアノのトレードマークはこちら →★(似ていますが少し違います)
※アマービレとは音楽用語で「やさしく、愛らしく」という意味

アマービレのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★

アマービレのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AMADEUS? AMADEUS? アマデウス 中国広州 詳細不明 
ANNELL アネール イタリア 詳細不明
ANTON WALTER アントン・ワルター 詳細不明

APOLLO

APOLLO PIANO

APOLLO

画像クリックでHPへ戻る

APOLLO アポロ (アポロピアノ)

正式会社名:東洋ピアノ製造(株)

音色は明るくきらびやかな印象のピアノです。
アポロピアノの紹介で特筆すべき事項は、弱音ペダルに採用されている、
M.O.T.方式(Muffler One Touchの略)のペダルです。
これはワンタッチで弱音に出来るペダルシステムでアポロが1978年に特許を取得。
通常、真ん中のペダルは弱音にするとペダルが左下へ下がった状態になりますが、
M.O.T.ペダルシステムのピアノはペダルが下がったままになりません。
個人的にこれのどこがすごいの?とは思いますが、(スイマセン)
このM.O.T.のメカ(我々はこれをガチャガチャと呼びます)がまたよく壊れます。。→★

トレードマークは2本の音叉に囲まれた3個のハンマーヘッドを使ったデザインです。
尚、直近のピアノでは一番下のようなTOYOと入ったエンブレムに変更になっております。

<概要沿革>
石川隆己(いしかわ たかみ)前社長自らの設計、指導、製作により、
昭和40年ごろまでは1台1台に毛筆のサインをして世に送り出していたようです。→★
350号などの初期のものは技術者が賞賛した逸品でもある。
石川隆己氏(明治44年生)は山葉直吉氏(山葉寅楠の姪と結婚した養子)、河合小市氏らに
教えをうけ、日本楽器から河合を経て昭和9年独立、三葉楽器製作所を作りました。
アポロピアノを製造している浜松の東洋ピアノ製造株式会社の発祥の源は、
1934年にさかのぼり、初代社長であった石川隆己氏が日本楽器および河合楽器で
約十年間ピアノの技術を修行した末に、天竜川の東岸の竜洋町で三葉楽器という
小さい工場を作ったことに始まります。

<歴史>
初代社長の石川隆己氏が、日本楽器および河合楽器で約10年間ピアノの製造技術を修行した末、
天竜川の東岸の竜洋町で三葉楽器という小さな工場を作ったことにはじまります。
別の記録だと、「1933年(昭和8年)に浜松市で、技術者の石川隆巳と、
財務担当の大谷藤四郎が「三葉楽器製作所」としてピアノ作りを始めた」ともある。
このピアノ工場は終戦間際まで稼動していたと伝えられるが、何しろ戦時中であったため
どのような楽器が作られていたかはさだかではない。
東洋ピアノの設立は1948年6月10日と記録されていますが、それ以前の1947年1月に
石川社長は中島飛行機の教官であった大谷藤四郎氏を副社長として有限会社の
東洋楽器製作所を作っている。
終戦直後の混沌とした世相の中で、楽器を作って殺伐とした人の心を和らげ、
少しでも社会に貢献したいというのが2人の目的であったといいます。
最初の従業員は30人くらいで、焼けあとを走り回って材料を掻き集め、
足らないところは戦時中の経験を活かし、いわゆる代用品で補い、低音部の弦は
電線の銅線を巻き付けて、とにかくピアノらしいものを作り上げました。
いづれにしても、戦後最初のピアノを他社に先駆けて作り上げる功績を果たしました。
東洋ピアノ製造株式会社を発足させてからの石川社長の活躍はすさまじく、
その後の30年を懸命に働き続け、この会社をヤマハ、カワイに次ぐ生産台数を誇る
ピアノ製造会社に成長させました。
石川社長は非常に厳格で恐ろしい親方であったといいます。気に入らないアクションが
出来たときは乾燥炉に放り込み燃やしてしまったといいます。

次の社長に就任した長坂晁弘氏は、石川社長時代ながらく経理部長、営業本部長などを
歴任して会社に貢献してきた人で、初代社長とはうってかわって温厚な方であったようです。
「私が引き継いだときにはこの会社は出来上がっていました。私は音楽も好きではないし
ピアノにも精通していません」という謙虚な言葉の裏には、堅実で誠実な人格があります。
この社長のもとで引き続きアポロピアノは着実な発展を遂げたのは言うまでもありません。

アポロのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  アポロピアノの保証書 →★
アポロの文部省教育用品審査合格シール →★  アポロアクションレールのシール →★
アポロ純正キーカバー →★
鍵盤内部(KeyNo.1)に書かれた石川隆己氏の直筆サイン(一九七九年十月検と書いてあるようです) →★
アポロピアノもワグナーピアノも東洋ピアノ製造なのでTPKと入っています(2つを並べた写真) →★

<機種バリエーション/モデル>
■グランドピアノ
旧式
A-30(長さ152cm)、A-35(長さ206cm)、A-38(長さ231cm)
現行
AX-1(長さ151cm)、AX-2(長さ151cm)、AX-1w(長さ151cm)、AX-2w(長さ151cm)
■アップライトピアノ
旧式
SRシリーズ (黒塗 SR-5、SR-6、SR-7、SR-8)、(生地塗 SR-250、SR-260、SR-552、SR-580)
SSSシリーズ SR-65、SR-85、SR-565 (それぞれに黒塗、生地塗、アンチック塗あり)、A.350など
現行
A120PIERRE、A120LE、A126、A122、A122DX、A126B Imperial、A126CS Imperial、
A133W Imperial、A133M Imperial、A120 Imperial

<附録>
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1948年~1988年) →★
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1966年~1999年) →★
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1999年~2012年) →★

アポロのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
APOLLO アポロ アメリカ 詳細不明
APOLLO & YAKO

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
雅歌楽器企業股份有限公司 台湾(中国)

東洋ピアノ製造株式会社との技術提携会社である。
工場は高雄市自強二路にあって従業員は最盛期で330人ほど。
ARMBACH アームバッハ ソ連(ロシア) 詳細不明
ASAGA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アサガ 浅賀ピアノ 詳細不明
ASAHI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
朝日ピアノが海外向けに出しているブランドとのこと 中国製造
ASTER ? ASTER? 韓国(英昌) 詳細不明
ASTIN WEIGHT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ASTIN-WEIGHT アスティン・ウェイト
創業1959年 アメリカ(ソルトレイクシティー)
住所:120 West 3300 South, Salt Lake City, Utah ♯84115 UNITED STATES OF AMERICA

このピアノ会社は標準化されたピアノの設計を取り入れず、ユニークな手法を取り入れて製造しているのが特徴。
独特な外装がそれを物語っています。 

1959年にエドウィン・アスティンとドン・ウェイトがソルトレークシティーに
アスティン・ウェイト社を設立し、1978年にレイ・アスティンが社長に就任。
アスティン・ウェイト社はグランド、アップライトともに限られた台数を製造し、ユニークな点としては
ストラングバックの設計が挙げられる(ストラングバッとは、鍵盤とアクション以外のピアノ本体のこと)
一般的なピアノの場合、響板はピン板の高さまでしかないが、このメーカーは音量と豊かな音色を得るために、
響板をケース全体へ広くしたアップライトピアノを製作。
その結果、普通のアップライトよりも高さが約25cm低いにもかかわらず、大きな面積の響板を確保に成功。
ただ、この斬新な設計は独特な音色をもたらしたと言われているが、設計上の都合で駒を高くしたことにより、
ミュージックワイヤーのエネルギーが余計に吸収され、音がひずむと指摘する批評家もいる。
これはピアノの音質に大きく関わるのは響板の大きさではなく、弦のスピーキングレングス(有効弦長)の方が、
重要ということが広く知られているからだろう。
さらにこのピアノは適切な奥行きを得るためなんと背面の支柱を省いている。
その代わり、弦の張力に耐えられるように鉄の全周一体型フレームを採用している。
このタイプの構造はすでにヨーロッパで50年以上前から採用されてきたものの、技術者の中には
背面の支柱をなくすことは、調律の安定性に欠けるという者もいる。

アスティン・ウェイト社は176cmのグランドピアノも限定的に製造しており、
こちらはアップライトよりもさらに急進的な設計で、一般的なグランドピアノとは違いって、
長辺を持たず、なんとほぼ左右対称の形をしている。
そのため低音部の駒を響板の奥に配置でき、弦長が格段に延びて230cmクラスのピアノに近づき、
また響板の面積も広くなっている。そのためピアノは非常に奇妙な形を呈しており、
蓋のヒンジは低音部ではなく、高音部側で留められている。

アスティン・ウェイト(Astin-Weight)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1965年~2000年) →★

アスティンウェイトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ASTORIA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アストリア。タイガー楽器設立の前に、山葉良雄氏の山葉商会が浜松の小さな工場であった、
共立楽器製作所(浜松)で作ったと言われています。

ATLAS

ATLAS PIANO

ATLAS

ATLAS

画像クリックでHPへ戻る

アトラス ピアノ  ATLAS PIANO

1954年創業。正式会社名:アトラスピアノ製造会社
当時の会社住所:浜松市神田町1400番地

”アトラス” とは、”(画像)ギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神” が由来とされています。
アトラスはピアノメーカーとしては新しい方ですが、その後の発展は著しく、
近代的な生産設備、生産数においてはヤマハやカワイに次ぐものでした。
ただ、そう言われるほど私はこのピアノ自体には出会いませんが。。
性能、音色については総合的にバランスのとれた感じの印象です。
当初アトラスのピアノ工場は、十数畳ほどの小さな場所でした。
頼金忠氏が無一文から出発して、その後わずか20年で
資本金が3億5千万円(最盛期)にも及ぶ会社に築き上げました。
ですが、1980年代に入るとピアノの需要が落ち込み、1986年に事実上の倒産に至ります。
これも時代の流れですね。

<歴史>
アトラスピアノ製造会社は、1955年発足というピアノ製造会社にしては
かなり新しい会社になります。ですが、発足後の発展はめざましく、
近代的な設備の導入をはじめ、ヤマハ・カワイに次ぐメーカーに発展しました。
最盛期3億5千万にもおよぶこの会社の最初は、とても小さな工場からスタートしました。

その人物とは社長の頼金忠氏でした。
彼は無一文から出発し、なんとわずか20年で築き上げたものです。
一代で成功した人々はスタインウェイなどのように通例として仕事に全身全霊を捧げ、
人生の欲望を捨て、さらには肉親の生命を犠牲にしてまでその目的に邁進する者が多い中、
頼金忠氏はその例外であると言ってよいかもしれません。
言い伝えでは穏健な紳士でピアノで演歌を弾きこなし、七段の腕前で空手を楽しみ、
この常に明るく陽気な性格を持っている幸運な社長の半生は次のようなものです。

頼金氏は1926年広島県竹原市の酒造りの頭梁をつとめていた父の10人兄弟の6男として
生まれ、広島師範学校(現在の広島大学教育学部)に進みました。
そこでピアノの演奏に興味を持ち始め、連日練習に励んだのがピアノとのなれ初めでした。

終戦の混乱期は、頼金氏の教師になるという本来の目的性を失わせ、彼を実業界という
正反対の方向に走らせてしまいました。
彼は、明治大学の商学部に進むかたわらアルバイトでピアノの販売に没頭・熱中し、
なんと月間30台も売ったという逸話も。さらに空手の練習にも傾注されたとのことのようです。
このアルバイトはほとんど本職に転化していったと伝えられています。

彼は大学を卒業する直前、1953年に兄との共同で東京の青山に「日響ピアノ」という
店を開業発足させました。しかし彼は販売だけにはあきたらずピアノの製造技術を学ぶため、
兄に日響ピアノの経営をまかせ、浜松にあった遠州ピアノ製造株式会社などで武者修行をし、
自らはピアノ製造メーカーの世界に身を乗り入れました。

アトラスピアノの源となった「日米楽器工業所」は、1955年6月10日に発足。
場所は浜松市の浅田町。発足当初はピアノ職人を数人かき集め、外注依存の組み立て専門の
工場として出発したことに始まります。
どんなピアノにでも付けられるという便利な鉄のフレームを作り、設計書もなしに意外に
品質の良いピアノを次々と生み出していったようです。
当時はこのような組み立てピアノの全盛期で、小さい工場が国内に35~40社ほどもあり、
さまざまなブランドのピアノを作っていました。
当時の日米楽器では「スタンダード」、「ノーベル」、「アトラス」、「アーデルスタイン」などの
ブランドのピアノを作ったと記録されています。

創業2年目である1956年に日本のピアノの創始者である山葉寅楠氏の直弟子の中の一人である
匹田幸吉氏が参加し、この頃から独自の設計のピアノが作られ始め、品質は劇的に向上しました。
この頃、国立音楽大学楽器研究所の主任であった西村武氏に認められ、国立音大の
指定工場となり、販売、技術ならびに資金の援助を仰ぐようになった。
尚、当時国立音大の研究室で作られていた同じ仕様のピアノには、「コンセルバトワール」
というブランド名が付けられていたそうです。

※西村武氏はわが国でも古いピアノメーカーの一つである松本ピアノ出身の技術者で、
ピアノの製造技術を学問的に解明した学者肌の人で、惜しくも49歳で亡くなった。
西村武氏は、わが国のピアノ調律界の元老だった中谷孝男氏と共に、日本のピアノの
品質向上に大きな貢献を果たした人物です。

アトラスというブランドは国立音大の指定工場になった1956年から使われており、
このアトラスという商標はこの西村氏から譲られたものでした。
ちなみにこの”アトラス”とは、遥か西の地の果てで天球を支えているギリシャの
途方もない巨大な神で、西村武氏ご自身の身体は小さかったが、希望は大きい方が良い、
世界を目指そうという主旨で決められたと伝えられています。

<アトラスピアノ画像集>
アトラスの蓋部分のメーカーロゴ →★  アトラスの外装に貼ってある物品税証紙 →★
アトラスピアノの純正キーカバーです →★
アトラスピアノの響板に描かれたアトラス(ギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神) →★

<レア画像>
昭和50年代に納品されたアトラスピアノに付いていたカセットテープ式自動演奏機システム →★

<附録>
アトラスピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1971年~1990年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アトラスピアノ製造株式会社(アトラスピアノせいぞう)は、かつて静岡県浜松市にあった
日本のピアノメーカーである。当時の会社住所:浜松市神田町1400番地。
広島県出身の頼金忠は、学生時代に学業の傍らピアノ販売のアルバイトをしていたが、
卒業後は遠州ピアノ製造株式会社などでピアノ製造技術を学び、1958年、有限会社日米楽器工業所を設立、
1960年に商号および組織を改変しアトラスピアノ製造株式会社となる。
1961年、日本で最初のピアノJIS工場の認可を受け、翌年には広島支店を開設、
その後日本ピアノ製作所を買収、日本ピアノアクション製造株式会社を吸収合併するなど、
1960年代から1970年代にかけては、日本のピアノメーカーとして、生産設備、生産台数において
ヤマハ、カワイに次ぐ勢いであった[1]。1980年代に入るとピアノの需要が落ち込み、
1984年には業務提携していたブラザー工業株式会社が撤退し、1986年に事実上の倒産に至る。
再建にむけて本社を移転し再出発するも、1990年代には国内での生産は廃業し、
その後は中国のメーカーが商標を買取り、販売しているとされているが、詳細は不明である。
いずれにしても、日本国内で生産されたアトラスピアノは姿を消した形になる。
アトラスはギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神であるが、ピアノの響板にもこの姿が描かれている。
命名者は日米楽器の頃よりピアノ製造の中心的な存在であった、国立音楽大学楽器研究所主任でピアノ調律師の
西村武であり、以後アトラスピアノ工場は国立音楽大学の指定工場となり、品質向上に大きく携わる。
以下は日米楽器工業所及びアトラスピアノ製造株式会社で製造されたピアノのブランド名の一部です。

ATLAS (アトラス) - アトラス
ADELSTEIIN (アーデルスタイン) - 日米楽器
BROTHER (ブラザー) - アトラス
KREUIZBACH (クロイツバッハ) - アトラス
MEISTER (マイスター) - アトラス; 阪急百貨店のブランド
MORGENSTEIN (モルゲンスタイン) - アトラス
NOBEL (ノーベル) - アトラス、日米楽器
ROYAL (ローヤル) - アトラス
STANDARD (スタンダード)- 日米楽器
STEINMEYER(スタインマイヤー)- アトラス; 高島屋のブランド
VICTOR (ビクター) - アトラス

アトラスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AUGUST FORSTER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アウグスト・フェルスター AUGUST FORSTER/AUGUST FÖRSTER
(アウグスト・フォルスター)/(オーガスト・フォルスター)/(オーガスト・フェルスター)
/(アウグスト・フォルエステル)/(アウグスト・フォルステル)

ドイツ(旧東ドイツ)ザクセン地方のレーバウ  AUGUST FÖRSTER
チェコにも工場があったが太平洋戦争後に消滅。

1859年に設立されアウグスト・フェルスター社は第二次世界大戦より前に、
クオーター卜ーン・グランドピアノやエレクトロコードのような革命的な棉造の楽器を生み出した。
今日のアウグスト・フェルスターのピアノは、妥協のない細部へのこだわりで知られている。

アウグスト・フェルスター社のピアノは温もりのあるまろやかな音色が特徴で、
低音は力強くよく鳴るのが特徴。高さが116cm~125cmの6つのモデルのアップライトピアノと、
長さが170cm~275cmの5つのモデルのグランドピアノを製造している。
ジャコモ・プッチー二は、ほとんどのオペラをこのアウグスト・フェルスターのピアノで作曲した。
基本的な構造は従来のグランドピアノと変わらないが、エレクトロコードは最低音部の8音を除き、
1音に2本の弦が張られていた。ハンマーは1本の弦だけを打ち、もう1本の弦は短く、かなり弱い
テンションで張られていて、共鳴して振動する。この弦のいろいろな位置に静電ピックアップが
垂直と水平方向に設置され、幅広い音色とアタック特性を拾うことができた。エレクトロコードには
オプションでラジオや蓄音機を取り付けることも可能だったという。

<歴史>
フリードリヒ・アウグスト・フェルスターは、1829年にドイツのオーバーザイファースドルフに生まれた。
家具職人の見習いとして働きだし、空いた時間に楽器の修理を行っていた。
その後、楽器作りへの情熱が高まり、フェルスターはレーバウへ移って、ヒーケと力ール・オイレのもとで
ピアノ製作の修行を始める。
そして、小さな工房を開いて最初のピアノを作り上げ、その5年後の1854年にピアノ職人の試験に合格する。
1862年、フェルスターはレーバウ郊外に工場を設立した。その後、何度となく改修や改築が行われたが、
工場は現在もこの場所にある。
1897年、アウグスト.フェルスターは、 息子ツェーザーに会社を遺して亡くなるが、ツェーザーは
1915年までしか生きられなかった。
さらに今度はツェーザーが、息子のゲルハルトとマンフレートに会社を遺して亡くなる。
ピアノ業界ではよくあることだが、ふたりの息子は異なる特性を生かし、
それぞれのやり方で会社の成長に貢献していく。
この兄弟の場合、マンフレートはビジネスマンであり、
ゲルハルトは革命的な構造の楽器を生み出す器用な製作者だった。
1924年から1931年の間に、ゲルハルトは、チェコの作曲家アロイス・ハーバの作品を演奏するための
クオータートーン・ピアノ (4分音ピアノ。半音の半分の音を出せるピアノ) を数台製作する。
その後、ゲルハルトは、オスカー・フィアリングが1933年に特許を取得した設計に基づき、
「エレクトロコード」と称する電気ピアノを製作した。
現在の工場は、創業者一家4代目のヴォルフガング・フェルスターが所有、経営している。

■機種/モデル バリエーション
アップライトピアノ モデル:Super C
グランドピアノ  モデル:170、190、170Rococo

※アウグストフェルスターピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★

<附録>
アウグスト・フェルスターピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1873年~2000年)→★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アウグスト・フェルスター(August Förster)はドイツのピアノ製造会社である。
正式名称は「August Förster GmbH Kunsthandwerklicher Flügel-und-Pianobau」
「Foerster」や時折「Forster」とも翻訳される。
現在は40名の従業員を雇用し、年間およそ120台のグランドピアノと150台のアップライトピアノを生産している。
1859年4月1日、アウグスト・フェルスターはドイツ・レーバウに小さなピアノ工房を開いた。
1862年にはレーバウのJahn通りに工場を拡大した。
今日まで使用されているこの施設はフェルスター家によって拡大・近代化されてきており、
オリジナルのアウグスト・フェルスターピアノの製造のための唯一の場所であり続けている。
1897年、ツェーザル・フェルスターは父アウグストの後を継いで会社の経営者となり、
1900年にボヘミア(後のチェコスロバキアとチェコ共和国)のゲオルクスヴァルデ
(チェコ名はイジーコフ Jiříkov)に2つ目の工場を開いた。
フランツ・ツェザール・フェルスターはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達を与えられた。
1937年、フェルスター社は最初の電気ピアノの一つである「Vierling-Förster」ピアノを製造した。
このピアノはベルリン工科大学ハインリヒ振動研究所のOskar Vierlingによって開発され、
電磁ピックアップを使用している。
第二次世界大戦後、ゲオルクスヴァルデのドイツ系住民は排斥され、
1945年にゲオルクスヴァルテ工場は国営化された。
新しい国家管理の下で質の高い多くのピアノが生産されたが、1945年以降のチェコ製ピアノは
ドイツのアウグスト・フェルスターピアノとは無関係である。
この「もう一方の」アウグスト・フェルスターは2000年までペトロフ社によってチェコ共和国で生産され、
カナダや一部の欧州の国々で販売された。
1972年、東ドイツの国営化の最終段階で会社は国有「VEB Fluegel-und-Pianobau Loebau」に変わった。
まだウォルフガング・フェルスターの管理下にあったものの、
フェルスター社はVEBドイツピアノ組合ライプツィッヒの一部として併合された。
家名は1976年に公式の会社名に戻り、楽器ブランドは「VEB Förster Pianos Loebau」となった。
また1976年に、フェルスター社はアメリカ合衆国への輸出を始めた。
多くの高名な音楽家がドイツ製フェルスターピアノを好んできた。
その中にはリヒャルト・シュトラウスやセルゲイ・プロコフィエフがおり、
どちらもフェルスターピアノを所有していた。
また、ジャコモ・プッチーニはフェルスターピアノを使って数多くのオペラを書いた。
Robert Fischer、Alex Duke、アントン・クエルティもまたフェルスターピアノを好んでいたことが記されている。
フェルスター・ピアノは品質と音色によって、1987年の「Verleihung der Goldmedaille für den Rokokoflügel
(ロココグランドピアノ・金メダル)」を含む多くの賞を受賞してきた。
ラリー・ファインの『The Piano Book』において、ドイツ製アウグスト・フェルスター・ピアノは
性能、品質管理、信頼性(一般的な耐久性を意味するファインの用語)の部門で最も高い評価を受けた。
「高品質性能ピアノ」のカテゴリーで、ファインは現代のアウグスト・フェルスター・ピアノを
C・ベヒシュタインやグロトリアン・シュタインヴェーク、ベーゼンドルファーといった
国際的に評判の高い楽器のすぐ下に順位付けした。
加えて、ファインは現代フェルスター・ピアノをその「卓越した低音」について称賛し、
またレンナー社製アクションの際だった反応の速さについても言及した。
公式HP:https://www.august-foerster.de/

アウグストフェルスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AUGUST HOFFMAN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
オーガスト・ホフマン/アウグスト・ホフマン 中国

August Hoffmanは、もともとはスウェーデン生まれのピアノブランドだが、
現在は中国遼寧省のピアノメーカー営口東北鋼琴(ドンペイピアノ)で生産。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アウグスト・ホフマンス・ピアノファブリック
(典: August Hoffmanns pianofabrik、August Hoffmannのピアノ工場)は、
1838年から1988年まで存在したスウェーデン・ストックホルムのピアノ製造会社である。
会社の起源はSöderberg父子の工房にある。この工房は1859年にピアノ製造技師アウグスト・ホフマン
(August Hoffmann、1827年ザクセン州生まれ)によって買収された。
ホフマンはドイツ、オーストリア、ハンガリーで修行していた。
ライプツィヒ時代にホフマンは伝説的なハインリヒ・シュタインヴェーク
(後のヘンリー・スタインウェイ)と友人だった。
アウグスト・ホフマンは1840年代に短期間カルルスハムン(英語版)でピアニストの
A. F. Sätherbergのために働き、ドイツに戻った後、最終的にはストックホルムに定住した。
スクエア・ピアノは1870年代初頭に最も人気があり、1873-74年には200台のスクエア・ピアノが製造された。
その後アップライトピアノが次第に人気となり、1884-88年には年間わずか40台のスクエア・ピアノが生産された。
アウグスト・ホフマンは1884年に死去したが、未亡人のナンナ・ホフマン(Nanna Hoffman)が工場を経営した。
ピアノ産業では初めての王室御用達となり、25人の従業員を雇用した(6人が楽器職人・調整師、他は家具職人)
ホフマンは1890年代の初めにストックホルムを訪れたスタインウェイの助けを受けた。
その他の多くの工房と異なり、ホフマンの工程は相当量の手作業によることが特徴だった。
工場はBanérgatanにあり、整備と販売はマルムフィルナツガータン通り(英語版)33の店で行われた。
1930年代、オペラ歌手のマルティン・オーマン(フランス語版)はこの店の販売員として働いていた。
スウェーデンでの製造が終わって以降、August Hoffman(ホフマンの綴りに注意)のブランド名を
冠したアップライトピアノ、およびグランドピアノが中国遼寧省のピアノメーカー営口東北鋼琴(ドンペイピアノ)に
よって製造され、香港やカナダを含む世界中で販売されている。
このブランドと元々のスウェーデンの会社との関係は不明である。
ドンペイピアノは2007年にアメリカのギターメーカー「ギブソン」(Gibson)のグループに入り、
社名を「Baldwin Dongbei Piano」に変更。
アメリカの老舗ブランド「Baldwin」や、スウェーデンブランドの「Nordiska」などを製造している。
August Hoffmanピアノは、アメリカ、カナダ、ヨーロッパで販売されているが、
日本では「August Hoffman 112G」、「August Hoffman 114WH」、
「August Hoffman 115GC」の3機種が販売されている。
いずれも木目調のコンパクト型ピアノで狭い住宅事情に適している。

アウグストホフマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AUTO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
オート アメリカ 詳細不明

 

    

 

  


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング



  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

B. SQUIRE & SONS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
スクワイアー イギリス 詳細不明
BACHENDORFF
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
BACHSTEIN ご注意→→ ドイツのあの有名なピアノ、「ベヒシュタイン」の正しいスペルはBECHSTEINです
BACHSTEIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バッハスタイン(ワタナベピアノ)

ワタナベ楽器店(発売元)、渡辺ピアノ(製造)
新橋の楽器商の渡辺寅雄氏が製作させたピアノで、念入りに作られた数少ないものとのこと。
初め”ワタナベピアノ”と称したそう。
渡辺氏は三田の竹内楽器店の支配人でスタインウェイなどのピアノを輸入したこともある。

バッハスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BACHSTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バハシュタイン ドイツでベヒシュタインの名が有名になってきた際、いかがわしい商売も生まれ、
ベヒシュタイン(Bechstein)のスペル一文字をわざと変えたインチキ商品といわれている。
BACKHAUSE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バックハウス 昭和32年頃に(有)小野ピアノ製作所で作られていたという記録がある。
BALDUR バルドール ドイツ 詳細不明

BALDWIN


BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

画像クリックでHPへ戻る

ボールドウィン

BALDWIN PIANO & ORGAN CO.
Since1862、アメリカ製ピアノでそのほとんどがスピネットタイプ。

木目を生かした外装が特徴的ですね。
あがき(→鍵盤の沈み込む深さ)がとても浅いのでご注意。
通常のピアノのあがきは10mmですが、このピアノは8~9mm程度しかありません。
日本製ピアノを使い慣れた方はタッチにかなり違和感を感じると思います。

総合的なピアノの作りは、THEアメリカ!という感じです。
その他の特徴としましては、3本ペダルのうち、真ん中のペダルが低音域のみ利きます。
アメリカのピアノにこの方式が多く、ウーリッツァーなどの3本ペダル機種もこの方式を採用しています。
(一般的な3本ペダルの真ん中は弱音ペダル、マフラーペダルです)

その他の特徴としては、チューニングピンへ巻かれるミュージックワイヤーが、
わざと最初に飛び出ささせてから巻き始めており、ボールドウィン独特な特徴です →★

ボールドウィンのグランドピアノには、特許を取得したAcu-Justヒッチピンが取り付けられている。
これにより弦圧調整を1本づつ個別に行うことが出来る。
また、ボールドウィンのコンサートグランドピアノには、トレブル・ターミネーションという部品の特許を取得し、
この部品によりピアノの高音部の音が明瞭で力強くなり長く持続するという特徴がある。

<歴史>
1873年、アメリカ中東部の著名な音楽教師ドワイト・ハミルトン・ボールドウィンは、
ピアノとオルガンを扱う小売店ボールドウィン・ピアノ・カンパニーを設立。
19世紀の終わり頃に会社が発展してくると、ボールドウィンはオハイオ・ヴァレー・ピアノ・カンパニーと
契約を交わし、D.H.ボールドウィン・アンド・カンパニーのアップライトと、スクエアピアノの製造を委託。
1891年、ボールドウィン・ピアノは低価格のアップライトピアノの製造を開始し、
2年後には中価格のアップライトをエリントン・ピアノ・カンパニーの名で製造するようになる。
19世紀末にはボールドウィンの名で高品質の楽器を製造するようになり、
1900年のパリ万博でグランプリを獲得する。
D.H.ボールドウィンは1899年没。会社を長老教会に遺すが、ボールドウィンの元社員の
ルシエン・ワルシンと、ジョージ・アームストロングは1903年に会社の経営権を買い戻した。
1926年にルシエン・ワルシンJr.が最高経営責任者となり、1964年に亡くなるまで会社に留まった。

1920年代、ボールドウィン社は自動演奏ピアノ、マニュアロ(Manualo)プレーヤー機構の開発で有名になり、
また、シンシナティ大学物理学部の協力の下、電子楽器の実験も行った。
ボールドウィン社が財政的に安定したのは、90cmのアクロソニック・スピネットや、
100cmのアクロソニック・コンソールを生産するようになった1936年からでした。
これらの楽器は1938年から販売された112cmのハミルトン・スタジオ・アップライトの設計、
製作へと繋がった。これは最も人気の高いアップライトピアノのひとつで、
現在目にするボールドウィンピアノの原型とも言えるでしょう。
第二次世界大戦中、ボールドウィン社は飛行機の木製部品を製作などをしていたが、
戦後はエレクトリック・オルガンで成功し、飛躍的な成長を遂げた。

1960年代から1970年代にかけてボールドウィン・ピアノ・カンパニーは金融や電子分野を含む
42社を買収し、ボールドウィン・ユナイテッドとなる。
1963年にはドイツのメーカーであるベヒシュタインを買収。
1987年まで続いたこのベヒシュタインとの関係から、ボールドウィン社は国際的な
コンサート・アーティストへのピアノ提供サービスの仕事を得たという。
1965年、ボールドウィン社は初のコンサートグランドピアノSD-10を製造。

ボールドウィン社の好調さは1983年まで続いたが、この年に金利の上昇に伴い破産を申し立て。
利益性の高いピアノ部門は役員によって買われ、1984年にボールドウィン社はふたたび私有会社に。
1980年代から1990年代初めにかけて、ボールドウィン社はサミック社と提携し、
コリアン・アメリカン・ミュージック・カンパニーを設立し、ハワード・グランドピアノを生産した。
1980年代後半になると、ふたたびボールドウィン社は規模を拡大し、
アメリカのピアノ・オルガン製造会社であるワーリッツァーなど、ピアノ関連会社を買収していった。
その後、また経営に行き詰まり、ふたたび破産を申し立てると、およそ1ヶ月後の2001年11月1日に
ボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーは、ギブソン・ギター・コーポレーションに買収される。

機種バリエーション 140、4024、4026、5040、5045など  ボールドウィンのシリアルナンバープレート →★

ボールドウィン天板裏側に貼ってあるシール →★  ボールドウィンならではの美しい家具調外装 →★
ボールドウィンの保証書 →★  ボールドウィンピアノのドロップアクション →★
ボールドウィン(Baldwin)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1890年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ボールドウィン・ピアノ・カンパニー(Baldwin Piano Company)は、
アメリカ合衆国のピアノブランドである。
かつては米国を拠点とする最大の鍵盤楽器製造業者であり、
「America's Favorite Piano(アメリカのお気に入りのピアノ)」というスローガンで知られていた。
2008年12月にほとんどの国内生産を停止し、中国へ生産を移した。
ボールドウィンは現在アメリカ最大の楽器製造業者ギブソン・ギター・コーポレーションの子会社である。
ボールドウィン社の歴史は、ドワイト・ハミルトン・ボールドウィンがオハイオ州シンシナティで
ピアノやオルガン、バイオリンを教え始めた1857年に遡る。
1862年、ボールドウィンはデッカー・ブラザーズピアノの販売特約店を始め、
1866年に販売員としてLucien Wulsinを雇った。
Wulsinは販売特約店の共同経営者となり、会社は1873年にD.H. Baldwin & Companyと
呼ばれるようになり、彼の指導の下でボールドウィン・カンパニーは1890年代までに
アメリカ合衆国中西部で最大のピアノ販売業者となった。
1889年から1890年に、ボールドウィンは「製造し得る限り最良のピアノ」を製造すると宣言し、
続いてリード・オルガンを製造するHamilton Organとピアノを製造する
ボールドウィン・ピアノ・カンパニーの2つの会社を設立した。
会社の初のピアノ(アップライトピアノ)は1891年に販売が始まった。
1895年には初のグランドピアノを発表した。
ボールドウィンは1899年に死去し、彼の資産の大部分は伝道目的に資金を供給するために残された。
Wulsinは最終的にボールドウィンの資産は購入し、会社の体制の小売から製造への転換を続けた。
会社は1900年にパリ万国博覧会に出品したモデル112でグランプリを受賞し、
こういった賞を受賞した初のアメリカ製ピアノとなった。
ボールドウィン製ピアノはセントルイス万国博覧会と1914年英米博覧会でも最高賞を受賞した。
1913年までに、事業は活発となり、ボールドウィンは米国全土の小売店を持っていたのに加えて、
32カ国へと輸出した。
ボールドウィンは、その他多くの製造業者と同様に、1920年代に自動ピアノの製造を始めた。
ピアノ工場はオハイオ州シンシナティに建設された。このモデルは1920年代末までに不人気となり、
世界大恐慌の始まりと相まって、これはボールドウィンへ災いを及ぼした。
しかしながら、社長Lucien Wulsin IIはこういった状況のために大きな積立金を作っており、
ボールドウィンは市況の低迷を乗り切ることができた。
第二次世界大戦中、米国戦時生産委員会は戦争遂行努力のために工場を使うことができるように
米国の全ての製造業の停止を命令した。ボールドウィンの工場はエアロンカPT-23初等練習機や
カーチス・ライトC-76キャラバン輸送機といった様々な航空機のための合板製部品の製造のために使われた。
軍用機における木製部品の使用は大成功とは決して考えることはできなかったが、
合板製の航空機の翼を建造するうえで学んだ教訓は結局のところは戦後のピアノモデルで使われた
21層カエデ材ピン板の設計の開発に役立った。
戦争が終わった後、ボールドウィンはピアノの販売を再開し、1953年までに戦前の2倍の生産数に達した。
1946年、ボールドウィンは初めての電気ピアノ(開発は1941年)を発売した。
電気ピアノは大きな成功を収めたため、ボールドウィンは
ボールドウィン・ピアノ&オルガン・カンパニーに改称した。
1961年、ルシアン・ウルシン3世が社長となった。
1963年までに、ボールドウィン社はC. ベヒシュタイン・ピアノフォルテファブリックを買収し、
1986年まで所有した。1959年、ボールドウィンはアーカンソー州コンウェイに最初は
アップライトピアノの製造のために新たなピアノ製造工場を建設した。
この工場では1973年までに100万台のアップライトピアノが作られた。
1961ににボールドウィンはミシシッピ州グリーンウッドに新しいピアノ工場を建設した。
それ以降にアップライトピアノの生産はオハイオ州シンシナティからグリーンウッドへ移された。
ボールドウィン社は次にポップ・ミュージックの成長から利益を得ようと試みた。
フェンダー・ミュージカル・インストゥルメンツ・コーポレーションの買収が失敗に終わった後、
ボールドウィンは1965年に38万米ドルでロンドンのバーンズを買収し、
社のピアノ小売店を通じてギターの販売を始めた。
この時期、ボールドウィンのエンジニアRobert C. Schererがナイロン弦ギターのための
Prismatoneピックアップを開発した。ギターの販売に不慣れであったボールドウィンの小売店は
多くのギター購買者の興味を引くことに失敗し、売り上げは期待外れに終わった。
1967年、ボールドウィンはグレッチギターも買収した。
グレッチは自社の経験豊かなギター販売員と公認小売店の流通網を有していた。
しかしながら、フェンダーとギブソンがギター市場の支配し続け、
売り上げは期待された水準には届かなかった。
グレッチギターの経営は1989年にグレッチ家に売り戻された。
1970年代を通して、ボールドウィン社は金融サービスへ活動分野を広げるために大きな努力を始めた。
Morley P. Thompsonの指揮の下で、ボールドウィンは数十の会社を買収し、1980年代初頭までに
MGIC投資コーポレーションを含む200社を超える貯蓄貸付機関、保険会社、投資会社を所有した。
ボールドウィン社はUnited Corp. との合併後の1977年に社名をボールドウィン-ユナイテッドに変更した。
1980年、ボールドウィン社はアーカンソー州トルーマンに新たなピアノ製造工場を開業した。
しかし、1982年までに、ピアノ事業はボールドウィンの36億米ドルの収益のわずか3パーセントになった。
その一方で、ボールドウィン社は買収と新たな施設の資金を調達するために大きな債務を負っており、
次第に貸付債務の支払が困難になっていた。
1983年、持株会社といくつかの子会社が総額90億米ドルを超える負債を抱えて破産へと追い込まれた。
これは当時市場最大の倒産だった。しかし、ピアノ事業は倒産を免れた。
1984年の倒産手続き中、ボールドウィンのピアノ事業はその経営管理者に売却された。
新会社は1986年にボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーとして公開され、
本社はオハイオ州ラブランドに移された。
しかし、人口構造の変化と外国との競争により鍵盤楽器の販売は停滞した。
ボールドウィン社は市場占有率を増やすためにウーリッツァーを買収したり、
生産コストを下げるために製造を海外に移つことで対応した。
1998年、ボールドウィン社は本社をラブランドから近隣のディアフィールド・タウンシップへ移した。
1990年代の間中ずっと、ボールドウィン社の運勢は好転し、1998年までに、
コンウェイ工場の270人の従業員は毎年2,200台のグランドピアノを作っていた。
しかしながら、2001年、ボールドウィンは再び困難に直面し、再度破産申請をした。
ボールドウィン社はギブソン・ギター・コーポレーションによって買われた。
2005年にリストラを行う際に、ボールドウィン社はトルーマン工場の一部の従業員を解雇した。
現在ギブソン・ギター・コーポレーションの子会社であるボールドウィン社はボールドウィン(Baldwin)、
チッカリング(Chickering)、ウーリッツァー(Wurlitzer)、ハミルトン(Hamilton)、ハワード(Howard)
ブランドの楽器を製造している。ボールドウィンは中国で2つのピアノ工場を購入し、
ここでグランドピアノとアップライトピアノを製造している。
過去のB米国製アップライトを再現したモデルは中国の中山市にある工場で作られている。
これらの復刻モデルにはBaldwin HamiltonスタジオモデルB243およびB247が含まれる。
これらはこれまで作られた中で最も人気のある学校ピアノである。
Donbei(東北)のより大規模な工場では現時点ではピアノは作られていない。
ボールドウィンのグランドピアノは中国の柏斯琴行(Parsons Music Group)によって作られている。
全ての新品ピアノはウーリッツァーやハミルトン、チッカリングではなく
ボールドウィンブランドの下で販売されている。
ボールドウィンは2008年12月にアーカンソー州トルーマン工場での新たなピアノの製造を止めた。
特注グランドピアノの製造と注文された多数の芸術的なグランドピアノの仕上げのために
少人数のスタッフが残っている。


ボールドウィンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BALLINDAMM

BALLINDAMM

画像クリックでHPへ戻る

バリンダム BALLINDAMM

東洋ピアノ製造(浜松)※アポロピアノ
機種:BU-10等

東洋ピアノ製ということで、もちろんM.O.Tペダルを採用しています。 MOTペダルのガチャガチャ →★

バリンダムのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BALTHUR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
BALTHÜR ポーランド 詳細不明
BARBEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バーベル 浜名楽器 その他詳細不明
BARENBOIM
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バレンボイム

ピアニスト兼指揮者のバレンボイムによりデザインされたピアノとのこと。
Steinway&Sonsの支援を受けて、ベルギーの楽器メーカーChris Maeneと共に製作。
最大の特徴は平行弦を採用している(※現代の一般的なピアノはほとんどが交差弦)

※参考:ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )は、
アルゼンチン出身の、ユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。
BARKER Barker & Co 詳細不明

BAROCK




画像クリックでHPへ戻る
バロック BAROCK

浜松の東日本ピアノ製造KKで作っていたブランドの一つ。  →(株)バロック

同社で製造の「クリーベル」などと同じ雰囲気のピアノです。
他に、KEMP(ケンプ)、WESTMINISTER(ウェストミンスター)がある。 その他詳細不明

<付録>
バロックピアノの製造番号/製造年代 対照表(1972年~1990年) →★

バロックのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  バロックのキーカバー →★  バロックの保証書 →★

バロックのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BARRTT & ROBINSON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バラット・アンド・ロビンソン BARRATT & ROBINSON LTD. イギリス その他詳細不明
BARTHOL バートール ドイツ 詳細不明
BARUSTEIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バルシュタイン(バルスタイン)

宇都宮信一氏が東京月島にあった松本ピアノに依頼して製造。
琥珀のような深い味わいのある音を求めて命名したという。数は少ない。

バルシュタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BAUMBACH バウムバッハ オーストリア 詳細不明
 BAUMGARDT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バウムガルト スウェーデン(都市:リンシェーピング)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
バウムガルト(Baumgardt)は、スウェーデン・リンシェーピングにかつて存在したピアノ製造会社である。
1871年にJohan Otto BaumgardtとAdolf Tenggrenによって創業された。
総計約1万1千台のピアノが生産された。リンシェーピングでのピアノ生産は1968年に終了し、
その後はまずアルヴィーカのエストリンド&アルムクィストで、次にフィンランドのファッツェルで
ピアノが生産された。ファッツェルでのBaumgardtピアノの生産は1974年に終わった。
BAXHARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バックスハルト(バッハルト)
朝日楽器製作所(浜松) SUNSHINE(サンシャイン)という73鍵のピアノもあった。 

バックスハルトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BECHSTEIN

BACHSTEIN

BACHSTEIN




画像クリックでHPへ戻る

ベヒシュタイン(カール・ベヒシュタイン) C. BECHSTEIN  ドイツ(ベルリン)

繊細な作りと音色で、とても素晴らしいピアノです。

1853年の創業。故カール・ベヒシュタインが1855年にベルリンでピアノ工場を開設したのが始まり。
過去に1929年の世界経済恐慌と第二次世界大戦で工場が破壊、さらに材料が損なわれ、
会社の伝統に終止符が打たれる歴史を持っています。

戦後、アメリカの大手メーカーに買収されますが、ベヒシュタインの真の復活を願うドイツ人により
1986年ベルリンに戻って復活しました。
製造工程の85%以上手作業で行っており、伝統を守りつつ進歩することを求めていきました。
ベヒシュタインはピアノのストラディバリウスと呼ばれる名器で、
ヨーロッパでも屈指の優れたピアノと言うことができます。

1826年生まれの創始者カール・ベヒシュタインは、古代ドイツ民族の一つで、
チューリンジア人の血統を引いているためか、生まれつきの詩的で音楽的才能を持っていました。
そのためか、いつのまにかピアノのメーカーとしての職を選び、22才の若さで当時ベルリンで
最も有名だったペローというピアノ工場の支配人を勤めてました。

彼はペローの工場の現場で4ヵ年間忠実に働いた後に、イギリスとフランスに放浪の旅に出かけ、
有名なパペから経験主義的なピアノ製造の秘法を学び、クリーゲルシュタインという当時の
小型ピアノのメーカーから商売上の駆け引きをおぼえてその見識を広めたといいいます。

その後、1853年にベルリンで創業し1856年に最初のグランドピアノを作り上げました。
カール・ベヒシュタインの作ったこのピアノは、その同年に当時の有名なピアニスト兼指揮者の
ハンス・フォン・ビューローの演奏会に使われ、リストのソナタを弾いたコンサートでは
一躍名声を博したと言われています。

三大ピアノメーカー(ピアノメーカー御三家)の中の1つに数えられるメーカーです。
ピアノメーカー御三家とは→スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインのことを指します。
ベヒシュタインについてはWikipediaに詳しく書かれています →★

ベヒシュタインの音色は澄みきった細い高音と、よく鳴る低音が特徴。
新しいベヒシュタインのアクションはすべてレンナー社製で、響板にはバイエルン地方の堅いスプルース材が
用いられ、ピン板はデリグニット社製で、最近まで総アグラフが採用されていた。
ベヒシュタインのコンサートグランドは、ベーゼンドルファー同様、総一本張り張弦のため、調律の安定性が良く、
また弦が切れた際には対処がしやすいという利点がある。
20世紀になるころに生産されたアップライトピアノには、より速いレペティション(連打)を実現するために、
ジャックに追加のスプリングが取り付けられ、ハンマーバットに接続されていた。

ベヒシュタインアップライト鍵盤押さえ部分の銘柄マーク →★  アクションレールに貼られたシール →★
ベヒシュタインのオリジナルキーカバー →★
製造から100年以上経つベヒシュタイングランドのデカール →★  そのグランドピアノの優美な外観 →★
ベヒシュタインアップライトのマフラー機構は、シンプルかつ理にかなった構造で本当に良く出来ており、
日本メーカーのようにビスを外す手間もなく、バネの勢いで引っかかることもなく大変優れたものです →★
上から4枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
上から5枚目のエンブレム画像は「I様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

■機種/モデル バリエーション (後に記載したモデルほど高級機) ※1989年当時の機種バリエーションです
アップライト
S-115(高さ115cm)、S-12n(高さ212cm)、S-12a(高さ212cm)、
S-11a(高さ230cm)、S-8a(高さ250cm)

グランドピアノ
K(奥行158cm/アクリル鍵盤)、K(奥行158cm/象牙鍵盤)、M(奥行180cm/象牙鍵盤)
B(奥行203cm/象牙鍵盤)、C(奥行221cm/象牙鍵盤)、EN(奥行280cm/象牙鍵盤)

<付録>
ベヒシュタイン(C, Bachstein)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1860年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
C. ベヒシュタイン・ピアノフォルテファブリック(C. Bechstein Pianofortefabrik)AG、
通称ベヒシュタイン(Bechstein)は、カール・ベヒシュタインによって
1853年に創業されたドイツのピアノ製造会社である。
1853年、カール・ベヒシュタインによってベルリンで創業。
「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるほどの名器で、最高のピアノの代名詞である。
ベヒシュタインについてフランツ・リストは「28年間貴社のピアノを弾き続けてきたが、
ベヒシュタインはいつでも最高の楽器だった」、クロード・ドビュッシーは
「ピアノ音楽はベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ」と言う言葉を残している。
また、セシル・テイラー、チック・コリアなどジャズピアニストにも度々使用され、
クラシック界に留まらず、その演奏性は高く評価されている。
しかし、創業からの長い年月の中で、度重なる苦難の歴史もあった。
1929年、世界恐慌で打撃を受け、さらに第二次世界大戦で工場が破壊されるなどしたため、
設計図やその他の重要な資料はもとより、熟練した職人などそのほとんどを喪失した。
また、第二次大戦中ナチス・ドイツに協力したとして(ヒトラーはベヒシュタインを
「第三帝国のピアノ」としていた)、戦後はドイツ人のナチズムからの脱却とともに
その栄光の座から退いていくこととなった。
1962年、アメリカのボールドウィン社の傘下に入ったものの、
1986年にドイツのピアノ製造マイスターであるカール・シュルツェが経営権を買い取り、
念願であったドイツ人の手に経営権が戻された。
その後は資本増強を積極的に行い、1997年には株式会社(C. Bechstein AG)となり、
資本増強と東西ドイツ統一と共に、ツィンマーマン(またはツィンメルマン、Zimmermann、
1884年ライプツィヒで創業)とホフマン(W. Hoffmann、1904年ベルリンで創業)の
ブランドを傘下に収め、ベヒシュタイングループを設立。現在に至っている。
公式HP:https://www.bechstein.com/
公式HP(日本法人):https://www.bechstein.co.jp/


ベヒシュタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BECKER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ベッカー ロシア(ソ連) 1841年創業 ソ連で最も歴史のあるメーカー その他詳細不明
BECKER キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
BECKSTEIN ベクシュタイン ドイツでベヒシュタインの名が有名になってきた際、いかがわしい商売も生まれ、
ベヒシュタイン(Bechstein)のスペル一文字をわざと変えたインチキ商品といわれている。

BEHNING

BEHNING

画像クリックでHPへ戻る

ベーニング

静岡県浜松市豊町3513-2にある朝日ピアノのブランド。中国製造。

<朝日ピアノHPより>
Henry Behning(ヘンリー・ベーニング)
ドイツのハノーバーで1832年に生まれ
ヨーロッパ各地でピアノ製作技術を学び1856年に渡米。
1861年からHenry Behningピアノの製作を開始。
1880年に2代目のHenry Behning Jrをパートナーにして、社名をHenry Behning & Son社と改称。
1894年Henry Behning Piano Companyに社名変更。
日本ではWeber社との提携によりアサヒピアノが製造元となってお届けしています。

ベーニングのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BELTON

BELTON



画像クリックでHPへ戻る

ベルトーン

製造:富士楽器製造株式会社(浜松)、ベルトーンピアノ研究所(浜松)
販売:内外ピアノ社

昭和7年から浜松の天竜川筋の富士楽器製造で作られていたピアノです。
戦時中に軍需工場に転換したが昭和22年にピアノ製造を再開して、
沢山清次郎氏の指導を受け飛躍的に製品が良くなったとのこと。社長は野田満氏。

ベルトーンには愛好者が多く、アップライトの上パネルの一部に
開閉できる装置を付け(特許No481852)、また沢山清次郎氏の発明による
ペダルスプリングの強弱調整装置(特許No453845)を取り付け等の
さまざまな工夫が凝らされていました。 
ペダルスプリングの強弱調整装置の写真 →★ (この写真はクリーベルピアノに付いているもの)
沢山清次郎(さわやま・せいじろう)氏のイニシャルを取ってネジ部分にS.Sと入っていますね。
※ちなみにこの強弱調整装置ですが、私の実感としてさほど強弱を変えられない印象です。

ベルトーンピアノは珍しくフレームの下部にもこのようなマークが入っております →★
E.S.T.D. →established 創立・創業
1932 →1932年(昭和7年)
F.G.S. →富士楽器製造
K.K. →株式会社

ちなみに芸大教授でもあったピアニスト、レオニード・クロイツァー氏によって
ベルトーンと命名されたと言われています。
→フレーム内の 「”BELTON” NAMED BY PROF. LEONID KREUTZER」 と命名由来が書かれた部分 →★

ベルトーンピアノの調律検査記録カード →★  ベルトーンアクションに貼られたシール →★
このベルトーンは平成24年に練馬区の力行幼稚園様へ寄贈させていただきました →★

ベルトーンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BENTLEY

BENTLEY

BENTLEY

画像クリックでHPへ戻る

ベントレー/(ベントリー)

イギリス製(ロンドン)
1906年創業したメーカーで、1991年には生産台数16万台を超えました。

1台しか調律したことがありませんが、音量・ダイナミックにやや頼りなさを感じます。
音色は古いボールドウィンピアノ(アメリカ製)に近い感じですね。
ちなみに車メーカーで有名なあのベントレーとは関係ありません。

<歴史>
ベントレーのブランド名のピアノが初めてショールームに展示されたのは1930年だが、この人気のある
イギリスのメーカーの経営者ダグラス・グローヴァーは、ピアノメーカーの3代目だった。
そのグローヴァー・アンド・グローヴァー社は1830年頃に設立され、多いときには年間500台ほどの
楽器を生産していた。
1906年、ダグラス・グローヴァーが家業を継いだのがベントレーの始まりである。
1911年、ダグラスは思い切って店をロンドンからコッツウォルド丘陵にある使われなくなった紡績工場へ移転。
それからそこはストラウド・ピアノ・カンパニーとして知られるようになった。
ウッドチェスター・ミルの町は移転先としては完璧な立地で、絵のように美しいその場所に1605年からある
5階建ての工場には、1788年に国王ジョージ3世も訪れたことがあったという。
1920年代に生産量は増大し、1930年にダグラス・グローヴァーと息子のリチャードは、
ステューディオという新しいアップライトピアノをベントレーという新たなブランド名で売り出した。
そのピアノはすぐに人気となり、4年後には116cmのグランドピアノも生産するようになる。
ベントレー社は年間3000台のピアノを生産するまでになったが、1938年に工場が火事に遭い、
工場の大部分と機械類が焼けてしまう。それから1週間のうちにベントレー社は道を挟んだ向かい側の
小さな工場へ移った。ベントレー社はイギリスのほかのピアノメーカーなどの助けを借りて、なんとか
9ヶ月後には元々の生産レベルを取り戻した。
第二次世界大戦後、ベントレー社はアクションや鍵盤、響板、ピン板、低音部分に使われる巻線弦などを
自社で作るようになり、事実上すべての部品が自給自足可能になった。
そしてピアノを外国へ輸出して国益を支えるようになり、リチャード・グローヴァーはその貢献を称えられ、
1969年に大英帝国勲章を授与された。
ダグラスのひ孫のデイヴィッド・グローヴァーがドイツでの修行を終えて1962年に経営に加わり、
人気のあったステューディオに代わるコンパクトというピアノを1963年に新たに設計した。
このピアノも人気を博し、1980年代にベントレー社は、その多様な製品によってヨーロッパの代表的
ピアノメーカーとしての地位を確固たるものにした。
ところが、1989年にベントレー社の工場はふたたび火事に見舞われ、生産エリアの40%を失う。
その後、工場はその歴史ある場所に再建された。
1993年、ベントレー・ピアノ・カンパニーはウェルプデール・マックスウェル・アンド・コッド社に買収され、
サウスロンドンの工場へ移された。
2000年にブリティッシュ・ピアノ・マニファクチャリング社が形成され、現在、ベントレー・ピアノは、
コッツウォルド丘陵の元の工場で、オリジナルの仕様で生産されている。

ベントレーの蓋部分の銘柄マーク →★  ベントレーアクション →★
ベントレーのジャックフレンジは樹脂製です(※ジャック自体が樹脂製は良くありますがフレンジは珍しい) →★
ベントレー下パネを開けた部分のフレームに刻印されたブリティッシュメイドのマーク →★

<附録>
ベントレー・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1920年~2000年) →★

ベントレーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BERLIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ベルリン 阿部ピアノ製作所(浜松) その他詳細不明
BERNE ベルネ スイス 詳細不明

BERNSTEIN

BERNSTEIN

BERNSTEIN

画像クリックでHPへ戻る

バーンスタイン

浜松ピアノ製造株式会社で製造されていたブランド。(当時の住所:浜松市和田町552-3)
のちに協立楽器が販売元になりました。

■機種/モデル バリエーション
TB-220、TB-660
B-127、BU230、BU350、BU380、BU550、BU850、嵯峨野など(協立楽器販売器種)

バーンスタインピアノの保証書 →★  バーンスタインのまくり(ふた部分)の銘柄マーク →★
バーンスタイン親板内側に貼られた、ドイツ製ハンマーであるABEL(アベル)の使用を示す表示 →★

バーンスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BERYOZKA




画像クリックでHPへ戻る
ベリョースカ BERYOZKA
ロシア(ソ連) 詳細不明

他のソ連製ピアノにもよくあるRAZNO製です(チャイコフスキーやウラジミールなど)
このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。

ベリョースカピアノのまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄マーク →★

ベリョースカのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BETTING



画像クリックでHPへ戻る
TH.BETTING ベティング/ベッティング

1887年創業 ポーランド(レグニツァ) その他詳細不明

ベッティングのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BEYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バイエル 日本 阿部ピアノ製作所 その他詳細不明

バイエルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BLUEBELL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブルーベル

光輪楽器研究所(浜松) 昭和31年に設立された工場で、丁寧に作られたピアノであった。
昭和38年以降は記録なし。その他詳細不明。

ブルーベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BLUEGHEL BRUEGHELが正しい →BRUEGHELの項目へ
BLUESTAR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブルースター 日本 詳細不明

BLUTHNER

BLUTHNER

画像クリックでHPへ戻る

BLUTHNER(BLÜTHNER) ライプツィヒ

ブリュートナー(ブルッツナー)(ブリュットナー)
ドイツ(旧東ドイツ)旧東ドイツ国家公団 創業1853年。
高音部に4本目の打弦されないピアノ線を張ったアリコート弦(アリコート・スケーリング)を採用。
1872年に特許を取得。この打弦されない弦は自由に共振し、ピアノの高音域に豊かな倍音を与える。
このアリコート弦は実際に鳴らされる音の1オクターブ上に調律される。
作曲家のドビュッシーは、これを誇らしげにピアニストのモリス・デュメニルに見せていたそうだ。

初期の頃のアップライトピアノはオーバーダンパー方式(鳥かご式アクション)を採用しているものがあります。
参考:鳥かご式アクション写真 →★

品質の良い、手仕事生産のピアノで温もりのあるバランスのとれた音色のピアノで、均質な音色にするため、
ハンマーシャンクは取り付ける前に打撃音の音程を揃えるなど、多くの手間がかけられている。
木材は厳選されており、パイン材はメクレンブルク産、ビーチ材はドイツ低山地のもの、スプルース材と
メープル材、ならびにアルダー材は東アルプス産が用いられている。
総一本張りで調律の安定性が向上しており、弦が切れた際の処置がしやすいという利点がある。
ブリュートナーが特許を持つアクションは、1920年代までグランドピアノに採用されていた。

<歴史>
ドイツ・ファルケンハイン(現在のモイゼルヴィッツ)の家具職人だったユリウス・ビュートナーは
1853年にピアノ製作工場を設立した。ブリュートナーは限られた資金で開業したものの、そのピアノは
1854年にミュンヘンで開催された産業博覧会で好評を博し、それをきっかけにライプツィヒ音楽院内の
ピアノを製作するように依頼される。
まもなくして、ブリュートナーピアノの品質の高さは世界中に知られるようになった。
1864年にはアップライトの生産が始まり、従業員137人の会社はライプツィヒ郊外の大きな工場へ移転。
19世紀の終わり頃には、ブリュートナー社はヨーロッパで2番目に大きなピアノ製造会社に成長し、
約5万台を生産するようになる。すべてのピアノは工場から出荷される前にブリュートナー自身によって、
チェックされていたと言われている。

1910年にユリウス・ブリュートナーが亡くなると、会社は息子のマックス・ロベルト・ブルーノが受け継ぎ、
第二次世界大戦までは着実に規模を拡大していったが、戦争中の空襲で工場は破壊されてしまった。

戦後、会社はルドルフ・ブリュートナー=ヘスラーによって再建が開始されたものの、復興には何年もかかった。
東ドイツ政府の管理の下、ブリュートナー社は一時期、ベヒシュタイン社と共同の施設を使用していた。
こうした組織上の問題はあったものの、ブリュートナーのピアノは昔と変わらず手仕事で製作されたため、
かつて賞賛された品質を損なわれることはなかった。
1935年、ドイツ海軍本部はブリュートナー社に対して、飛行船ヒンデンブルク号の中で演奏するための
軽量化されたグランドピアノの製造を依頼し、この飛行船内の演奏はラジオで放送され、ブリュートナーへの
人々の関心が一気に高まったというエピソードも残っている。

ブリュートナー社は1989年に再び民営化され、世界中の音楽愛好家に大切にされてきた
ブリュートナーは、今もライプツィヒで製造されている。
現在会社を率いるのは、ユリウス・ブリュートナーの玄孫(やしゃご/ひ孫の子)イングベルトと、
来孫(らいそん/玄孫の子)のクリスティアンとクヌートである。

※ブリュートナーピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★
ブリュートナーピアノの製造番号/製造年代 対照表(1853年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ユリウス・ブリュートナー・ピアノフォルテファブリック (Julius Blüthner Pianofortefabrik)GmbHは、
ドイツ・ライプツィヒにあるピアノメーカーである。
C・ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、スタインウェイ・アンド・サンズと共に、
たびたび世界四大ピアノメーカーの一つと言われる。
「ブリュートナーのピアノは本当に歌う事が出来、そしてそれはピアノにとって最高の褒め言葉である」と
書き残したのは、20世紀最高の指揮者ともいわれるフルトヴェングラーである。
ブリュートナーの特長の一つにアリコートシステムという独特の弦構造がある。
通常の他社製ピアノは、1音に対して、弦が3本張られているが、ブリュートナーのピアノは、
高音部にアリコート(共鳴弦)と呼ばれる4本目の弦が張られている。
この4本目の弦はハンマーで打たれることはなく、共鳴させるためだけに張られており、
この共鳴によって倍音が増幅される構造である。
この4本目の弦は、3本の弦の上部に貼られ、独立した駒を経て響板を振動させていたが、
最近のモデルでは、4本が同じ高さに一列に配置されており、豊かで純度の高い高音を実現している。
1853年、ユリウス・ブリュートナーによってドイツのライプツィヒで創業された。
そして、1872年にアリコートの特許を取っている。1867年から1905年にかけ、
パリ、ウィーン、シドニー、メルボルン、アムステルダム、ケープタウンにおいて各博覧会の
ファースト・プライズを受け、1900年のパリ、1904年のセントルイス、1910年のブラッセル、
1927年のジュネーブでグランプリを獲得するなど世界的に名声を獲得してきている。
1938年に飛行船に乗せるために、アルミ製のきわめて軽いグランドピアノが作られ話題になる。
第二次世界大戦中の1943年には、他の多くのドイツのメーカーがそうである様に、
工場が空襲で焼かれ屋根は焼け落ち楽器はもちろん材料となる木材もすべて焼き尽くされたといわれる。
その後市場にピアノを送り出すまでに回復するには1948年まで待たなければならなかった。
また東ドイツ時代には一時国営化されたが、1990年の東西ドイツ統一を期に経営権はブリュートナー家に返還。
その後順調に業績を伸ばし、2005年にはヨーロッパにおけるコンサートグランドピアノの販売台数が、
2番目に多いという記録を作るまでになっている。
イギリスのヴィクトリア女王を始め、ドイツ国内はもちろんオーストリア、デンマーク、ギリシャなどの
多くの皇室にも納品される。ブラームス、リスト、チャイコフスキー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチ、
プロコフィエフなどの多くの有名な作曲家、ブゾーニ、アラウ、ルービンシュタイン、プレトニョフなどのピアニスト、
そのほかヨハン・シュトラウス2世、フルトヴェングラー、メニューイン、マルケヴィッチなどの音楽家からも
高く評価されている。 なお、クロード・ドビュッシーが唯一自ら購入して愛用していたのがブリュートナーであり、
ブリュートナーを使って作曲していた。
そのほか、ビートルズの「レット・イット・ビー」でポール・マッカートニーが弾いているのは
ブリュートナーである(セッション風景を撮影した映画「レット・イット・ビー」の映像などで確認できる。
ちなみに、これはアビー・ロード・スタジオの所有である)。
また、フジ子・ヘミングはブリュートナーを所有しており、彼女を取り上げたNHK番組でも演奏シーンが撮影された。
中国のピアニスト牛牛もブリュートナーを使用している。
また、近年では、録音でブリュートナーを使用する世界的ピアニストが増えてきている。
なお、2007年11月までは株式会社浜松ピアノセンターが日本総代理店として販売していたが、
倒産により一時的に販売網が絶たれた。しかし2008年5月1日付けで、ブリュートナー社からの任命により
有限会社ピアノクリニックヨコヤマが日本総代理店を引き継ぎ、正規流通が復帰した。
2018年現在、6種類のサイズ(154–280 cm)のグランドピアノと5種類のサイズ(116–145 cm)の
アップライトピアノを製造している。ブリュートナーブランド以外にもBlüthner-Haesslerアップライト、
Haessler(ヘスラー)グランドおよびアップライト、そして2つのIrmler(イルムラー)製品ラインを
ドイツ工場で作っている。
公式HP:http://www.bluethnerworld.com/


ブリュートナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BOCKLER

BOCKLER

画像クリックでHPへ戻る

ベックラー

BÖCKLER(BOCKLER) 販売:アポロ販売株式会社
ドイツ人が設計と謳っている韓国三益製。
当時、東洋ピアノ(アポロピアノ)が取り扱っていたようです。
機種:AH-28等

※東洋ピアノが扱っているCHARIS(チャリス)というピアノのトレードマークと同じなのが分かります。

ベックラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BOG & VOIGT ドイツ 詳細不明
BOHEMIA ボヘミア 中国(チェコとの広告あり) 詳細不明
BOLAND
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ボーランド 香港(中華人民共和国特別行政区)
販売会社名:香港博兰德钢琴有限公司 その他詳細不明
ホームページ:http://www.bolandpiano.com/

ホームページに掲載してあったブランド紹介文の翻訳

19世紀半ばにドイツで設立された "Boland"ブランドのピアノは優雅なサウンドと高度な職人技、
そして優れたパフォーマンスで有名で世界のトップ10の有名ピアノブランドの一つです。
German Boland Pianoは、西ドイツで最も有名なピアノの製造会社で、 "German Piano City"として知られる
Brunswickにあり、100年以上前から、最高品質のピアノを製造してきました。
香港Boland Pianoは、北米市場以外の東南アジアで最も早いBOLANDピアノのライセンサーであり、
世界の金融センターにある香港には、会社の将来の発展に対する強力な保証とサポートを提供するのに
十分な人的資源と情報ネットワークがあります。市場は依然として伝統的なバイオリン製造技術を遵守しており、
各ピアノはドイツの技術者によって厳密にテストされ、すべての製品が優れた性能を発揮することを確認。
厳密にドイツのピアノ業界標準の生産、音、音質、感触、技術的な指標や生産プロセスのすべての種類では、
スタイルは純粋なドイツの降下、ヨーロッパのモデルです。
BOLERO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ボレロ 東海楽器製造(株) 詳細不明
BONARE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ボナール BONARE

日米商会(発売元)、大友ピアノ工房(製作)
大友雅雄氏が大友ピアノ工房で製作(協力:松永栄二氏)

ボナールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BOSENDORFER

BOSENDORFER

BOSENDORFER

BOSENDORFER

画像クリックでHPへ戻る

 

ベーゼンドルファー BÖSENDORFER (BOSENDORFER)

オーストリア 創業1828年(1827年) ジャスパーコーポレーション
※2008年にヤマハの傘下企業に。

1827年から、ベーゼンドルファーのピアノは世界中の偉大な作曲家や演奏家によって弾かれ、
賞賛され続けている。世界でもっとも製作に時間をかけるピアノメーカーとして、
ほかのメーカーとの違いを強調するべーゼンドルファー社は、グランドピアノを完成させるのに
4年もの時間をかけるが、その期間の半分は木材のシーズニングに費やされているという。

中音~高音のミュージックワイヤーがすべて1本張り(ループ弦)を採用しているのが特徴。
また、フラッグシップモデルの290インペリアルでは鍵盤の数が97鍵もあります。
通常のピアノは音域A0~C8(7オクターヴと3度)ですが、インペリアルでは
音域C0~C8で完全な8オクターヴもあります。
この黒く塗られた部分をエクステンドキー(エクストラベース)といいます。→★
これらのエクステンドベースが弾かれることは滅多にないが、
響板と駒が拡張されることで、通常の低音域の音に力強さと共鳴が加わる。
ピアニストの混乱を防ぐため、演奏中、このエクステンドキーは蓋で覆われている。
グランドのリム(側板)には堅いスプルース材が用いられており、響板の延長として機能し、
このリムとスケールデザインによって、甘く優しい高音と、基本周波数が強く鳴る低音が実現。

<歴史>
イグナーツ・ベーゼンドルファーは1794年にウィーンで生まれる。
当時ウィーンはヨーロッパ最大の文化都市であり、多くの演奏家や作曲家の本拠地だった。
ベーゼンドルファーは、名高いオルガンとピアノ製作者だったヨーゼフ・ブロッドマン(ブロートマン)
のもとで見習い修業を積んだあと、1827年に会社を設立、1828年にピアノを作り始める。
(ちなみにブロートマンはウェーバーが愛用していたピアノの製作者である)
その2年後(1830年)オーストリア皇帝から「宮廷及び会議所御用達のピアノ製造者」の称号を授けられた。
ベーゼンドルファーが作る楽器は品質が高く、造りが頑丈であったが、当時弱冠17歳だった
フランツ・リストがコンサートグランドを演奏会で弾いたことで、会社の名声は一気に高まった。
リストは単にこの楽器の音色が気に入ったのではなく、そのピアノはリストの激しい演奏スタイルにも
無傷で耐えられるほど頑丈だったのだ。こうしてベーゼンドルファ一はほぼ一夜にして、
世界のピアノメーカーのトップに上り詰めた。
1859年にイグナーツ・ベーゼンドルファーが亡くなると会社は息子のルートヴィヒに引き継がれた。
ルートヴィヒは会社をもっと大きな工場地へ移すが、成長は続いていき、1870年にはさらに広大な敷地へと
移転しなくてはならなかった。そこがウイーン第4区の現在の会社の所在地である。
ルートヴィヒには直系の子孫がおらず、1909年に引退するのを機に、会社を友人の
力ール・フッターシュトラッサ一へ売却した。
そして1931年には、その息子のヴォルフガングとアレクサンダーが受け継いだ。
1920年代の中頃まで、ベーゼンドルファー社は年間わずか数百台のピアノしか製作していなかった。
大恐慌になると生産高は急激に落ち込み、第二次世界大戦末期の数年間は、激戦で社屋が破壊されて
完全に生産が止まった。戦時中、蓄えてあった木材やピアノは薪にされてしまったという。

戦後の復興はなかなか進まず、1950年までは生産高が年間100台を超えることはなかった。
その後、1966年にキンボール・インターナショナル社の社長アーノルド・H・ハビッグが
べーゼンドルファ一社を買収する。
ベーゼンドルファー社の専門技術を活かし、キンボール社のピアノに新たな息吹を吹き込む狙いからだった。
この買収は一般的な買収と違い、両社にとって極めて有意義なものとなり、2002年1月にベーゼンドルファ一社が
キンボールとの提携を解消するまでその関係は続いた。
その後、オーストリアの銀行グループ、バーヴァック(BAWAG-P.S.K.オーストリア労働経済郵便銀行)
の支援を受け、ベーゼンドルファー社は、世界最高品質のピアノを製作する偉大なメーカーの地位を
完全に取り戻した。

ベーゼンドルファーは、ピアノメーカー御三家の中の1つに数えられるメーカーです。
ピアノ御三家とは→スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインのことを指します。

■機種/モデル バリエーション
モデル170cmグランド:鍵盤数88鍵
モデル200cmグランド:鍵盤数88鍵
セミコンサートグランド225cm:鍵盤数92鍵
フルコンサートグランド275cm:鍵盤数92鍵
フルコンサートグランド290cm:鍵盤数97鍵
1989年(平成元年4月)のプライスリストでは価格12,420,000円で当時スタインウェイよりも高価でした。

アップライトピアノ130studio:鍵盤数88鍵(高さ132cm)

ベーゼンドルファーの響板に書かれたサイン →★

<附録>
ベーゼンドルファー 製造番号/製造年代 対照表(1828年~1986年) →★
<上記データより新しい製造番号> 1990年・・・40384  2001年・・・45965

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
L. ベーゼンドルファー・クラヴィアファブリック(L. Bösendorfer Klavierfabrik)GmbHは、
オーストリアに所在するピアノ製造会社である。2008年からはヤマハの完全子会社。
標準的な88鍵のピアノに加えて、低音部が拡張された92鍵および97鍵のピアノを製造していることで知られる。
1828年、オーストリア・ウィーンにてイグナーツ・ベーゼンドルファーにより創業された。
以来、各国の帝室や王室の御用達として選定されたり、産業博覧会で入賞したりするなど、
名声を高めていく。第二次世界大戦後の一時期、経営難に陥って経営が
アメリカの企業体に移ったこともあったが、2002年にオーストリアの銀行グループである
オーストリア労働経済郵便銀行が経営権を取得して、名実ともにオーストリアに復帰した。
しかし2007年再び経営難に陥り、2008年にヤマハの子会社となった。
ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで
多くのピアニストや作曲家の支持を得て、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、
その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。
ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。
ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。
最近のピアニストではアンドラーシュ・シフ、パウル・バドゥラ=スコダ、イェルク・デームス、
フリードリヒ・グルダ、ギャリック・オールソン、ヴァレンティーナ・リシッツァも
ベーゼンドルファーのピアノを好んで用いている。
また、スヴャトスラフ・リヒテルも何枚かの録音を残している。
かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの
公式ピアノの一つであったが、のちにヤマハとカワイとファツィオリが採用されたことにより
公式ピアノから除外された。ウィーン・ベートーヴェン国際ピアノコンクールでは、
使用ピアノがベーゼンドルファーだけと決まっている。
「インペリアル」とも呼ばれる最上位機種のフルコンサートグランドピアノ「モデル290」が
ベーゼンドルファーの代表機種で、標準の88鍵の下にさらに4〜9組の弦が張られ、
最低音を通常よりも長6度低いハ音とした完全8オクターブ、
97鍵の鍵盤(エクステンドベース)を持つピアノとして有名である。
これはフェルッチョ・ブゾーニがJ.S.バッハのオルガン曲を編曲したとき、
低音部に標準のピアノでは出せない音があったため、ルードヴィッヒ・ベーゼンドルファーに
相談したことが始まりと言われている。エクステンドベースが追加されたことによって
弦の響板が広がり、共鳴する弦も増えて中低音の響きが豊かになった。
しかしそのため、しばしば一部のピアニストからは「中低音の響きは豊かだが、
高音とのバランスを考えて弾かなければならず、弾きこなすのが難しいピアノだ」と言われる。
以前は、拡張域の鍵の部分に小さな蓋を付けることで、一般の曲の演奏時に誤打を防いでいたが、
現行品では白鍵も黒くすることで区別している。音色は至福の音色と呼ばれる。
ベーゼンドルファーのピアノは1年以上の月日をかけて全工程を手作業で作られている。
代表的なモデルでは井形に組まれた強固な支柱の上にスプルース材のブロックを積み上げて
インナーリムを製作し、それに比較的薄いスプルースからなるアウターリムを張り合わせることで、
ピアノ全体がスプルース材を介して豊かな中低音を響かせる設計となっている。
現在までにベーゼンドルファーが生産したピアノは50,000台ほどで、
およそヤマハの100分の1、スタインウェイの10分の1である。
市場拡大のため、それまで経済的な理由で同社の標準モデルを導入できなかった
大学などの教育機関向けにコンサーヴァトリーシリーズ(Conservatory Series)を設計した。
生産の過程で「non-critical areas」と呼ばれる生産ラインに依存する時間を短縮することで
生産コストを削り、標準モデルより安価に提供できるシステムを構築している。
ベーゼンドルファーの創立170周年や175周年にフランツ・シューベルトや
フレデリック・ショパンなどの有名な作曲家にちなんで名付けられ、設計された特別、
限定モデルのピアノなどがある。近年の特別限定モデルとしては、
オーストリアの画家グスタフ・クリムトの代表作「KISS」を天板にあしらった
クリムトモデル、ベートーベンの月光の自筆楽譜をあしらったベートーベンモデルなどがある。
また、2013年、生産台数5万台到達を記念して1台限定生産の5万台記念モデルが造られている。
ベーゼンドルファーは100年以上前から著名な建築家やデザイナーを起用した特別モデルを制作している。
1866年にウィーン楽友協会等の設計で知られる建築家のテフォイル・ハンセン(Theophil Hansen)、
1909年にヨーゼフ・ホフマン、そのほかJosef Frank、フェルディナント・アレクサンダー・ポルシェや
アウディのデザインスタジオ等がベーゼンドルファーのピアノをデザインしている。
1990年に建築家のハンス・ホラインがデザインしたベーゼンドルファー・インペリアル・
グランドピアノは世界に2つしかない。1つはアメリカ、フロリダ州オーランドの
ウェスタン・グランド・ボヘミアン・ホテルにあり、もう1つは中国の上海にある。
1つ目のオーランドにあるピアノは1本の木の80%が使用され、それぞれの真鍮脚には
一本あたり約160万円の価値があるとされ、2つあるホライン設計のピアノには
それぞれ約3000万円の価値があるとされる。
日本国内では、過去に総代理店として日本ベーゼンドルファーが本社(静岡県磐田市)のほか
東京都中野区、大阪市淀川区の三カ所にショールームを所有していた。
本社ショールーム内に設けられているアンティークピアノのコレクションは
ベーゼンドルファーのみならずベートーヴェンの時代のジョン・ブロードウッドや
ショパンの時代のプレイエル、エラールなどの有名ブランドの他に、ピアニストの
アルフレッド・コルトーが所有していたダブルグランドピアノやジラフピアノといった
極めて珍しい形のピアノもコレクションされていた。
しかしウィーン本体側がヤマハに買収されたことにより2007年11月27日付で
日本ベーゼンドルファー(株式会社浜松ピアノセンター)は倒産し、
各地のコンサートホールの運営ならびに調律、修理などの事業は株式会社ビーテックジャパンに
引き継がれ、ベーゼンドルファーの技術メインテナンス会社として製品を維持している。
ヤマハが株式会社ベーゼンドルファー・ジャパンを発足し、東京都中野区に本社ショールーム、
静岡県浜松市にテクニカルサポートセンターを構え、東京、大阪に特約店を設置するなどした。
その後、2009年9月1日付けのベーゼンドルファー・ジャパン・グループ内のプレスリリースには、
株式会社ベーゼンドルファージャパンはヤマハ株式会社へ事業譲渡されると発表されている。
なお、2009年11月30日付のプレスリリースでは、テクニカルサポートセンターは、
静岡県掛川市に移転されたことが発表された。
2000年代初頭にオーディオ機器(スピーカー)の開発・製造をしており、日本国内では
オーディオ関連商社である株式会社ノアの手で輸入されていたが、ヤマハ傘下になり撤退した。
現在、ベーゼンドルファースピーカーの設計者が、創業者イグナーツがかつて在籍しており、
ヤマハとベーゼンドルファーの買収競争もしたオーストリアのピアノブランド、
ブロードマンに移り、Brodmann Acousticsとして販売されている。


ベーゼンドルファーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BOSTON

BOSTON

画像クリックでHPへ戻る

ボストン BOSTON
所有:スタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズ・インコーポレーテッド
製造:株式会社 河合楽器製作所(日本)

ボストン・ピアノ・カンパニーは1991年に、最高音質のピアノを中価格帯で生産するために、
スタインウェイ・アンド・サンズとカワイが提携して作られた会社。
当時のスタインウェイ社の中心的なオーナーたちが、日本の河合楽器製作所に作らせたピアノです。
スタインウェイ社の経験を生かし、精巧なコンピューター技術を駆使して設計と材料のテストを重ね、
このボストンピアノの開発には6年の歳月が費やされたといいます。
ハイテクを使い、量産とコストダウンを目的に作られた楽器と言えるでしょう。

<特徴>
ボストンのグランドピアノは、同サイズの他社のグランドピアノよりも後部の幅が特に広く設計されている。
これを「ワイドテール設計」と呼びます。
そのため、響板の面積が広く取れるため、音がより大きく鳴るとされています。
尚、デュープレックス・スケールにより、楽器自身の音に加えて、倍音による豊かな響きが加わるとのこと。
さらに、音の減衰を抑える(音を長く保持)させるため、スケールデザインは低めの弦長力で設計されている。
2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<附録>
ボストン 製造番号/製造年代 対照表(1991年~2000年) →★

ボストンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BOUDOIR ドイツ 読み方その他詳細不明
BRADBURY


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブラッドブリー BRADBURY PIANO CO. INC. アメリカ

このピアノは賛美歌や歌曲を多く残した作曲家ブラッドブリーによって作り出されたピアノで、
その名が付けられた。コンパクトな美しい作りと、優れた音色を持っている。
主として家庭向きのピアノでモダンな形が多く、当時シカゴに販売店があった。 

ブラッドブリーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BROADWOOD & SONS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブロードウッド・アンド・サンズ

イギリス(ストラウド) ブロードウッドは多くの演奏者に愛用され、ヨーロッパ各地の王室に納入された。
1780年から1867年のブロードウッドの生産台数は驚異的で、13万5千台ものピアノが作られた。
ジョン・ブロードウッドはモダンピアノの音色や外観、演奏機構に大きな衝撃を与えたという。
ブロードウッドは一流の音楽家や熟練した同業者に囲まれ、永遠の価値を持つ革新的発想を生むための
最高の環境に恵まれたのである。

1783年、ブロードウッド社は2本ペダルのピアノの製作を開始した。
片方のペダルはダンパーを弦から離すもので、もう片方は弦に柔らかい布を当てて
音を弱めるものだった。それまでの操作しづらい膝レバーは、これらのペダルに
取って代わられた。1817年にトーマス・ブロードウッドはウィーンのベートーヴェンを訪ね、
翌1818年にグランドピアノを贈った。それは6オクターヴの広い音域を待ち、3本弦だった。
このピアノは後にリス卜が所有し、現在はハンガリー国立博物館が所蔵している。

1888年、ブロードウッド社は『バーレス』と呼ばれるフレームの特許を取得した。
この圧延綱(あつえんこう)のフレームは外縁部にかかる弦張力に耐えられる強さを持ち、
ストレスバー(弦方向に伸びる数本の鉄骨)を必要としない。
ストレスバーは駒の質量を犠牲にするため、音を弱めてしまう欠点があるためだ。
グランド、アップライトともに、この「バーレス」のピアノが作られた。
ショパンもリストも、イギリスにおける最後の演奏会ではブロードウッドの
グランドピアノを弾いた。リストはこのメーカーの推薦を頼まれ、
『ブロードウッドのように長く持つピアノフォルテは他にない』と書いたという。

1875年、ネアズ隊長率いるイギリスの北極探検隊は、HMSディスカバリー号に
ブロードウッドの小型アップライトピアノを積んで出発した。
また1910年にはブロードウッドの自動演奏ピアノがスコット隊長の南極探検に持参され、
最初のベースキャンプの氷上で演奏されたという。

<歴史>
1732年にスコットランドで生まれ、家具職人の修業を積んだジョン・ブロードウッドは、
1761年にロンドンへ出て、著名なチェンバロ製作者のバーカット・シューディのもとで働く。
1770年にシューディの娘と結婚し、翌年にはロンドンのグレート・パルトニー通り33番の
義父シューディの工房を任される。その工房ではモーツァル卜が演奏したこともあり、
またシューディの親友だったヘンデルはそこで多くの曲を作曲した。
1760年代には、新たに登場した楽器ピアノフォルテがロンドンで話題を呼んでおり、
ジョン・ブロードウッドはこの楽器にますます魅了されていった。
シューディが亡くなった1773年、ブロードウッドはネームボードに「Johannes Broadwood」
(当初は「John」ではなく「Johannes」と署名)の名を入れた最初のスクェアピアノを売り出す。
そしてその8年後に最初のグランドピアノを発売する。
ピアノという新たな市場に専念するため、ブロードウッドは1793年をもってチェンバロの製造を終了。
(※1791年にチェンバロ製造をやめたという文献もあるが詳細不明)
そして1807年に息子のトーマスとジェームズが共同経営者になった際に、社名を
「ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ』に改めた。
1780年から1867年の間のブロードウッド社のピアノ生産高は驚異的で、135,344台ものピアノが生産され、
その中の30,481台がグランドピアノだった。
あらゆるタイプのピアノにおける主要な改良はブロードウッド社によってなされた。
ブロードウッド社はアクションとストラングパック(鍵盤とアクション以外のピアノ本体)の設計で
いくつもの特許を取得している。総木製だった従来のピアノに鋼鉄の棒と金属のヒッチプレートを
いち早く取り入れ、それまでの単一の駒を分割して低音部に独立した駒を設けた。
また、操作しにくい膝レバーを廃止し、代わりに特許を取得した「ピアノとフォルテのペダル」を導入する。
さらにブロードウッド社はイギリス式グランドアクションを改良し、ハンマーが弦を押さえつけたままにならない、
素早いレぺティション(連打)を初めて実現させた。その機構は19世紀後半まで採用され続けた。
前途洋洋に見えたブロードウッド社も、無敵というわけではなかった。19世紀には、世界最大の
ピアノメーカーというイメージを揺るがしかねない大打撃を二度受けている。
一度目は、1821年にエラール社がグランドピアノのレペティション・アクションの特許を取得したことで、
そのあとに国王ジョージ4世がエラール社の楽器を注文したのだ。
このことはジョージ2世の時代から英国王室御用達を守り続けてきたブロードウッド社にとって脅威であった。
そして1851年、ブロードウッド社を窮地に追い込んだのは、またしてもエラール社だった。
今度はロンドン大博覧会で金賞を獲得したのだ。
その後の数年間にブロードウッド社は別のいくつかの博覧会で金賞を受賞し、またジョージ4世以降の
王や女王にもピアノを納めることができて、名誉を挽回したものの、会社の運気は下降し始める。
しかし、1860年代に生産された小型アップライトピアノの人気が状況を好転させるきっかけとなり、
19世紀の終わりごろには、ストレスバーが不要となる革新的な圧延鋼(あつえんこう)フレームの設計が
導入された。1903年にグレート・パルトニー通りの歴史的な建物は取り壊され、会社は東ロンドンの
ハックニーへ移転する。このときのオーナーはシューディ=ブロードウッドの6代目だった。
その後、自動演奏ピアノの完全自社生産が始まるが、会社の財政難は解消されなかった。
皮肉なことに、ブロードウッド社を財政危機から救ったのは、1914年の第一次世界大戦勃発であった。
戦争により多くのピアノ製造業者は廃業を余儀なくされたが、ブロードウッド社の工場は飛行機の
製造を許可され、一機につき125ポンドの収入を得ることができたのだ。そのため、少なくとも経済的には
終戦まで乗り切ることができた。終戦により儲かる戦時中の仕事はなくなり、ピアノ生産が再開された。
しかし、1939年に再び戦争が勃発すると、政府の規定によりピアノ製造会社は合併を強いられることになった。
そしてブロードウッド・ピアノの生産は、サウスロンドン、クラパムの、ウェルプデール、
マックスウェル・アンド・コッド社の工場へ移った。以後20世紀の終わりまで、ブロードウッド・ピアノは
同社のライセンスのもと、ウェルプデール・マックスウェル・アンド・コッド社で生産された。
広範にわたる再編を行い、また時代の変化に合わせてグランド、アップライト、自動演奏ピアノの生産を
切リ変えながらブロードウッド・アンド・サンズは生き残り、驚くほど長い歴史を築き上げてきた。
今日、ブロードウッドのピアノは、2000年にストラウドに設立されたブリティッシュ・ピアノ・
マニュフアクチャリング・カンパニーによって生産されている。
同社はまた、ベントレー、ナイト、ウェルマー、ウッドチェスターなど、ほかのイギリスのブランドの
ピアノも製作している。

<附録>
ブロードウッド・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1932年~2000年) →★

ブロードウッドアンドサンズのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BRASTED BROTHERS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブラステッド・ブラザーズ BRASTED BROTHERS LIMITED イギリス その他詳細不明
BRODMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ブロッドマン オーストリア 詳細不明
BRINSMEAD JOHN BRINSMEAD の項目へ

BROTHER

BROTHER piano

BROTHER ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

ブラザーピアノ
ブラザー工業株式会社/ブラザー楽器(名古屋)

ブラザーミシンが自社の販売網を活用するためにアトラスピアノに発注したピアノ。
ミシンの会社がピアノを販売していた時代もあるんですね♪
他例として家電メーカーのナショナルや、音響機器メーカーのビクターもピアノを委託製造していました。

機種バリエーション GU-172、GU-101、GU-107など

ブラザーのアクション全体写真 →★  ブラザーのまくり(蓋)部分のブランド銘柄 →★

ブラザーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BRUEGHEL



画像クリックでHPへ戻る
ブリューゲル/(ブルーゲル)

浜松、坂本ピアノ製造(大成ピアノ製造の前身)で作っていたピアノ
※似た名称あり 注:フルーゲルとは異なる
ブリューゲルのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

ブリューゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BRUGMULLER

BRUGMULLER ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

ブルグミューラー/ブルグミュラー

磐田市の日本シュバイツァー(株)で作っていたブランド

ブルグミュラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BUCHHOLZ


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
BUCHHOLZ ブッホルツ/ブホルツ

東京蒲田楽器製作所(蒲田ピアノ) 大田区蒲田
斉藤喜一郎氏によって、大田区蒲田で作られていた。
ブランド名は斉藤氏の夫人でドイツ人のブッホルツの名に由来しているという。
現在のウィスタリア・ピアノ製作所。

<ウィスタリア・ピアノ歴史抜粋>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッホルツ」および「ホルーゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。
ブッホルツのまくり部分の銘柄マーク部分 →★

ブッホルツのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

 

     

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

C. BECHSTEIN BECHSTEIN(→ベヒシュタインの項を参照)
C,HERMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
C, ヘルマン 井ヅツ楽器(株)大阪

U-110W、U-110M、U-5C、U-7C の四機種があった。
C,THWAITS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
C, ツワィス 日本 詳細不明
CABLE



画像クリックでHPへ戻る
ケーブル CABLE PIANO CO. エオリアン・アメリカン・コーポレーションの子会社
工場:オレゴン州 販売店:シカゴ
詳しくはAEOLIAN(エオリアン)の項を参照

ケーブルピアノの美しい木目調の外観 →★ ケーブルのまくり(フタ)部分の銘柄マーク →★
ケーブルピアノに貼られた各シール類 →★  →★

ケーブルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
CABLE-NELSON


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
CABLE-NELSON PIANO CO. ケーブル・ネルソン

1903年シカゴで創業。その後ミシガン州に移り、
1926年にボストンのエベレットピアノ(EVERET PIANO)と合併。
ケーブル・ネルソンのブランドによるピアノは、創業以来合計40万台作られたといい
エベレットピアノの廉価版として広く販売された。

尚、この会社ではKINGSBURY(キングスブリー)、WELLINGTON(ウエリントン)、
SCHILLER(シーラー)というブランドも作っていました。

ケーブルネルソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
CALACE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カラチ 佐藤商会(名古屋)が戦前に取り扱ったもの。
CALISIA カリシア(ガルシア?) ポーランド Since 1878 その他詳細不明
CALISIA シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
CAPMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キャップマン イタリア 詳細不明
CARL SEILER



画像クリックでHPへ戻る
カールザイラー

製造:(株)プルツナーピアノ(浜松)
発売元:三協ピアノ株式会社(浜松)

プルツナーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたピアノ。
発売は三協ピアノ株式会社。
フレームのメーカーロゴは持ち合わせておりませんが、調律師の心をくすぐるトレードマーク。
音叉の後ろにチューニングハンマー2本を交差させたデザインです。
回りの星形はチューニングハンマーのチップ(差し込み部分)をイメージしています。

カールザイラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CARL STEINBERG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
宜昌金宝楽器製造(中国湖北省宜昌市)/Yichang Jinbao Musical Instrument Manufacturing Company
シンガポールに販売店があるようですが詳細不明
CARL STEINMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カール・スタインマン ドイツ(ドレスデン) 詳細不明
CARLBEKE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カールベッケ ドイツ 詳細不明
CARL HARDT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カール・ヘルト/カールヘルト
CARL HARDT イギリス? 詳細不明

※下記、フクヤマピアノ製造のカールヘルトとスペルが違うところに注意
CARLHERT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カールヘルト

発売元:福山ピアノ社(東京)、製造:大成ピアノ製造(浜松)
福山ピアノ社が販売したブランド。

カールヘルトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CARL MAND
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
カール・マント(Carl Mand、1811年10月27日 - 1892年8月28日)は、
ドイツのピアノ製作者であった。
カール・マントの経歴に関する情報はわずかである。
彼の父はコブレンツ近郊のホルヒハイムの指物師・ワイン醸造家であった。
彼の邸宅の近くにベルリンの銀行家メンデルスゾーンの別荘があり、
時折フェリックス・メンデルスゾーンが訪れていた。
メンデルスゾーン家は最初にカール・マントの兄弟ニコラウス(Nikoraus)に
ウィーンで音楽とピアノ製作の知識を深めるよう働き掛けた。
しかしながら、ニコラウスが病気になると、カールがウィーンへの旅を始めた。
カールは1827年か1835年までウィーンでピアノ製作者として働いた。
帰郷後、カールはコブレンツで自身のピアノ製造会社を設立し、
この会社はその後数十年もの間大きな成功を収めた荒るそのため、
マントは宮廷御用達称号を得て、彼の会社を自信を込めて「19年間最高賞のみ
(国際博覧会での11の賞を含む)を受賞している世界唯一の工場」と呼んだ。
1909年、マントの会社はコブレンツを拠点とするピアノ製作者ハインリッヒ・クラウス
(Heinrich Knauß)によって買収され、同年にRheinische Pianofortefabrik AG
(ライン・ピアノ工場株式会社)となった。
会社は1911年にKapplerによって買収され、1928年に生産が終わった。
カール・マントの現存する楽器の大半は個人によって所有されている。
コレクションはエーレンブライトシュタイン城塞にあるコブレンツ州立博物館で維持されている。
1900年頃に建築家・デザイナーのヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された
独特なデザインのグランドピアノは、ベルリン楽器博物館に展示されている。
この八角形のマント=オルブリッヒ・グランドピアノには他のモデルも存在し、
入り組んだ装飾を持つ黒色モデルはダルムシュタットのMathildenhöheにある。
カール・マントが特許を取得したベル・グランドピアノ(Glockenflügel)および
Eckflügelはとりわけ特殊である。
これらの特に小型のグランドピアノは場所を節約するために部屋の角に置くことができる。
CARLZEILER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カールザイラー 大洋楽器(浜松) 詳細不明(プルツナーピアノのカールザイラーとは違うのか??)
CAROD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キャロッド 中国(湖南省長沙市) 2014年~ 詳細不明
HP:http://www.carodpiano.net/
CAROL OTTO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
C.OTTO  販売:デーリング商会(横浜)※

キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー  (CAROL OTTO/Carol Otto)

ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。

※デーリング商会は1874年横浜で創業

キャロルオットーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CASTELLO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カステロ イタリア 詳細不明

CASTLE

CASTLE ピアノ

CASTLE PIANO

画像クリックでHPへ戻る

キャッスル

六郷ピアノ(大田区六郷 →後に茨城県土浦)
田中貞三氏が田口氏の協力を得て、初め六郷で、後に茨城県土浦で製造した。
2種類あって音は良かったが、外装に厚い材料を使用していたため温度に弱かったとのこと。

当時としては大変珍しく曲線を意識した脚が特徴的です。

キャッスルまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄 →★  キャッスル全体写真 →★

キャッスルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

CHAIKA →TCHAIKAの項目へ
CHAIKOVSKY →CIAIKOVSKYの項目へ

H, CHALLEN

H, CHALLEN

画像クリックでHPへ戻る

チャーレン イギリス/ロンドン
1986年からはマレーシア西部で作れれている

チャールズ・H・チャーレンは1804年にすでに最初のピアノを製作していたと考えられているが、
イギリスのピアノメーカー、チャーレン・アンド・サンズは1830年に設立された。
チャーレンといえば信頼性と耐久性であり、そのピアノの音質は高く評価されている。
チャーレン・ピアノは英国放送協会(BBC)で頻繁に使用されている。

チャーレン社は小型のグランドピアノでよく知られているが、1935年の英国王ジョージ5世即位25周年には、
世界最大のグランドピアノを製作したというエピソードがある。
全長355センチ、弦の総張力は30トンあったそう。

19世紀の最後の四半世紀から20世紀の最初の四半世紀にかけて、チャーレン社は年問約500台の
高品質のピアノを生産していた。この会杜に好機をもたらしたのは、1926年に新社長に就任した元チャペル社の
ウィリアム・エヴァンスだった。
エヴァンスは、チャーレン社が20世紀の初めに開発した全長152cmのベビーグランドピアノを再開発する。
大量生産技術の導入により、チャーレン社はこの楽器の価格を125ポンドから65ポンドに下げることに成功し、
その結果、ベビーグランドはイギリスの家庭からアップライトを追い出すほどの人気となった。
ほとんどのピアノ製造業者に打撃を与えた1930年代の大恐慌も、チャーレン社には影響を及ぼさなかったといい、
ピアノの生産高は1925年の500台から、1935年の2,500台にまで跳ね上がった。
チャーレン社は1932年にブロ―ドウッド社のピアノの生産を引き受け、また1936年には、
スタインウェイ社、ベーゼンドルファー社とともに、BBC(英国放送協会)にピアノを供給する契約を取り付けた。
これによりチャーレンピアノの音がイギリス中の家庭で聞かれるようになった。
1959年のウィリアム・エヴァンスの引退に伴い、チャーレンのブランド名はブラステッド・ブラザー社に売却され、
その後1970年に同社が消滅した際に、バラット・アンド・ロビンソン社へ移った。
1986年からチャーレンピアノは、ヴィエナ・ミュージック・Sdn・Bhd社の工場部門であるミュージカル・
プロダクツ・Sdn・Bhd社によって、マレーシア西部で組み立てられている。

<附録>
チャーレン・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~2000年) →★

チャーレンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CHAPPELL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
THE CHAPPELL PIANO CO.,LTD.
/Chappell & Company チャペル・アンド・カンパニー
イギリス チャペル社  ※所有:ワーナー・ブラザーズ

チャペル社といえば、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている風変わりな
スクエア・グラス・ピアノで有名。この楽器には弦の代わりにガラスの棒が取り付けられており、
ダウンストライキング方式のハンマーで叩く仕組みになっている。
チャペル製のコンサートグランドは非常に変わっていて、最高音部に3本ではなく 4本の弦が張られている。

リヒャルト・シュトラウスはチャペル・ピアノについてこう書いている。
「音色は極めて甘く、共鳴しやすい音質。タッチはとても反応が良く、軽い。
英国のメーカーのこのような完璧な楽器に出会えたことは、私にとって素晴らしく快い驚きだった」と。

すでに楽譜出版社を始めていたサミュエル・チャペルと、ヨハン・クラーマーと、フランシス・ラトゥールは、
1811年にチャペル・アンド・カンパニー社をロンドンに設立した。
その後、彼らの会社は1840年代にようやくピアノの製造を開始し、「ウェア・ルーム』と称する
特別なショールームで展示販売を始めた。
クラーマーはロンドンで人気の作曲家、音楽教師であったため、彼自身が店にあるすべてのピアノを
選んだということは、ライバル会社に差をつける良い宣伝になった。
楽譜やピアノの販売の他に、チャペル社はロンドン内のコンサートのプロデュースも行うようになり、
フィルハーモニック協会と密接な関係を築いた。
1840年にチャペル社はロンドンのソーホーでピアノを製造するようになるが、生産量が増えると、
チョークファームの工場へ移転した。
1901年にチャペル・ピアノ・カンパニーとパブリッシング・カンパニーが分離すると
ピアノの生産高は増大し、1920年代と30年代は年間1,000台も生産された。
1929年にチャペル社はアリソン・ピアノ社とカラード・アンド・カラード社を買収し、さらに1938年には
ジョン・ストローメンガー・アンド・サンズ社を買収して規模を拡大した。
1968年、フィリップス・レコード・カンパニーがチャペル・カンパニーを1750万ポンド
(2550万米ドル)で購入する。
そしてワーナー・チャペル社が所有するケンブル社がライセンスのもと、
2000年までチャペル・ピアノを製造した(ワーナー社は独占権を保有し続けている)
今もボンド通りにはチャペルの店があり、楽譜や楽器を販売している。

チャペルピアノのまくり(フタ部分)にある銘柄ブランドマーク →★

<附録>
チャペル・アンド・カンパニー 製造番号/製造年代 対照表(1840年~1969年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チャペル& Co.(Chappell & Co.)は、かつて存在したイングランドの企業である。
音楽出版とピアノ製造を行っていた。
1810年にサミュエル・チャペル(c.1782年–1834年)によって音楽教授Francis Tatton Latourと
ヨハン・バプティスト・クラーマーと協力して創業された。
クラーマーは有名なロンドンの作曲家、教師、ピアニストでもあった。
会社の店舗には複数のフロアにピアノやその他の楽器(販売または貸し出し)、楽譜のための広い展示室があり、
ボンド・ストリートの目立つ目印となった。チャペルはロイヤル・フィルハーモニック協会の創設にも取り組んだ。
チャペル社の評判は急成長し 、1819年にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが出版したいと
思っている作品に関して仲間に手紙を書いている;
「ポッターは、ボンド・ストリートにあるチャペルが現在最良の出版社に一つだと言っている」。
サミュエル・チャペルは1834年に死去し、長男のウィリアム・チャペル(1809年–1888年)が会社を引き継ぎ、
母のエミリー・チャペル(旧姓Patey)の代理として会社を経営した。
1843年頃、ウィリアムはクラーマー& Co. に加わり、その後パーシー協会と音楽古物研究協会
(Musical Antiquarian Society)を設立した。
弟のトーマス・ペティー・チャペル(1819年–1902年)が次に経営を引き継いだ。
最初は音楽出版と演奏会の主催に専念していたチャペル社は1840年代にピアノ製造を始めた。
トーマスはチャペル& Co. の出版事業を拡大し、ミュージカルに関する出版に重点的に取り組んだ。
これは今日もチャペルの成功にとって重要である特異分野である。
チャペル社は楽譜販売のための市場を作ることになるかもしれないコンサートやオペラ、その他の催しを主催した。
トーマスはチャペル家が部分的に所有していたセント・ジェームズ・ホールにおける月曜から土曜までの
ポピュラーコンサートを思い付き、出資した(1859年)。
このコンサートは弟のサミュエル・アーサー・チャペルによってうまく運営され、1901年まで続いた。
トム・チャペルの成功の一つはギルバート・アンド・サリヴァンのオペラとアーサー・サリヴァンのその他の楽曲、
古いグノーのオペラ『ファウスト』、バルフのオペラ『ボヘミアの少女』の出版であった。
トーマスは王立音楽大学の最初のDirectorの一人やロイヤル・アルバート・ホールの最初の
支配人の一人でもあった。トーマスは1902年に死去した。
トーマスは音楽出版社協会の創設メンバーであり、協会の初代会長となり、
1881年から1900年まで会長職を務めた。
20世紀の間、チャペル社はイギリスで一流の音楽出版社・ピアノ製造業者となった。
1964年、建物が火災で破壊されたが、その後に再建された。
1970年代末までに、チャペル社はミュージカル作品(ロジャース&ハマースタインなど)の出版で有名な
世界的一流音楽出版社となった。1980年、チャペルは小売事業を売却し、音楽出版のみに専念した。
ロンドンのボンド・ストリートの店舗はヤマハピアノの大流通業者であったケンブル& Co.によって購入され、
ケンブル社はチャペル・オブ・ボンド・ストリートの名称でこの楽器店を経営した。
チャペル& Co. の出版事業は後にポリグラムによって、1987年にはワーナー・ミュージック・グループによって
2億米ドルで買収され、ワーナーの音楽出版部門と合併してワーナー/チャペル・ミュージックが設立された。

チャペルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CHARIS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
チャリス/カリス? CHARIS

東洋ピアノ販売  韓国製造 その他詳細不明

※東洋ピアノが扱っていたBÖCKLER(BOCKLER)/ベックラーというピアノのトレードマークと
まったく同じマークということが分かります(文字の部分を除いて)

ちなみに、ドイツ製の「グロトリアン・チャリス」とはまったく別のピアノです
CHERNY チェルニーの正しいスペルはCZERNYです。
→この下方、CZERNYの項目へ
CHEW
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
→S. CHEW(周ピアノ)の項目を参照
CHIKERING & SONS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
チッカリング・アンド・サンズ アメリカ(ニューヨーク)
CHICKERING & SONS

創業1823年。エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品。
※エオリアン(AEOLIAN)の項目も参照

チッカリングは19世紀中盤は一流のメーカーとして君臨していたのは皆様ご存知だと思います。
なんといってもチッカリングを有名にしたのは、現代のピアノを決定づけたといってもよい、
鉄のフレームの特許をとっていることです。
1867年にはパリの世界博覧会で金メダルもとっています。
この金メダルをとったピアノもリストに献呈され、リスト・アカデミーの院長室にあるようです。
リストは贈呈されたチッカリングのピアノが運ばれてきたとき、大感激して2時間も弾きつづけたという。

<歴史>
1823年、ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトを製作。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念する。
1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおけるピアノ製造の基礎を築いた。

<附録>
チッカリングピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チッカリング&サンズ(Chickering & Sons)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに所在した
ピアノ製造会社であり、優れた品質と設計の楽器の生産で知られていた。
1823年にジョナス・チッカリングとJames Stewartによって「Stewart & Chickering」が創業されたが、
4年後にこの協力関係は解消した。1830年までにジョナス・チッカリングはジョン・マッケイと共同経営者となり、
「Chickering & Company」、後には「Chickering & Mackays」としてピアノを製造した。
1841年に老Mackayが死去し、1853年に会社は「チッカリング&サンズ」として再編された。
チッカリングブランドのピアノは1983年まで作られ続けた。
ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが1823年、
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始した。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトピアノを完成した。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念した。1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおける
ピアノ製造の基礎を築いたといわれている。
1841年に事業を担当していたジョン・マッケイが船で遭難し行方不明となってしまい、このためチッカリングは
経営事業にも直接携わるようになった。ロンドンでピアノメーカーの最高の栄誉賞を受けるなど
ピアノ事業は順調だったが1852年、不幸にもピアノ工場が火災に遭い全焼してしまった。
新工場の再建に着手するも、創業者のジョナス・チッカリングは
1853年でこの世を去った。その頃、工場はチッカリング・アンド・サンズと名称を改めており、
チッカリング社のピアノ製造事業は、ジョナスの長男であるトーマス・E・チッカリングが引き継いだ。
トーマスは商才にたけた人物で、将来を期待されていたが若くして死去した。
トーマスの死後はジョナスの次男であるC・フランク・チッカリングが事業を引き継いだ。
1867年、パリ万博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得したが、その数日後、フランク・チッカリングは
当時のフランスの皇帝であったナポレオン3世に拝謁を仰せつかるという栄誉を受け、
音楽芸術に対する貢献として十字勲章を授けられた。
この頃、ヨーロッパにはピアニストとして名をはせていたフランツ・リストがおり、
チッカリングはリストが滞在していたローマまでピアノを届けている。
チッカリングが製作したピアノが運ばれてきたときリストは感激して2時間弾き続けたという。
また「今日、私はリストの壮麗な音のチッカリングを弾いた」と手紙に記している。
1891年にフランク・チッカリングはニューヨークで死去したが、チッカリング社は1904年に
クォーターグランドピアノと呼ばれる当時世界最小のピアノを製作した。
1909年以降チッカリング社はエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収され、
チッカリング一族は経営から姿を消した。

チッカリングのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

CHIYODA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
チヨダ 千代田楽器 戦前にあったブランド。
CHOPIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ショパン

製造:三高アクション製作所(浜松市薬師町)、及川ピアノ製作所(浜松市)
発売元:三浦ピアノ店(文京区東大前) 

WALDSTEIN ワールドシュタイン(バルトシュタイン)の項目も参照。
戦前から東京文京区東大前の三浦ピアノ店を代理店として売り出された。
ワールドシュタイン(バルトシュタイン)も同様に売り出されていた。

ショパンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CIAIKOVSKY




画像クリックでHPへ戻る
CIAIKOVSKY

チャイコフスキー ロシア(ソ連製USSR) RAZNO製造
スペルは、「CHAIKOVSKY」や「TCHAIKOVSKY」ではないので注意!

フレームのロゴにはRazno(ラズノ)と書いてあります。いろいろな楽器を作っていた会社のようです。
(ベリョースカやウラジミールなど)

このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。
何台か調律したことがありますが、外装、アクション、音色含めかなり酷い作りのピアノで苦労しました。。
※ちなみにあの有名な音楽家であるチャイコフスキーの正しいスペルは、TCHAIKOVSKYです。

チャイコフスキーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CITY LIFE



画像クリックでHPへ戻る
CITY LIFE シティー・ライフ

カワイが作った廉価版ピアノ。
鍵盤が1枚板からではなく、中央部分で継いである2枚の接ぎ合わせ板を使用したり、
フェルトブッシングの代わりに段ボールのような硬い紙を使っていたり、
アクション部品を新たに開発した新素材(プラスチック等)に変更したりしています。
都会の団地向けの小型軽量ピアノということで開発したとも言われています。

シティーライフのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CLAIR


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クレール 日本

東京蒲田楽器製作所の創始者である斉藤喜一郎氏が戦後、
横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立して製作したピアノ。
現在のウイスタリア・ピアノ製作所

<ウィスタリア・ピアノ歴史(抜粋)>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッホルツ」および「ホルーゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。
CLEAR クリアー 詳細不明
COBLENZ
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
Königl. Hof-Pianofabrik 詳細不明
COLLARD & COLLARD


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コラード・アンド・コラード イギリス(ロンドン) 詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
コラード&コラード(Collard & Collard)は、かつて存在したロンドンに拠点とする
有名なアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
社名は2人の兄弟フレデリック・ウィリアム・コラードとウィリアム・フレデリック・コラードに由来する。
1767年、ロンドン・チープサイド通り26番地に音楽販売および製造業者である
Longman & Broderipが設立された。
Longman & Broderipが販売する楽器は、ピアノメーカーのGeib and Guilfordが製造した。
現在知られている最も古いLongman & Broderipの楽器は1770年製の5オクターブの
スクエア・ピアノであり、ボストンの博物館に展示されている。
Longmanの共同経営者は何度か変わり、社名は1771年にはLongman & Lukey、
1774年にはLongman, Lukey & Comp. と呼ばれていた。
1778年に作曲家でピアノ教師のムツィオ・クレメンティが会社に加わり、
会社はLongman & Clementiとなった。
クレメンティの後の共同経営者の一人が木製家具職人のフレデリック・コラードであった。
コラードは楽器製作者として、特に響板の専門家として需要があった。
クレメンティが販売を担当したのに対して、コラードはピアノ生産に責任を持つようになった。
クレメンティは非常に保守的であり、ピアノ製造における革新に反対していた。
ウィリアムとサモシン・コラードの息子フレデリック・ウィリアム・コラードは、
1772年6月21日にサマセット州ウィベリスクームで洗礼を受けた。
14歳の時にロンドンへ移り、Longman, Lukey & Broderipに雇われた。
弟で共同経営者のウィリアム・フレデリック・コラードは、1776年8月25日にウィベリスクームで
洗礼を受けた。ピアノ製造技師および発明家としての才能に加えて、彼は詩や文学にも情熱を持っていた。
1799年、Longman & Co. は経営難に陥り、John Longman、ムツィオ・クレメンティ、
Frederick Augustus Hyde、フレデリック・W・コラード、Josiah Banger、
およびDavid Davisの新会社が事業を引き継いだ。
1800年6月28日、LongmanとHydeが引退し、会社はMuzio Clementi & Co. となった。
しばらくした後、弟のウィリアム・F・コラードが共同経営者として加わった。
1817年6月24日、Bangerが共同経営を下りた。
1831年6月24日、F・W・コラード、W・F・コラード、クレメンティの間の共同経営が終了した。
コラード兄弟は弟のW・F・コラードが引退する1842年6月24日まで事業を継続し、
F・W・コラードが単独の経営者となり、彼の2人の甥フレデリック・ウィリアム・コラードJr. と
チャールズ・ルーキー・コラードが共同経営に加わった。
1832年の後、長年クレメンティの名前で販売されていたピアノのブランドが
「コラード&コラード」と命名された。
多くの特許が取られ、主に演奏機構とフレームシステムの改良が含まれた。
会社はすぐに音楽出版を中止し、ピアノ製造に集中した。
例外として、彼らは1858年までイギリス東インド会社向けのラッパ、横笛、太鼓の製造も行なった
(1858年にインドの統治権がヴィクトリア女王に譲渡され、東インド会社は解散した)
コラードは1851年のロンドン万国博覧会にグランドピアノを出品した。
会社は2度の大火にあった。1807年3月20日、トテナム・コート・ロードにあった工場が全焼した。
1851年12月10日、カムデン・タウン、オーバル・ロードに新たに建設された工場が全壊した。
弟のウィリアム・フレデリック・コラードは1842年にピアノ製造業から引退し、
1866年10月11日にフォークストーンで死去した。
兄のフレデリック・ウィリアム・コラードは1860年1月31日にチープサイド通り26の自宅で88歳で死去した。
彼は1786年にロンドンに着いてからずっと同じ住所に居住した。
より多くのドイツのピアノメーカーがイギリスの市場で成功し始めたため、コラード&コラードは
1900年からイングランドにおけるピアノ製造の落ち込みに巻き込まれた。
1929年、コラード社はチャペル& Co.に買収された。
1963年の火災でコラードとクレメンティの全ての記録が失われた。
1980年、チャペルのピアノ製造および小売事業はケンブル&カンパニー(Kemble & Company)に売却された。
COLORATURA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コロラトゥーラ

製造元:HAILUN楽器(中国) 出荷最終調整:アサヒピアノ(中国人社長、浜松)
ピアノ線(ミュージックワイヤー)は、レスロー弦を使用しているとのこと。

ピアノ自体のの雰囲気や作り、製造&販売背景が私がよく調律する
「ウエンドル・アンド・ラング」というピアノによく似ています。
ピアノの音色はまだ実際に聴いたことがないので感想はまだ書けませんが、
今後、調律する機会があればここに感想をアップさせていただきます。

<参考>
コロラトゥーラとは、クラシック音楽の歌曲やオペラにおいて、速いフレーズの中に装飾を施し、
華やかにしている音節のこと。具体的にはトリルが多用される。
これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルトの歌劇『魔笛』における
第2幕の夜の女王によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。

<ハイルンピアノ詳細:Wikipediaより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、
FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。

ハイルンピアノ公式HP:http://www.hailunpiano.com/
COLTOT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コルトー 内外ピアノ(東京) 詳細不明
CONCERT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コンサート 羽衣楽器製造(株)浜松市 詳細不明

コンサートのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CONN キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
CONOVER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コノーバー ケーブルピアノ社製(アメリカ・オレゴン州)
生涯をかけて音の研究に没頭したJ.フランク・コノーバーが作り出した最高級品質のピアノとのこと

コノーバーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CONSERVATOIRE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コンセルバトワール Conservatoire アトラスピアノが国立音大の研究室で作っていたブランド
※詳しくはアトラスの項を参照

コンセルバトワールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CONSOLE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コンソール 日本 村瀬克己氏 詳細不明
CORBERT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コルベール 日本 小出一三氏 詳細不明
COSMOPOLITAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コスモポリタン 日本 詳細不明
COSMOS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コスモス

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
その他にも違うブランドでピアノを製造していたとの記録あり。

コスモスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CRAMER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
J.B.Cramer クラーマー/(クラマー)
イギリス(ロンドン)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J・B・クラーマー& Co.(J. B. Cramer & Co.)はロンドンにかつて存在した楽器製造、楽譜出版、
音楽販売業者である。1824年にヨハン・バプティスト・クラーマーによって創業された。
ボンド・ストリートにあった建物は1964年に会社がケンブル& Co.に買収された時に閉鎖された。
1824年に音楽家のヨハン・バプティスト・クラーマーとRobert Addison、Thomas Frederick Bealeによって
共同で創業され、「Cramer, Addison & Beale」と呼ばれていた。
ヨハン・バプティスト・クラーマーは1833年末に事業への関与をやめ、
1844年にAddisonはBealeとの協力関係を解消してRobert Hodsonとの事業を始めた。
Robert Hodsonは以前ルイス・ヘンリー・ラベニューと協力関係にあった人物で、
AddisonとHodsonはコンデュイット・ストリートの反対側のリージェント・ストリート210番地にあった
Cramer & Co.の道路の向こう側に「Addison & Hodson」を設立した。
Cramer & Co. 社はその後Cramer, Beale & Co. と呼ばれた。
次にウィリアム・チャペルがBaeleの事業に加わったが、1847年に関係を解消し、
事業はThomas Bealeによって行った。
チャペルは再び事業に加わったが、最終的に1861年に引退した。
当時「Cramer, Beale & Chappell」という名称が出版物上で使用された。
1862年、George WoodがBaeleとの事業に加わり、その期間は「Cramer, Beale & Wood」という
名称が使われた。1864年までに、Baeleは会社を離れ、名称は「Cramer, Wood, & Co.」に変わった。
主な店舗はリージェント・ストリート201番地、コンデュイット・ストリート67番地、
コンデュイット・ストリートとリージェント・ストリートの角にあった。
この住所は1820年代から1890年代までこの会社との結び付きがあった。1873年に会社は
「Cramer's Great City Warehouse」または「Cramer's City Warerooms」と呼ばれた展示場を開業した。
(最初はムーアゲート・ストリート43から46番地、後に40から42番地にも拡大した)
1896年から1901年に主要な店舗はリージェント・ストリート207および209番地に移転し、
その後1902年までにオックスフォード・ストリート126番地に移った。
1912年、主要店舗はニューボンド・ストリート139番地に移され、
1964年にピアノ製造会社ケンブル& Co.に買収されるまでここで営業を続けた。
ケンブルは限られた期間「J. B. Cramer & Co.」ブランドを使い続けた。
CREABEL クリーベル 協立楽器 詳細不明 ※注:他にもクリーベルという名称のピアノあり
CRISTOFORI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クリストフォーリー(クリストフォリ) 発売元:三協ピアノ株式会社(浜松市) 詳細不明

CRISTOFORI

CRISTOFORI

画像クリックでHPへ戻る

クリストフォリ 東洋ピアノ

18世紀にピアノを発明したとされるイタリアのBartolomeo Cristoforiにちなんで
命名されたクリストフォリシリーズ。
家具調のRU-118と木目調ピアノのスタンダードなデザインのRU-121があった。

クリストフォリのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CURRIER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キュリエール CURRIER アメリカ

インターナショナル・ミュージカル・インストゥルメント社
会社名はやや大げさな名前ですが、大衆的なピアノを作る会社で、
工場はノースカロライナにあり、アメリカのピアノ工場としては
10本の指に数えられるほどの大規模な工場です。
ハワイ州、アラスカ州を含むアメリカ50州すべてに代理店を持ち、
ヨーロッパ、南米、カナダ、カリブ海諸島などにも輸出されています。
この会社は歴史こそありませんが、スピネットの小型のものから
一般的なアップライト、そしてグランドにいたるまでその種類は
極めて多く、さらに会社の中に独自の配送部門も持ち。全米各地へ
工場から自社のトラックで輸送が可能だそう。
伝統的な品質を誇るというよりは、販売力で勝負しようとする会社といえよう。

ボストンで同じ名前のキュリエール(CURRIER)というピアノが
作られているが、これとは全く無関係です。
こちらのキュリエール社は100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。

キュリエールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CURRIER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アメリカ ボストン
100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。上記キュリエールとはまったく別の会社です。
CZERNY


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
チェルニー

製造:東洋楽器製造株式会社(広島市)
広島の東洋楽器製造のワグナー、ヒロタに次ぐ第三のブランドでした。

チェルニーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CZERNY チェルニー ロシア(ソ連) 詳細不明

 

     

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

DANEMANN



画像クリックでHPへ戻る
W.DANEMANN & CO. ダネマン イギリス 詳細不明
DAZARL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ダザール 日本 詳細不明
DE HEUG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ベルギー(シャルルロア) 1892年創業

創業者:Pierre De Heug(1867年生~1932年没) 家族経営

1905年、De Heugのピアノはリエージュの万国博覧会に参加し、そこで銅メダルを獲得。
そこで広く知られるようになった。
1908年、大規模な火災によりピアノ工場が焼失するも再建。
1932年にPierre De Heugが亡くなり、Paulは兄弟の株を買い取り、その工場の所有者になる。
1934年、建築士に依頼し、新しい店を建てる。
1938年、会社はパートナー形式の形をとり、「De HeugFréres」となる
その後、会社はピアノ製造にとどまらず家具の製造、とりわけキッチン家具の製造に乗り出す。
1980年、倒産

DECKER BROTHERS

DECKER BROTHERS

画像クリックでHPへ戻る

デッカー・ブラザーズ
創立 1865年 ニューヨーク

デビッド・デッカー、ジョン・デッカー その他詳細不明

デッカーブラザーズのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DEMUSA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
デムッサ

ドイツ(旧東ドイツ)のピアノはすべてデムッサ公団で取り扱われていた。
その他詳細不明
「DEMUSA」はピアノブランドではない。 
DEVOE & SONS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
DeVoe & Sons キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
DH. BALDWIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
DH.ボールドウィン 中国  当時:協立楽器(神戸)で販売
THE中国製。外装はキレイに作られてはいるが、ピン味が悪くその他作りは日本製には及ばずといった感じ。

DHボールドウィンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

DIAPASON

DIAPASON

画像クリックでHPへ戻る

ディアパソン 販売:浜楽商事(株) 製造:浜松楽器工業(株) 現在はカワイの所有するブランド

大橋幡岩氏の設計で、アップライト、グランドともに
すばらしい音色を持ち、低音が特にダイナミックな音色。
浜松楽器当時はヤマハ、カワイに次ぐ第三のメーカーと言われた時代もあり、
たいへん多くの愛好者を持っています。
しかしその後、経営が行き詰まり河合楽器の資本傘下に入りました。
私見としてディアパソンのアクションは非常に出来が良いと思います。
ディアパーソンを呼ぶ人もいます。

一番上のトレードマークは大橋幡岩設計(大橋デザイン)の型番No.132です(S43年製造)
ディアパソンのアクションに貼られたシール →★
ディアパーソンピアノのまくり(蓋部分)にあるメーカーブランド銘柄マーク →★
ディアパソンのフレーム部分にある大橋デザインのマーク →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
株式会社ディアパソン(DIAPASON)は、かつて存在した浜松市のピアノ関連会社である。
DIAPASONブランドのグランドピアノおよびアップライトピアノの卸販売を行っていた。
河合楽器製作所の子会社であったが、2017年6月1日に河合楽器製作所と合併して解散した。
Diapsonはフランス語(および英語)で「音域」や「音叉」の意味。
ディアパソンピアノは2018年現在、カワイの一ブランドとして販売されている。
■1947年 - 大橋幡岩が曳馬木工所を設立し、ディアパソンピアノの試作品を製作。
■1948年 - 大橋幡岩が浜松楽器製作所の技術部長に就任。ディアパソン第1号が完成。
■1949年 - 浜松楽器製作所と曳馬木工所が合併し、浜松楽器工業株式会社が設立。
■1958年 - 浜松楽器工業 (株) が河合楽器製作所の子会社となる。
■1986年 - 株式会社ディアパソン設立。
■2017年6月1日 - 河合楽器製作所と合併しディアパソンは解散。
ピアノの製造はカワイが行っていた。多くのモデルはカワイのピアノを基にして、
天然素材や輸入のアクション部品を組み込んで調整したもので、総一本張りの弦、総アグラフなど
製作に手間のかかる方式を採用している。
会社解散時には、大橋の設計を使用したグランドピアノは全長183 cmのDR-5のみであった。
このモデルは、現在ほとんどのグランドピアノで使われている高音部の倍音を増強するための
デュープレックススケール方式を採用していない。

<ディアパソンHPからのメッセージより>
株式会社ディアパソンは、株式会社河合楽器製作所と平成29年6月1日をもって合併し、
株式会社河合楽器製作所が存続会社となり、株式会社ディアパソンは解散いたしました。


ディアパソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DIAPASON ROYAL



画像クリックでHPへ戻る
ディアパソン ロイヤル

発売元:浜楽商事(浜松) 製造:ディアパソン(浜松) 詳細不明 
ディアパソンロイヤルのトレードマークはディアパソンとは違いますね。

ディアパソンロイヤルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DIETMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ダイエットマン 南アフリカ(ウェリントン Wellington) 詳細不明 

ダイエットマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DOHNERT, GEBR 読み方不明 ドイツ 詳細不明
DOINA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイナ ルーマニア 詳細不明
DOLCE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
DOLCE ドルチェ 日本 詳細不明

※参考:DOLCEとは音楽用語で甘く、優しく、柔らかくという意味

ドルチェのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DONGBEI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドンペイ 中国 詳細不明
DORFER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドルファー

第一楽器(浜松)、新東海楽器(浜松)、(沢根ピアノ製作所?)
沢根覚氏が材料を提供して製作していたものであったと伝えられています。

ドルファーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DOULTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ダルトン?ドルトン? 中国 詳細不明
DREMA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドリーマ ルビンシュタインピアノ製造(株)掛川 詳細不明

DRESDEN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ

ドレスデン DRESDEN

ドレスデンピアノ(株)浜松、大成ピアノ製造(株)浜松市和田町
製造会社が同じなので、クラウスのトレードマークと文字が違うだけでほぼ同じです。
その他詳細不明。

ドレスデンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DUCAT WILLMOTT Ducat Willmott & Co. ダケット・ウィルモット(ダカット・ウイルモット)
LONDON/ロンドン その他詳細不明
DULCITONE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ダルシトーン 富士楽器 (外国ピアノ輸入商会) 詳細不明

ダルシトーンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DUO ART DUO ART (デュオアート?読み方不明) アメリカ 詳細不明
DUYSEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイセン ドイツ 詳細不明
DYNASTY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ダイナスティ 日本? 詳細不明

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

E. GREIG


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イー・グリーグ

発売元:(株)クニユキピアノ商会(東京都神田須田町)
製造元:六郷ピアノ(製造)など
神田須田町にあったピアノ店の国行重槌氏(明治41年生)が六郷ピアノなどに作らせていたピアノ。

イーグリーグのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

EARL WINDSOR

EARL WINDSOR

画像クリックでHPへ戻る

アール・ウィンザー
フローラピアノ製造(株) 浜松市白鳥町792番地(当時)

音色、作りは、まさにTHEフローラピアノといった感じです。

アールウインザーのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  アールウィンザー(フローラ)の保証書 →★

アールウインザーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EASTEIN




画像クリックでHPへ戻る
EASTEIN イースタイン
製造:東京ピアノ工業株式会社(宇都宮市) 本社:東京都(深川)※当時

松尾新一氏(明治35年生)が社長で、松本ピアノ系の技術者を集めて、
戦後、栃木県の宇都宮で念入りに製作したピアノとのこと。
特に、当時グランドピアノは特徴のある小型の良品であった。
ピアノ製造の大部分が浜松に集中する中、イースタインは関東のピアノ工業の一大勢力であった。
機種バリエーション:U型・N型・C型・E型・B型・T型(掲載の画像はT型)

イースタインのキーカバー →★  イースタインのアクション →★  イースタインピアノ内部 →★

<補足:Wikipediaより引用抜粋>
東京ピアノ工業株式会社(とうきょうピアノこうぎょう)は、かつて存在したピアノ製造業者である。
1949年創業。イースタイン (EASTEIN) ブランドのピアノを生産していたことで知られる。
その他、東京ピアノ工業のブランドとしては、森健氏の初期ブランド、UNIVERSAL(ユニバーサル)もある。
当時、本社は東京都(深川)、ピアノ製造工場は栃木県(宇都宮市)にあった。
■沿革
1949年4月発足。発足時の社長は松尾新一、工場長は瀬島利四夫。
1964年、ピアノ調律師の杵淵直知を技術顧問に迎えた。
1973年3月4日倒産。
1973年7月10日社員有志により、自主生産組織東京ピアノ親和会として再発足。
1990年6月15日廃業。

EASTEINというブランド名は、東京ピアノ工業の浜松より東側という意味からの「EAST」と、
スタインウェイ・アンド・サンズ(STEINWAY & SONS)を連想させるSTEINを組み合わせて作られた。
イースタインのブランドは、アップライトピアノではブリュートナーのコピーのB型、
ベーゼンドルファーのコピーのT型などがある。
グランドピアノも製作しており、円形支柱など構造と音色に特徴があるとされる。
→UNIVERSAL(ユニバーサル)の項目も参照

イースタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EASTERN イースタン 日本 詳細不明
EAVESTAFF
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
W.G.EAVESTAFF & SONS イーベスタッフ イギリス(ロンドン)
アクションやチューニングピンが鍵盤の下にあるという珍しいピアノも製造
その他詳細不明

イーベスタッフのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ECHO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エコー 新東海楽器(浜松) 詳細不明
ED SEILER 本当のザイラーは”SEILER”の項目参照
ED SEILER エド・ザイラー フィリピン 詳細不明
EDELSTEIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エーデルスタイン(EDELSTEIN)  シンハイ(SHINGHAI)の輸出向けピアノに付けられたブランド名称
※シンハイ(SHINGHAI)の項目参照

エーデルスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EDELTON


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エデルトン

富士楽器(外国ピアノ輸入商会・東京ピアノ商会)、(周ピアノ)

東京ピアノ商会(外国ピアノ輸入商会改称)で取り扱った国産ピアノの高級品。
周ピアノに発注して輸入部品を使用させていた。
パネルに彫刻のあるものが多かった。 

エデルトンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EHRBER エルバー オーストリア 詳細不明
EKSTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エクスタイン ロシア(旧ソ連製)
チャイコフスキーというピアノと同様のピアノだと思われますが詳細は不明
ELEGANT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エレガント 浜松の中部楽器製造(株) 詳細不明 
ELINGTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エリントン 渡辺商店(浜松) 大成ピアノ製造 その他詳細不明
アメリカ製の”ELLINGTON”と似た名前なので注意(Lが2個)

エリントンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ELISEN & SONS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エリーゼン・アンド・サンズ 中国? 詳細不明
ELIZABETH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エリザベス 小出一三氏 詳細不明
ELLINGTON エリントン アメリカ 詳細不明
ELSNER






画像クリックでHPへ戻る
ELSNER エルスナー

クラウス商事株式会社
→大成ピアノ製造?(販売元:協立楽器)→その後東洋? 詳細不明

トレードマークには「KRAUS PIANO SALES」と書いてあり、タカ(ワシ)のマークが印象的です。
トレードマーク画像は4枚とも「Atelier Sonorite」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

※KRAFT(クラフト)というピアノのトレードマークにもそっくりですが詳細不明。

エルスナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ELSTE エルステ イタリア 詳細不明
ELUZE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ELUZE エルゼ 製造:SAMIC社(サミック) 韓国 象嵌外装が特徴的なピアノ その他詳細不明
 ELYSIAN

画像クリックでHPへ戻る
Elysian チャペルピアノ製造

イギリス(ロンドン) その他詳細不明

EMERSON

EMERSON

画像クリックでHPへ戻る

エマーソン

製造元・販売元
中部楽器製造(株)、フローラピアノ製造(株) 1930年~

エマーソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EMERSON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エマーソン アメリカ ウイリアム・エマーソン作

1849年にウイリアム・エマーソンによって作り出されたピアノで、
「ピアノの音は、その音量より音質が大切である」という理念のもとに
完成された最も美しいピアノの一つとして有名である。
このピアノは「甘い音のエマーソン」として知られ、その後
エオリアン・コーポレーションの製品になりました。

EMPEROR

EMPEROR ピアノ

EMPEROR PIANO

画像クリックでHPへ戻る

エンペラー

製造:河合楽器製作所(株)
カワイのセカンドブランドで音色は非常にまろやかな印象。
メルヘンピアノと同様なピアノです。
私自身、とても好きな音色のピアノで調律もしやすいです。
エンブレムはメルヘンピアノとは違い、カワイピアノと同じです。

エンペラー外装の最大の特徴は、まくり(鍵盤蓋)がグランドピアノと同じ形状です →★

■機種バリエーション
MY202、MY303、MY606、MY707、MY808など

<附録>
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1951年~1988年) →★

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

エンペラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ERARD




このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エラール ERARD

フランス 創業1780年 言わずと知れた伝統あるピアノです。

1820年から1830年にかけてセバスチャンエラールと
セバスチャンピエールは現代のグランドピアノの原型となる
レペティション機構であるダブル・エスケープメント・アクションの
特許を取得するなど数々の画期的なピアノの改良を共同で成し遂げています。

アルフレッド・ドルジはエラールについてこう述べている
「セバスチャン・エラールはその精巧な発明によってピアノを高いレベルへ引き上げ、ピアノはすべての
偉大な作曲家が音の詩を表現するために好んで用いる楽器になった」
※アルフレッド・ドルジはツィンマーマン社を買取り、1890年代中頃まで週に3000台のオートハープを製造。

<歴史>
セバスチャン・エラール/セバスティアン・エラール(1752~1831)はストラスブールに生まれた。
父はドイツ系の指物師エールハルト(Ehrhard)で、セバスチャンも1877年に刊行されたメンデルの
百科事典にはまだドイツ人として出ていたという。
セバスチャンは、子供の頃から父の工場を手伝いながら、職人としての腕を磨くことが出来た。
だが、彼はもともと機械いじりが好きで、学校では幾何が得意な科目だったという。
父を早くに失って、1768年にパリに行き、チェンバロ工場に勤めることになったが、そこの工場では
学ぶことがなかったので、その後他のチェンバロ工場に移り、そこの主人からは彼の才能をはじめから
認めてくれたおかげで、設計から製作まで全てを任せてくれて作ったチェンバロが大成功となった。
このチェンバロはフラジオレットのレジスターとペダルを備えたもので、それがブランシェリー家の
珍品収集館に納められて、パリで評判となり、それに関する1776年の「ジュルナル・ド・パリ」誌の記事は、
そのまま1780年の年鑑にも転載されて、彼の名は一躍注目されるようになった。
そんなことから彼はヴァレロイ候爵の信頼を得て、その宮殿の中に工場を構えて、1777年には当時
フランスに輸入されていたドイツとイギリスのピアノを手本にして、5オクターヴの突き上げ式の
スクエアピアノを完成させる。これがフランスにおける最初のピアノとなった。
エラールの仕事はその後もますます調子ずいて、1780年頃にはストラスブールから兄弟のひとりである
ジャン・パブティストを呼び寄せて、サン・ジェルマンのブルボン街に本格的な店を出すまでに至った。
しかしその後、ピアノを作ろうとするエラールに対し、営業妨害になると考えたチェンバロ製作者たちが
抗議をしたが、エラールはルイ16世から支援を受け、営業権や資材調達などピアノ製作の許可を受けた。
エラールがマリー・アントワネット妃のために「ピアノ・オルガニゼ」を製作したのはこの頃であった。
それは2面の鍵盤を持ったピアノとオルガン兼用の楽器で、切り替えによってオルガンにもピアノにもなった。
1789年、フランス革命によって店は破壊されてしまい、1792年、エラールは拠点をロンドンへ移し、
1796年までパリに戻らなかった。
1800年代の初めに、エラールはグランドピアノの設計の改良を始める。
独立したハンマーフレンジやアグラフ、レペティション・アクションなど、業界で広く使われるようになる
特許を次々に取得していき、1838年にはハーモニックバーの特許を取得した。
19世紀を通して、エラールは絶えずピアノの実験を行い続け、響板の設計やハンマーのサイズの改良、
打弦位置などを改良していった。その他、音色に関する実験も行い、エラールピアノは音楽上の質に対し、
計り知れない良い影響をもたらした。
1831年、セバスチャン・エラールが結石病で亡くなると、甥のピエールが会社を引き継ぎ、
エラールのピアノを有名人や著名な音楽家が使用する楽器として定着させていった。
例えば、エラールを使用していた人物としては、ヴィクトリア女王や、メンデルスゾーン、リストなどが
使っており、ヨーロッパの資産家や音楽家にとって、エラールは入手できるピアノの中では最高の楽器と
見なされていた。1870年代にアラール社は最も洗練されたコンサートグランドピアノを製作した。
そのピアノはかなり力強く響き渡る音を作り出すことが出来て、しかもエラールユーザーが慣れ親しんでいた
エラールの多彩な音色を兼ね備えたピアノであったという。
1914年以降、エラール社の歴史は下降線をたどる。それは2つの世界大戦と大恐慌の影響ばかりでなく、
ドイツとアメリカのピアノがピアノ製作における新たな理想を確立していったからでもあった。
ドイツやアメリカの分厚い音はエラールのクリアな音よりも演奏の粗が目立たないため、アマチュアの
ピアニストにとってはむしろ弾きやすかったためであろうと言われている。
フランス市場が開放されると、エラール社のピアノはドイツやアメリカのピアノに圧倒された。
20世紀を通して、エラールのピアノはErard et Cie(エラール・エ・コンパニー)、
Guichard et Cie(ギリシャール・エ・コンパニー)、Erard et Blondel(エラール・エ・プロンデル)など、
さまざまな異なるブランド名で生産され、1960年にエラール社はガヴォー社と合併した。
1961年にはこの共同企業体にもうひとつの偉大なフランスのメーカー、プレイエルが加わる。
そして1971年には、シンメル・カンパニーが、エラール、ガヴォー、プレイエルのブランド名を買収した。

<エラール社の特徴>
1808年に、エラールはアグラフと、最初のレペティション・アクションを開発した。
この機構により鍵盤が完全に元に戻らなくとも次の打鍵が可能になった。このアクションはさらに
1821年に改良され、現代広く使われるグランドピアノアクションの基礎となったと言われている。
1838年、エラール社は高音弦をしっかり支えるためのハーモニックバーの特許を取得した。
これは現代の多くのピアノが備えているカポダストロ・バーの開発にインスピレーションを与えた。
当初、エラールのピアノは鍵盤が重いとされていたが、その音色は力強くクリアで、コンサート用としては
理想的だった。そのクリアな音色はアマチュアのピアニストが弾くと粗が目立つことが良くあったが、
熟達した奏者なら自分の音を作ることが出来るため、プロの音楽家には好まれた。
1870年代中頃に最初に製作されたコンサートグランドは、GGGからc5まで合計90鍵あった。
ダイナミックレンジは格別に広く、かなり強い音が鳴り、それでいてエラール独特なクリアな音色は
損なわれることなかったといいます。
エラールは、作曲家で有名な、ガブリエル・フォーレと、モーリス・ラベルが実際にエラールピアノを所有し、
クロード・ドビュッシーもその響きに慣れ親しんでいたと伝えられています。

<附録>
エラールピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1800年~1988年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エラール(仏: Érard)は、ピアノとハープを含む楽器のブランドである。
名称は創業者のセバスチャン・エラール(1752-1831年)と、
その甥のピエール・エラール(1796-1855年)に由来。
セバスチャン・エラールによって作られた最初のフォルテピアノは1777年に遡る。
その後、セバスチャンはアクション機構に関する多数の特許を取得してピアノ自身を発明した。
「ダブルエスケープメント」と呼ばれているこのシステム(1821年)によって、
鍵盤が完全に上がりきるのを待たずに音を出すことができ、より速い演奏が可能となる。
すぐに全てのグランドピアノがこの機構を採用した。
セバスチャンはまた1808年に弦を留めるためのフレーム上のアグラフを考案した。
1810年には、グランドピアノのペダルを考案した。
エラールはまた1810年にダブルアクションのペダルハープを考案した。
これによって全ての音、全ての調が演奏できるようになった。
ブランドは19世紀末に頂点に達したが、20世紀の始めにはエラールのピアノは衰退していった。
何度かの名称の変更があり(Blondel & Cie、Guichard & Cieなど)、1960年に工房はガヴォーと合併した。
1800年製のNo. 28はハイドンが所有し、1803年製のNo. 133はベートーヴェン、
1867年製のNo. 33932(38932に番号が付け直された)はヴェルディが所有した。
リストやラヴェルといったその他の作曲家もエラールを所有していた。
<エラール家>
ペール・ラシェーズ墓地にあるエラール家の墓
セバスチャン・エラール(1752年4月5日ストラスブール生まれ)
チェンバロの技師として1777年に最初のピアノ(スクエア・ピアノ)を製造
創業のために兄のジャン・バティストと協力した
最初のチェンバロ形のピアノを1790年に製造
革命時にはロンドンへ移住
1796年にパリで新会社を設立
1831年没
ジャン・バティスト・エラール(1750年-1826年)、セバスチャンの兄
ピエール・エラール(1796年-1855年)、セバスチャンの甥、ロンドン工房の長
1823年に「ダブルエスケープメント」の特許を取得

エラールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ERARD

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エラール/エラード? 東洋ピアノ製造
機種:D-1、D-3等 詳細不明
ERARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エラール 韓国 詳細不明
ERNST KAPS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック
(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)

1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)は、
1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社であり、
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。
エルンスト・カプス・ピアノフォルテファブリックはエルンスト・カール・ヴィルヘルム・カプス
(Ernst Karl Wilhelm Kaps)によってドイツ・ドレスデンで創業された。
エルンスト・カプスは1826年12月6日にデーベルンで生まれ、1887年にドレスデンで死去した。
カプスは1879年にスウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に任命された。
息子のエルンスト・オイゲンは1864年に生まれ、1910年の初頭にドレスデンで死去した。
報告は、会社が破産管財人の管理下に置かれることになった結果、自らの命を絶った可能性を示唆した。
彼の次男のヴィルヘルム・カールは1872年に生まれ、1943年にトルケヴィッツで死去した。
しかしながら、1912年のザクセン王国における大富豪の財産と収入の年鑑はカプス家の2名、
ヴィルヘルムとゲルトルート・カプスがそれぞれ130万マルクの財産と
11万マルクの年収を得ていたことが記されている。
1876年、カプス社はフィラデルフィア万国博覧会に出品した。1922年、1874年にドレスデンでヨハン・クーゼ
(Johann Kuhse)によって創業されたピアノ製造会社と合併し、
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリックAGとなった。
1925年、カプス/クーゼ・ピアノフォルテAGと呼ばれていた工場は隣り合わせで両方のピアノブランドを作った。
ドレスデン工場は1930年に閉鎖し、この時点で会社の最終製造番号は37500と報告されていた。
ドレスデン工場は1885年以来37,500台のアップライトピアノおよびグランドピアノを生産し、
安定して年間1000台のピアノを製造。ドレスデンのAltmarkt13番地とSchloss通り18番地には展示室があり、
パリ、ロンドン、ロシアのイルクーツク州とサンクトペテルブルクにも支店があった。
エルンスト・カプスブランドのピアノの生産はオーストラリア企業の所有の下で2012年に再開した。
ピアノに高張力鋼鉄弦と銅巻き弦のシステムを考案し使用し始めたのはカール・ベヒシュタインの教師であった
ジャン=アンリ・パップ(1789年–1875年)である。
パップは、1826年に交差張弦も発明し、その他多くの成功を収めた発明とあまり成功しなかった発明を残した。
また、ヒッチピンとブリッジ(駒)の間に位置する追加のプレッシャーバーの設計を発明した。
(同様のシステムは後の1972年にC・F・セオドア・スタインウェイによって特許が取られた)
現在は「デュープレックス・スケーリング」と呼ばれている。
パップはハンマーのための圧縮フェルトの使用も導入した。これらのうちかなりの数が今日も使用されている。
パップのより成功を収めた発明の一部は、エラール、シュタインヴェーク、スタインウェイ、
そしてエルンスト・カプスといったピアノ製作史のかなり初期の少数の製造業者によって採用された。
パップと議論し、エルンスト・カプスはパップの設計を拡張して、1865年に二重交差張弦方式を考案した。
この設計は低音、中音、高音の3種類の高さのブリッジを用い、それ以前は問題を抱えていたベビーグランドピアノの
生産を可能にした。これによってピアノ製作史の初期に全長154 cmのピアノの生産が可能となった。
この発明やアップライトピアノにおける「パンツァーシステム」と呼ばれるものを含むその他の
効果的な発明の結果として、カプス社は1930年のドレスデン工場の閉業まで長年の商業的成功を収め、
この工場では37,500台のピアノが生産された。
エルンスト・カプスは様々な興味深い発明について数多くの特許を取得した。
これらのうちの一つが「共鳴体(resonator)」である。これは上面に響孔が開けられた共鳴胴から構成される。
これらは、ブリッジの配置に沿って中音および高音のブリッジの真下に固定された。
この目的は、より大きな振動体と追加の同時に発生する倍音を作り出そうとするもので、
より豊かでより色鮮かな音を生み出そうとする手間のかかる努力であった。
共鳴体とベビーグランドピアノ(二重交差配弦グランドピアノ)を含むカプスの発明と
開発はしばしば特許が取られた。
グランドピアノの蓋に響板を拡張する装置といったその他類似の独創的な発明がエルンスト・カプスによって
特許取得された。革命的であったものの、ほとんどは経済的に実用的ではなく、商業的には生産されなかった。
パーシー・グレインジャーはドレスデンのエルンスト・カップスによって作られて母のローズ・グレインジャーに
提供されたウォルナット合板と象牙鍵盤のアップライトパーラーピアノで演奏を学んだ。
グレインジャーの隣には母が教師として座り、1日に2時間ピアノを練習したと伝えられている。
1895年、グレインジャー家はドイツに渡り 、ピアノはローズがピアノを教えにいっていた
Thomas P. Husband夫妻の家に売却された。
Husband夫妻はこのピアノを40年間保有し、1935年にメルボルン大学のグレインジャー博物館へ寄贈した。
ピアノは現在修復され、「Percy Grainger Museum Melbourne Australia」に展示されている。
 ERNST HOMEYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HOMEYER/ERNST HOMEYER ホーマイヤー ドイツ(ライプツィヒ) 旧東ドイツ その他詳細不明

ESCHENBACH

ESCHENBACH



画像クリックでHPへ戻る

エッシェンバッハ

韓国製です。ワインバーガー(WB110)や、ローゼンストック(RS101)等と同系のピアノです。
当時の販売は協立楽器/協立インターナショナル(別名:全日本ピアノ卸センター株式会社)

初期製品の作りは本当に酷かったですが、徐々に良くはなってきました。
当時販売価格30万円ほどのスピネットタイプの小ぶりな機種(U-1)が一番人気。
U-122は一般的なサイズのアップライト。音色はTHE韓国製。

エッシェンバッハのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★

エッシェンバッハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

ESSEX


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ESSEX エセックス 韓国  製造:ユンチャン社

2001年、ユンチャン社はスタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズとのコラボレーションで、
スタインウェイ社が設計したエセックス・ピアノ(ESSEX)の生産を開始しました。

<広告から抜粋>
エセックスはスタインウェイのピアノづくりの伝統と現代テクノロジーを駆使した研究開発から誕生。
固有の設計、大規模な生産システム、慎重に考慮した生産環境などにより、高い品質を保ちながら、
以前では考えられなかった価格帯を実現させました。
音楽とその才能の開花の歓びを享受する機会はあらゆる方々のものと信じるスタインウェイにとって、
大きな喜びとなりました。
そしてエセックスピアノのもう一つの特徴はその姿の美しさとデザイン・バラエティーの豊かさです。

エセックスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ESTEY


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エスティ/(エステー) ESTEY PIANO CORPORATION
アメリカ(インディアナ州) 1869年創業

エスティのピアノ工場はインディアナ州のブルッフトンという小さな町にあって、
1869年に創立以来、代々優れた技術が受け継がれてピアノが製造されました。
このブルッフトンは一時期、ピアノの町として世界的に知られていたといいます。
あらゆる種類のピアノを製造しこれらは過去の世界各国の博覧会に於いて、
連続の賞を受賞するなど、極めて性能の良いピアノとされています。
さらにそのピアノの外装にいたっては非常に美麗で芸術的なものが多いのが特徴。
エスティピアノの突出すべき特徴としては、バイオリンブリッジ機構と呼ばれる
ピアノに重大な改良を加えたことが挙げられる。
これはバイオリンの駒のような形のブリッジを付けることにより、音質や音量、
そしてサスティンの音も驚くほど良く改良されたと言われています。
この方法はさほど複雑な仕組みではなく、高音部のブリッジに溝(くぼみ)を付け、
これによりブリッジ本体の容積と重みを減らすことにより、音の振動を容易に
響板へと伝えることが可能にするという工夫です。
さらに、エスティのダイレクト・ブロー・アクション(特許)は普通の
エリミネーティング・アクションに比べ、トラブルが少なく、タッチも確実で、
音量・音質ともに優れ、さらにはレスポンスが良いとされています。
1964年以来、エスティピアノはイギリスのナイトピアノと提携し、
ナイトピアノの優れた技術もそのロイヤルシリーズに取り入れたとのことです。
尚、リッペンやリンドナーなどと同様にプラスチックアクション機構を採用し、
熱帯地方や多湿地帯へのピアノの輸出を可能にしたとも伝えられています。

エスティのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ESTONIA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エストニア ロシア(ソ連)
ソビエト連邦当時、最も優れた性能のブランドと称される

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エストニアピアノ工房(エストニア語: Estonia Klaverivabrik)は、1950年にエストニア・タリンで
エルンスト・ヒース(ドイツ語版)によって創業されたピアノ製造業者である。
エストニアピアノの大半は現在アメリカ合衆国で販売されている。
エルンスト・ヒースは1893年に自身の会社E. A. Ihseを設立した。
1915年、ヒースは事業を売却し、他の会社で働いた。
1923年、ヒースはAstron社の第一人者と経営者になった。
第二次世界大戦とそれに続くソビエト連邦によるエストニアの占領によってエストニアにおける
ピアノ生産は停止した。工場は破壊された。エルンスト・ヒースのみがグランドピアノ生産を続けた。
1950年、ヨシフ・スターリンの命令によって、人民家具工場を基にして、タリンピアノ工房が設立され、
新たなピアノはエストニアと呼ばれた。1951年4月、初のエストニアグランドピアノが国家委員会に贈呈された。
1950年から1990年までは国営企業であり、2種類のグランドピアノモデル(190cmおよび273 cm)を製造し、
ソビエト連邦のあらゆる場所に供給していた。
会社は1991年のソビエト連邦の崩壊(英語版)とエストニアの独立回復後に衰退し、
1993年に工場は私営化された。
ソビエト連邦の崩壊により1990年代初頭に工場が下り坂になった後、工場はインドレク・ラウルによって
再生された。ラウルは会社に投資し、アメリカ合衆国へ製品を紹介した。
1995年、会社はラウルに売却され(当時はニューヨークにあるジュリアード音楽院の
ピアノ専攻の博士課程の学生)、ラウルが会社の経営を引き継いだ。
必要な部品および材料(ドイツのレンナー社のアクションとハンマーなど)は現在輸入されている。
2003年、新工場建物が完成した。
ソビエト連邦が存在していた間に製造されたエストニアピアノは驚くほど強く、優れた安定性、速い機構、
壮大なシンギングトーンを示す。この時期のピアノが今日見付かるのは極めてまれであり、
ほぼ消滅したブランドである。
ソビエト連邦の崩壊後、1990年代初期に製造された新たなピアノは製造欠陥に悩まされたが、
2002年頃以降に製造されたピアノは素晴らしい品質とユニークで甘いシンギングトーンを示す。
2003年ー2005年に行われた追加に改善によってエストニアグランドピアノは最高峰の品質を持つピアノとして
格付けされている。
コンサートピアニストのマルカンドレ・アムランはエストニアピアノを自分のために選んだ後、
「エストニアピアノの職人の技能は最大の尊敬の念を抱かせることができ、私はこのピアノが繊細な音楽家にとって
不可欠なものであり続けると確信している」と述べた。

ETERNA

ETERNA

ETERNA TENRYUGAKKI


画像クリックでHPへ戻る

エテルナ 天竜楽器製造 ※正式には「天龍楽器製造株式会社」のようです  竜× 龍○
当時の天龍楽器の住所:浜松市和田町534-2

日本楽器の系列に入ったとき、社長小倉太郎氏が
日本の第二のメーカーを目指して販売に力を入れました。
後に日本楽器で製造したもので、後に紹介するカイザーやミキと同様のピアノです。
発売元は神戸市生田区の国際楽器。

アクション本体はヤマハ製を使っていて、ヤマハのロゴが入っているものが多くあります。→★
このピアノはチューニングピンが緩くなる現象(通称ピンズル)が多く発生します(天龍楽器時代)
もちろんチューニングピンの打ち替え修理でトルクは戻ります。
日本楽器の製造になってからは、雰囲気的にほとんどヤマハに近い感じになっています。

■機種/モデル バリエーション
アップライトピアノ E1B、E10BL、EB30BL等
グランドピアノ EG430B、EG530B 等

画像の上2枚は天龍楽器時代のもので、下2枚は日本楽器製造になってからのものです。
※天龍楽器時代のトレードマークではTENRYU GAKKIになっており、
日本楽器製造になってからのトレードマークでは、NIPPON GAKKIになっているところに注目。

日本楽器の製造になってからのエテルナのキーカバー →★  エテルナのまくり部分の銘柄部分 →★
エテルナピアノの調律検査カード(天龍楽器製造時代のもの) →★

エテルナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

ETYDE

RAZNO ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

エチュード ロシア(旧ソ連製)

ピアノ本体に書かれているブランド銘柄マークの部分の「Y」が「U」に見えて、
一見すると「ETUDE」かと思ってしまいますが、正しいスペルは「ETYDE」です。

ピアノの作りは正直酷かった印象です。その他詳細不明。

エチュードのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EUTERPE

画像クリックでHPへ戻る

EUTERPE

オイテルペ ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
EVERETT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
EVERETT エベレット(エヴェレット))・ピアノ・カンパニー/Everett Piano Company
創業1883年 アメリカ 工場:ミシガン州サウスヘブン

1883年に創業でアメリカのピアノメーカーのうちで最も古いものの1つに数えられる。
工場はミシガン州のサウスヘブンにあり、近代的な設備を誇る。
エベレットのグランドピアノの特徴としては、背面に木材を使わずダイナテンションという
独特な鉄製レバーで組み立てられていることにある。
この特殊な構造により弦の張力とケースの耐久性が増し、強大で素晴らしい音色が得られるとのこと。
一時はヤマハの資本傘下になったこともあります。
※現在エベレット・ピアノは、中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー、アートフィールド・ピアノ、
マカオ・ピアノカンパニーが生産している。

<歴史>
1883年、楽器小売店のジョン・チャーチ・カンパニーが、エベレットのブランド名で少数のアップライトと、
グランドピアノの生産を、ボストンで始めたのが始まり。19世紀当時、ボストンはピアノ製作の中心地だった。
最初の頃は、大衆向けのピアノを生産していたが、フランク・L・リーが社長になると、会社は方針を変え、
最上位品質のピアノで評判を得るようになる。
エベレット・ピアノ・カンパニーが高品質のピアノメーカーとして認められるまでには何年もかかったが、
スウェーデン人のピアノ設計家ジョン・アンダーソンの力を借りて、エベレット・ピアノは20世紀初めには
一流の演奏家たちに選ばれる楽器となった。
しかし、エベレット社は自社製品の質を全面的に信頼し、比較的小規模な会社に留まったために、
競争が激化していくピアノ市場に於いて、地位を確立出来なくなっていった。
1926年、ケーブル・ネルソン・カンパニーがエベレット・ピアノ・カンパニーを買収する。
そして、自動演奏ピアノの生産生産に手を出してみたものの、1920年代後半から1930年代にかけての
戦争と不況により、生産と売り上げはさらに落ち込んだ。
第二次世界大戦後、会社の売り上げは伸び、エベレットのスタジオ・アップライトは特に学校で人気を獲得し、
1956年には増大する需要に応えるためにミシガン州のサウスヘブンに新工場が建設された。
1962年、ピアノ市場への参入を望んでいたハモンド・オルガン・カンパニーがエベレット社を買収するが、
ピアノ業界でそれほどの利益が見込めないとわかると、エベレット社は投資家グループ、ユナイテッド・
インダストリアル・シンジケートに売り渡された。
その後、1973年にエベレット社は現ヤマハ株式会社(当時:日本楽器株式会社)に売却される。
そして、サウスヘブン工場は近代化され、エベレットとヤマハの両方のピアノが生産されるようになった。
その後、1986年にヤマハがアメリカ工場をジョージア州へ移転したのに伴い、エベレットの工場での
生産は中止された。それ以降、エベレットのブランド名ライセンスは、1989年まではボールドウィン社が
保有していた。そして1995年からはライトウッド・エンタープライジス・インコーポレイテッドがエベレットの
ブランド名を使用し、現在は中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー(東北鋼琴)がエベレットを生産している。

<附録>
エベレットピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1885年~1989年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エヴェレット・ピアノ・カンパニー(Everett Piano Company)(単にエヴェレット・ピアノとも)は、
ジョン・チャーチ・カンパニーによって創業されたピアノ製造会社である。
以前は日本の会社であるヤマハによって所有されていた。
1883年にジョン・チャーチ・カンパニーによってマサチューセッツ州ボストンで創業された。
当時はピアノ産業のトップ企業の一つであった。1926年6月、エヴェレットはCable-Nelson Pianoと合併し、
ボストンからミシガン州サウスヘイヴンへ移転した。
多くの作曲家がエヴェレットのピアノを使用したが、小型のピアノに対する需要が増した。
それに応えて、エヴェレットはグランドピアノの製造から離れ、1946年に小型ピアノのみを作った。
エヴェレットは静電リードオルガンも開発し、1935年から1941年までOrgatronブランドを製造した。
第二次世界大戦によって生産が休止する前に、この事業はルドルフ・ウーリッツァー・カンパニーに売却され、
ピアノに焦点を再び合わせた。
1949年、John A. Hensがdyna-tensionスケールを開発した。
これはより良い音を可能にするためにピアノの弦をより高い張力の下に置く。
Balanced Tension Backを持つエヴェレットピアノのみがこの特徴を有していた。
1962年、ハモンドオルガン・カンパニーがピアノ産業に参入するためにエヴェレット・ピアノ・カンパニーを買収。
その後の1973年、ヤマハがエヴェレット・ピアノ・カンパニーを購入し、サウスヘイヴンでヤマハピアノと
エヴェレットピアノを共に製造した。
ヤマハが1986年にジョージア州トーマストン(英語版)の工場にピアノ生産を移した時、
エヴェレットピアノはヤマハとの契約によってボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーによって
サウスヘイヴンでの製造が続けられた。
しかしながら、この契約はその後に打ち切られ、エヴェレット社は最終的に1989年に終わった。

エベレットのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

F. CHOPIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エフ.ショパン 日本 戦前のブランド 詳細不明
FAHR ALBERT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイツ 読み方不明(ファール・アルバート?、ファー・アルバート?) 詳細不明
FALCONE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ファルコーネ/ファルコン 中国 詳細不明
 FALCONE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ファルコーネ Falcone Piano Company
現所有:ピアノディスク社

この会社はイタリア出身のピアノ技術者サンティ・ファルコーネによって1984年に設立された。
ファルコーネの目標は、世界トップレベル品質のグランドピアノを手頃な価格で提供することだった。
ファルコーネは1978年に、成功していた小売店チェーンを売却し、ピアノ製作の実験をスタートさせた。
ボストンの投資家と技術者を集め、1982年に長さ183cmの最初のグランドピアノを作り上げ、
その翌年には、274cmのコンサートグランドを完成させた。
1984年、ファルコーネ社は11人の技術者を雇い、月にわずか2台のピアノを製作した。
1987年には40人が月に5台製作するようになり、会社はマサチューセッツの古い靴工場を買って、
最上階をコンサートホールに改造した。
1989年、ファルコーネ社は、ゾーマー・アンド・カンパニーを買収。
買収されたゾーマー・アンド・カンパニーはすでにメイソン・アンド・ハムリンのブランド名を所有していたため、
ファルコーネ社はゾーマー(SOHMER)のブランド名も取得した。
サンティ・ファルコーネは1991年に会社を実業家のバーナード・グリアに売却し、
ファルコーネのブランド名はメイソン・アンド・ハムリン・カンパニーに取り込まれた。
1994年、メイソン・アンド・ハムリン社の倒産に伴い、ファルコーネ・ピアノの生産は終了。
その後、1996年にピアノディスク社がメイソン・アンド・ハムリン社を買い取り、
このファルコーネのブランドも所有している。
今のところ、このファルコーネというブランドでピアノ製造が再開される予定はない。

<特徴>
ファルコーネ社は、「サウンドボード・キャリブレーター」という響板の調整装置の特許を取得した。
これは響板の張力を調整でき、ピアノの音色を変化させられるというものである。
ファルコーネ社はグランドサイズで、9ft、7ft 4in、6ft 1inの3種類のピアノを生産。
これより小さなピアノは手作り楽器としての良さを失うと信じており、小さなピアノは生産しなかった。
ファルコーネピアノの音質は、全音域を通してどのようなダイナミクスで弾いても、豊かで均一であると、
ジャズ界やクラシック界の有名ピアニストの多くが認めている。

※その他、MASON & HAMLINや、SOHMERの項目も参照

ファルコーネのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FAMILY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ファミリー 東和楽器木業股份有限公司 

日本の河合楽器製作所との技術提携のメーカー。社長は陳文聰氏。
工場は桃園県大渓にあって従業員数は最盛期で500人を超えたこともあり、
ピアノ工場としてはかなりの規模。
ブランドはKAWAIという名称も使っていたが、アップライトの一部には
FAMILYというブランドも開発していた。 

ファミリーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FAUTH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ホース 日本 戦前のブランド ※ドイツ製アクションに同名のものがあるが詳細不明
FAZER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ファツェル フィンランド 詳細不明

HELLASは1989年、このFAZERも買収し、
フィンランド国営企業として2つのブランドのピアノを製造。
ピアノ背面に一般的にある支柱(バックポストと言います)がないのが特徴。
鉄骨のみで弦の張力を支えています。

FAZIOLI

画像クリックでHPへ戻る

ファツィオリ イタリア

住所:Via Ronche 47, 33077 サチーレ(サチレ) 設立:1981年

1981年のフランクフルト・ミュージック・フェアに於いて、それまで誰も知らなかったイタリアのメーカーが、
新しい設計の4台のピアノをお披露目した。
そのわずか20年後、ファツィオリ・ピアノは、世界最高のピアノメーカーの候補として自ら名乗りを上げた。

ファツィオリ・ピアノは豊かな音色で、音とタッチが均一であり、フルオーケストラと協演しても
耳障りな音にならずによく通る響きを持っている。
ファツィオリはグランドピアノのみ製作され、すべて手仕事生産である。
全長308cmのグランドは、現在入手可能なコンサートグランドピアノの中で最大。
そのピアノには4本目のペダルがあり、踏むとハンマ―が弦に接近して音が弱くなるが、
ウナコルダペダルのように音色を変化させることはない。
ファツィオリ・ピアノは、ふたつのアクションとペダルリラをセットで購入することも可能で、
演奏者は好きなときにボイシングの異なるアクションに取り換えることができるのが特徴。

響板に使用される木材は一般的なスプルースではなく、
イタリアのフィエンメ渓谷から伐採された赤トウヒが使用されている。

<広告より>
1981年ピアニストでありエンジニアであるPaolo Fazioli (パオロ・ファツィオリ) 氏によって設立、
グランドピアノのみを少数生産しています。
ヴェネチアの北東60kmに位置する木工産業で有名なSacile (サチーレ) に工房を構え、
素材選びに始まり細部の仕上げにまで徹底したこだわりを持ち、ハンドメイドを追求するため、
生産数は年間数100台程のみ。
また、出来上がった全てのピアノを社長パオロ自ら試弾してチェックするという
徹底したこだわりによって、"名誉あるピアノ" が生み出されているのです。

<歴史>
機械工学の知識と、ぺサロの音楽院でディプロマを取得したほどのピアノ演奏技術とを
合わせ持つパオロ・ファツィオリは、ピアノに何を求めればよいかを知るユニークな立場にある。
それまでに試したどのピアノにも満足できず、ファツィオリは35歳のときに、家族が経営する
大きな家具店で働くという保証された道を捨て、まったく新しいピアノの設計と製作に賭けた。
家族の工場の隅に店を構え、パオロはあらゆる既存メーカーのピアノの研究に取りかかった。
そして、木材のシーズニングから音響学にいたるまでの、さまざまな分野の専門家からなる
チームを結成し、多くの研究と実験を重ねたのちに、4つの試作モデルを作り出した。
それらはすべてグランドで、全長156、183、228、278センチの4タイプだった。
パオロの最大のリスクはイタリア語のブランド名を用いることだった。なぜなら、
イタリアのピアノ産業はクリストフォリの時代以来、ほぼ休眠状態にあったからである。
しかしパオロは、ピアノが十分優れたものならきっと市場を獲得できるはずと信じ、
意思を曲げなかった。この企業がまさに大成功であったことは、ほとんど疑う余地がない。
4つの試作品はすベて1981年のフェア終了後に売れ、製造を開始した1年目にさらに6台のピアノが製作された。
1986年には新たなふたつのモデルの生産が開始された。それらは全長228cmと308cmの大きなグランドである。
ファツィオリは今も手作りで、2001年の夏に移転した特設工場では生産高が年間80台から120台へと増えた。
新しい会社内には研究施設とコンサートホールも併設されている。

<附録>
ファツィオリ・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1981年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ファツィオリ・ピアノフォルティ(伊: Fazioli)は、1981年に創業したイタリアのピアノメーカーである。
創始者兼現社長、パオロ・ファツィオリは、家具職人の家に生まれ、ロッシーニ音楽院でピアノを、
ローマ音楽院で作曲を専攻した後、ファツィオリ社を1981年に創業した。
綿密な手作業をふんだんに盛り込み、世界で最も高額なピアノとして知られている。
また独立アリコート方式、「第4ペダル」など特殊な設計でも知られる。
現時点で世界最長サイズ(奥行き308センチメートル)のモデルも製作している。
工場はイタリア北部のサチーレにある。
この際、各分野の専門家たちに、ゼロからピアノを設計する計画への参加を要請。
ミケランジェリのピアノ調律も務めたピアノ調律師兼製作者のチェーザレ・アウグスト・タローネの
弟子らを招聘し、1980年に最初のモデルを完成させた。
製品ラインナップはグランド・ピアノに限定されている。生産台数は、2009年時点で年間120台程度とされる。
ピアノの音色を決定づける響板は、フィエンメ峡谷産のレッドスプルースが使用されている。
またファツィオリの響板は、製作が終わってから2年間、空気管理された倉庫で熟成される。
他メーカーでは機械によるハンマーのフェルト作りが一般的であるが、
ファツィオリはフェルトに硬化剤を使用せず、
手作業でフェルトを作る。これにより弾力に優れたハンマーが得られる。
現代の一般的なピアノ製造工程では、ピアノ内部の鉄製フレームを鋳造する際、真空吸引法を用いる。
これは鋳型の隅々に鉄を確実に流し込み、作業を短時間で進めることができるという利点を持つが、
ファツィオリでは、伝統的な方法で時間をかけて鋳造している。
多くのピアノの中高音部の駒からヒッチまでの弦(バックストリング)には倍音を豊かに響かせるための
アリコートブリッジが取り付けられている。
通常のアリコートブリッジは一体型で、各音程毎にアリコートブリッジの位置を独立して
調節することは不可能である。
ファツィオリでは各音のブリッジを個別に移動できる独立アリコート方式を採用している。
ただし、独立式アリコートブリッジはファツィオリのみに見られる特徴ではない。
ファツィオリでは、駒の基礎(カエデとマホガニーとの積層材)上に貼る木材に
カエデとシデとツゲの3種を用い、硬度の違いを生かして音域ごとに
(低音から中音域にカエデ、高音域にシデ、最高音域にツゲ)3種を順に使用するよう設計している。
駒の表面の加工も、熟練した職人の手作業で仕上げられる。
通常の3本のペダルのさらに左側に4番ペダルのあるものがあり、この特許を取得している。
このペダルによって、ハンマーと弦の距離が短くなり、同時に鍵盤が浅くなる。
ファツィオリはこれを「音色を変えることなく音量のみが小さくなる」としている。
これによってピアニッシモの効果が得られるだけでなく、グリッサンドや速いパッセージに利点がある。
4番ペダルは、モデルF308のみ、標準仕様である。
他機種ではオプションで4本ペダル仕様にすることが可能であるが、追加料金が必要となる。
また購入後にペダルの増設はできない。
ファツィオリでは防錆と美観を考慮し、金属部品に金メッキ処理を採用している。

<ファツィオリは、下記6種類のグランドピアノを製造>
■F156 ※ヤマハで例えるとC1とほぼ同じサイズ
■F183 ※ヤマハで例えるとC3とほぼ同じサイズ
■F212 ※ヤマハで例えるとC6とほぼ同じサイズ
■F228(通常のセミコンサート・グランドピアノ) ※ヤマハで例えるとC7とほぼ同じサイズ
■F278(通常のフルコンサート・グランドピアノ) ※ヤマハで例えるとCFXとほぼ同じサイズ
■F308(ファツィオリ独自の特大コンサート・グランドピアノ) ※ヤマハにはないサイズです
→機種番号のFに続く数字は、ピアノの奥行きを(センチメートル単位で)表しています。
※ちなみにベーゼンドルファーのフラッグシップモデルである「インペリアル」の奥行きは290cmです

<日本における納入先施設(一般公開施設のみ) 上から納入時期が早かった順です>
栗東芸術文化会館さきら(滋賀県栗東市)F278 ※日本で初めてファツィオリを納入したホール
北上市文化交流センター さくらホール(岩手県北上市)F278 ※2005年 アルド・チッコリーニが再来日し演奏
石川県こまつ芸術劇場うらら(石川県小松市)F212 ※詳細は公開されていない
美浜町生涯学習センターなびあす(福井県三方郡美浜町)F308 ※F308モデルが設置されている国内唯一施設
豊洲シビックセンター(東京都江東区)F278 ※舞台周りの壁が総ガラス張りで夜景が見えるホール

ファツィオリの調律もお任せください(但し、ホールの調律は毎回施設側の許諾が必要です)→★
FEINTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フェイントン 北朝鮮 パコやグラチアと同系ピアノ 詳細不明
FELIXSHULLER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フェリックスシューラー 昭和楽器 詳細不明
FERD. THÜRMER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フェルディナント・ テュルマー 1834創業 ドイツ

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Ferd. テュルマー・ピアノフォルテファブリック(Ferd. Thürmer Pianofortefabrik)は、
ドイツ・ボーフムのピアノ製造会社である。
テュルマー家は100年以上ピアノの製造を続けて、現在はボーフムに工場を持つ。
1834年にフェルディナント・テュルマー(Ferdinand Thürmer)によて創業された。
第二次世界大戦で工場はソビエトに破壊されたが、戦後に再建され成功を収めた。
公式HP:https://www.ferdthuermer.de/

FEURICH

FEURICH

画像クリックでHPへ戻る

フォイリッヒ (ホイリッヒ)  ドイツ(旧西ドイツ) 1851年創業
ジュリアス・フォイリッヒはドイツ・ライプツィヒでピアノ製造会社FEURICH社を創業

ユリウス・グスタフ・フォイリッヒは、パリのプレイエルの工場でピアノ製作を学び、
1851年にドイツに帰ってライプツィヒに会社を設立した。
フォイリッヒはそれまでドイツで知られていなかったアップライトピアノ製作の詳細な
知識を持ち帰った。1930年代には、フォイリッヒのグランドピアノは世界中の40以上の
コンサートホールに所蔵されるようになった。

フォイリッヒはユリウス・ブリュートナーと同じ街で開業することになったため、
当初、フォイリッヒ社はアップライ卜のみを、ブリュートナー社はグランドのみを製作するという
取り決めがなされた。しかしその平和な合意も4年しか続かず、競争心に動かされたふたつの会社は
ともに両タイプのピアノを製作するようになる。
フォイリッヒ社は着実に成長していき、20世紀の初めには良質のピアノを製作していた。
第一次世界大戦が始まった1914年、フォイリッヒ社の360人の従業員は、年間1,000台のアップライトと
600台のグランドを生産した。1920年代には生産高が落ち込むが、それでも社長のカール・ミューラーは、
経営不振に陥ったベルリンのオイテルペ社とW・ホフマン・カンパニー社を買収した。
第二次世界大戦ではライプツィヒの工場が破壊されたが、
戦後ミューラーは3つすベてのメーカーのピアノの生産をベルリンで開始する。
1949年、創業者のひ孫のユリウス・フォイリッヒはミューラーの支援を受け、ラングラウに新工場を建設する。
以後、この場所はオイテルぺ社の工場になった。
1958年に会社は国営化され、グループはオイテルペ・ピアノ・カンパニーの旗印のもと着実に成長し続け、
1979年のピーク時には276人の従業員が年間2,500台のアップライトと250台のグランドピアノを生産した。
1991年7月、ベヒシュタイン社がオイテルペ・ピアノ・カンパニー社の株の過半数を買い占める。
自治的経営を認められたフォイリッヒ社は、5キロほど離れたところに新たな工場地を見つけて、
1990年代の大半は徐々に生産高を増やした。現在フォイリッヒ社は、グンツェンハウゼンの工場で
アップライ卜とグランドピアノを安定して生産しており、1920年代と30年代の自社の美しい楽器をモデルにした
コンサートグランドの製作を計画している。

※現在のフォイリッヒは中国メーカーの傘下 (従いましてBVK認証は受けておりません →★

<附録>
フォイリッヒ・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1860年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
フォイリッヒ(Feurich)は1851年にザクセン王国ライプツィヒで創業したピアノ製造会社であり、
1948年までライプツィヒで生産していた。
現在、フォイリッヒブランドのピアノは中国の海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場と
ウィーンの6区の工場で製造されており、ウィーンの7区に所在する
ヴェンドル・ウント・ルングGmbHによって流通されている。
フォイリッヒはライプツィヒに歴史的ルーツを持つピアノ製作者一族およびピアノブランドである。
フォイリッヒピアノは現在中国寧波市にある海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場で生産され、
ウィーンのピアノ販売・開発会社ヴェンドル・ウント・ルングの指揮の下で世界中で販売されている。
加えて、2016年からは、オーストリア・ウィーンの6区にも生産施設が存在する。
創業者の曾孫のユリウス・フォイリッヒは2012年からはもはやフォイリッヒブランドの権利と
フォイリッヒピアノの生産には関わっていない。
ライプツィヒはパリ、ロンドン、ウィーンに次いで、ヨーロッパの音楽文化の
最も重要な都市の一つであった。
ここで、1851年にユリウス・グスタフ・フォイリッヒ(1821年-1900年)が
「Pianofortefabrik Feurich」を創業した。
1860年までに、400台以上の楽器が製造販売された。
その後、より大規模で現代的な工場が建設された。世紀の代わり目には、
1万4千台近いアップライトピアノとグランドピアノが作られた。
フォイリッヒに加えて、ピアノ製造業者のブリュートナー、シンメル、Gebr. ツィンマーマン、
フップフェルト、およびその関連産業もライプツィヒを拠点としていた。
ユリウス・グスタフ・フォイリッヒとヘルマン・ハインリヒ・フォイリッヒは
ザクセン王国王室御用達の称号を与えられた。
その後、自動ピアノの時代が訪れた。フォイリッヒはこの産業における
多くの非常に成功した企業と協同した。
機械式楽器製造者であるヒューゴ・ポッパーとは親交を深めた。
M・ウェルテ&ゼーネによる自動演奏システムウェルテ=ミニョンやフップフェルトによる
Phonola、PhilipsによるDucaが導入された。
第一次世界大戦はこの地域に厳しい挫折をもたらした。
そのため、ピアノの代わりに様々な戦争物資のための包装容器が次第に製造されるようになった。
1919年までに、3万4千台以上のアップライトピアノとグランドピアノが製造された。
インフレーションの間、通貨の価値が維持されず、人々は通貨を素早く有形資産へと変換したため、
ピアノ生産は全速力で行われた。
後に、大恐慌が来ると、人々は通貨を生活必需品に使わなければならず、
ピアノ生産は大幅に低下した。フォイリッヒはこの時期、無線機器のための筺体も生産した。
第二次世界大戦中、戦争必需品(光学機器や抗対空砲火ヘッドライトのための梱包用箱)の生産を
再び余儀無くされた。1943年、工場建物は爆撃され、生産施設や会社に歴史的に関係のある
全ての展示品、その他の書類、設計のための模型が失われた。
当面はハーモニウム工房テオドール・マンボルクでの生産が続けられた。
戦後、工場の修復が行われ、1950年にようやく新らしい楽器が工場から出荷された。
ユリウス・フォイリッヒJr. は1951年に西ドイツへ逃れ、ミッテルフランケンのピアノ製造業者
オイテルペ(Euterpe)に加わり、共同経営者となった。
フォイリッヒ・ブランドのピアノも生産されていた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)当局は
ライプツィヒで経営を行っていたユリウス・フォイリッヒSr.にラングラウでの事業の継続に難色を示した。
1958年、ユリウス・フォイリッヒSr. は事業の国営化を勧告された。
その後、東ドイツに残っていた残りのフォイリッヒ家の人々も西側へ逃れた。
1959年、「ユリウス・フォイリッヒ・ピアノフォルテファブリックGmbH」が西側で新たに設立された。
日本のピアノメーカーヤマハとカワイの出現により、ドイツのメーカーが数を保つのが次第に困難となった。
1991年、オイテルペ社(したがってその傘下のフォイリッヒ社)が
ベヒシュタイン・グループによって買収された。
楽器は当初ベヒシュタインのベルリン工場で生産された。
フォイリッヒのCEOであったユリウス・マティアス・フォイリッヒはフォイリッヒの社名が
それほど重要ではない役割しか果たさないことに不満だったため、
1993年にベヒシュタイン・グループからフォイリッヒの株式を購入した。
再び独立してから3年後の1994年、フォイリッヒはフランクフルト・ムジークメッセ
(楽器と音楽の国際専門見本市)に出品した。
ニュルンベルク近郊のグンツェンハウゼンの自社工場が完成するまでは、
楽器はライプツィヒのレーニッシュ社によって製造された。
1999年から2009年までは、全てのフォイリッヒ・アップライトピアノおよびグランドピアノは
グンツェンハウゼン工場で一流のピアノ職人によって手作りされた。
1998年までに、フォイリッヒ社は76,210台のピアノを生産した。
以後、特に118 cmと123 cmの2種類のアップライトピアノと172 cmと227 cmの
2種類のグランドピアノが少量生産された。
2010年と2011年に、ウィーンの企業ヴェンドル・ウント・ルング社とフォイリッヒ・クラヴィア・
ウント・フリューゲルファブリカツィオーンGmbHとの間で業務提携が行われた。
意図はポートフォリオの拡大であった。一方では低価格帯のピアノを中国での安価に生産し、
それと同時にグンツェンハウゼン工場で手作りされたアップライトピアノとグランドピアノが売り出された。
グンツェンハウゼンにおける生産の経済発展により、2012年1月1日からの業務提携の解消が
2011年末に決定された。
2010年、ヴェンドル・ウント・ルング社はフォイリッヒの株式の大半と世界的な商標権利を取得した。
2012年にはフォイリッヒ社の買収が完了した。
今日、フォイリッヒ・ピアノの研究開発・設計はウィーンで行われ、生産のほとんどは中国・寧波市の
海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場で行われている。
フォイリッヒ社の売却後、フォイリッヒ家のユリウス・フォイリッヒは
J.F. Pianofortemanufaktur GmbHの代表取締役社長となった。
フォイリッヒの商標は売却されたため、この会社はフォイリッヒ・クラヴィア・ウント・
フリューゲルファブリカツィオーンGmbHとは関係がなく、製品は「J.F.」というブランドの元で
それ以来販売されている。
1985年、「Pédale Harmonique」と呼ばれる第四のペダルによる新たな音響効果の開発が始まった。
ペダルが完全に押し下げられると、従来のダンパーペダルと同じ挙動となる。
ペダルが中間まで押し下げられると、全てのダンパーが持ち上がるが、演奏され放された鍵の
ダンパーのみが弦に落ちる。演奏されていないその他の弦はダンパーで消音されないままになる
(ソステヌート・ペダルの逆の挙動)。
2006年、試作品がムジークメッセ・フランクフルトに出品された。
ピエール・ブーレーズはこの革新を好意的に論評した。

フォイリッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 FIBICH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
読み方不明
チェコスロバキア製 (現在:チェコ共和国) ペトロフ社のブランド
FIEDLER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フィドラー ドイツ 詳細不明
FINETONE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ファイントーン 富士楽器(外国ピアノ輸入商会)? 詳細不明
FIRST


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FIRST ファースト

東京楽器制作(株)(森技研)
沢山清次郎氏が森健氏の後を受けて東京深川の東京楽器で製作したもの。
東京楽器は森健氏が東京の深川で多年の経験を生かして名器を作ろうと工場を設立した。

ファーストのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FISCHER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジェー・アンド・シー・フィッシャー  J.& C.FISCHER
エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品
工場:ニューヨーク 創業1840年

FISCHERは極めて古いメーカーで、創設者のフィッシャーはフェルディナンド一世
(18世紀から19世紀にかけてのナポリ王。マリア・テレサの娘を王妃とし、
ナポレオンと戦って敗れ、暴君であったと歴史上の記録に残っている)のお抱えの
ピアノメーカーであったということから、さぞピアノの発祥地であるイタリアの伝統を
伝えるピアノであったのであろう。
この創始者、フィッシャーの二人の息子のジョン・フィッシャーとチャーレス・フィッシャーとが
アメリカでピアノの製造を始めたので、そのブランドはジェー・アンド・シー・フィッシャー
(J. & C. FISCHER)となっています。
フィッシャーはアメリカのピアノ工業の発達のために大きく貢献したメーカーです。

フィッシャーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FLEMING
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フレミング 日本 詳細不明
FLICKLER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FLICKLER フリックラー

大洋楽器工業有限会社・(株)プルツナーピアノ・及川ピアノ製作所  いづれも浜松
昭和31年から38年まで大洋楽器工業で作られており、
その後プルツナーピアノを経て、昭和45年から及川ピアノのブランドとなった。

フリックラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FLINGEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FLINGEL フリンゲル

発売元:ピオバ楽器社(神田神保町) 製造:広田ピアノ製作所(川崎?)
野口喜象氏が神田ピオバ楽器を経営していたときに発売したピアノ。
昭和11年頃、広田ピアノ製作所で作られた。 

フリンゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FLOBAL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フローバル 浜松 中部楽器製造(株) 詳細不明
FLOBEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フローベル 浜松 フローラピアノ製造(株) 詳細不明

FLOBERGER

FLOBERGER

画像クリックでHPへ戻る

フローベルガー

この機種は1台しか調律の経験ありません。詳細不明。 

”キャッスル(CASTLE)” というピアノブランドのロゴに酷似していますが、理由や詳細は不明。

フローベルガーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

FLORA

FLORA

画像クリックでHPへ戻る

フローラ

昭和37年に、浜松市に設立されたフローラピアノ製造(株)で作られていたブランドです。
当時8機種が作られていました。その他詳細不明。

音色はややシャリシャリした感じです。。まさにTHEフローラといった音色(分かる方は分かるはずです)
ちなみに、アールウィンザーというピアノもフローラピアノ製造です。
上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フローラのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FLORA フローラ 台湾 詳細不明
FLUGEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FLUGEL(FLÜGEL) フルーゲル

坂本ピアノ製作所(大成ピアノ製造の前身) 浜松市
昭和24年から昭和46年まで作られていた。

フルーゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FORO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォロ(FORO) 福楽鋼琴股份有限公司 台湾(中国)

工場は台中県石岡郷。従業員数200人を超えたこともあり、グランドピアノからアップライトまで。 
FOREST



画像クリックでHPへ戻る
FOREST フォレスト

東京楽器制作(株)深川、(トニカ楽器(三田?))
森健氏が東京の深川で多年の経験を生かして名器を作ろうと工場を設立したのが東京楽器。
FORESTは森氏の姓からとったもので独特の設計で音色は美しかったとの情報。
尚、多数の有能な技術者を養成して、これらの技術者は十八会と呼ぶ会合を続けていた。
その後、トニカ楽器扱いに。
FU-10、FU-20、FU-30、FU-50、FU-55、FU-70、FU-80の7機種があった。

FOREST(フォレスト)のトレードマークは当然ながらトニカピアノとほぼ同じトレードマークです。
音符が3つ交差したトニカのトレードマークはこちら →★
エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フォレストのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FORSTER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FORSTER フォルスター

ベルリンピアノ製造(株) 浜松
昭和34年から昭和46年まで作られていた。

フォルスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 FORSTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォルスター ドイツ 詳細不明 
FOSTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォスター 日本 詳細不明
FOUDRICH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フードリッヒ 野田ピアノ 詳細不明

フードリッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FR. HELMHOLZ

画像クリックでHPへ戻る
FR. HELMHOLZ ヘルムホルツ

ドイツ(ハノーファー/HANNOVER)
FRANKE. H.
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイツ フランケ 詳細不明
FRANZ OESER



画像クリックでHPへ戻る
FRANZ OESER
フランツ・エーゼル/フランツ・エーザー/フランツ・ウーザー/フランツ・オーザー
オーストリア=ハンガリー帝国(ハンガリー製)

オーバーダンパーの写真 →★  外観写真 →★  銘柄マーク →★  響板デカール →★
写真ご寄稿:平田康裕様よりご提供いただきました
FREEDMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリードマン 東洋楽器製造(浜松) 詳細不明

フリードマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FRENCH, JESSE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アメリカ 読み方不明、詳細不明
FRIEDRICH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリードリッヒ FRIEDRICH
福島ピアノ研究所→(株)バロック?

神楽坂の途中に福島ピアノ店という専門店があり、
元輸入商だった福島昭彦氏が材料を提供して作りました。

福島貿易商はもともと横浜にあり”福嶋”が本姓で、
中国の天津や上海にもフリードリッヒのブランドがあり、
それらと契約もあったと伝えられています。
当時、発売店は新宿区神楽坂通り三丁目にありました。

東日本ピアノ製造(株)の「バロック(BAROCK)」や「クリーベル(KRIEBEL)」の項目も参照

フリードリッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FRITZ DOBBERT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリッツ・ドッベルト/フリッツ・ドベルト ブラジル(サンパウロ)

ローズウッド材の本場なので外装が美しいものが多い。その他詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
フリッツ・ドッベルト(Fritz Dobbert)は、ブラジル・サンパウロを拠点とするピアノ製造業者である。
1950年5月13日創業。
ラテンアメリカで最大のピアノメーカーであり、ブラジルのアコースティックピアノのトップ企業である。
工場はドイツ人のOtto Halben、CelioおよびThyrso Bottura兄弟によって、
Canindé地区でIndústria de Pianos Halben(ハルベン・ピアノ産業)として創業された。
1956年、会社はPirituba地区の倉庫複合施設へ移転し、
Pianofatura Paulista(サンパウロ・ピアノ製造)と解明した。
この時にはHalbenは既に会社に関与していなかった。
Pianofatura Paulistaは20種類を超えるピアノブランド名を使用した。
1958年、工場従業員で職人のFritz Wilhelm Ernst Otto Dobbertがピアノの新しい設計を開発した。
このピアノは非常に成功を収め、彼の名を冠した。
間もなく、Pianofatura PaulistaはFritz Dobbertブランドのみを使用するようになった。
長年にわたって、Fritz Dobbertはブラジル最大のピアノメーカーの一つとしての地位を確立してきた。
2015年5月、65周年を迎えた時に、工場はPirituba近郊を離れて、オザスコのより近代的な施設へと移転した。
会社は現在創業者の2世代目によって経営されている。
公式HP:https://www.fritzdobbert.com.br/pianos/fritz-dobbert/

フリッツドベルトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

FRITZKUHLA

FRITZKUHLA

FRITZKUHLA ピアノ

FRITZKUHLA 特製38号

画像クリックでHPへ戻る

FRITZ KUHLA フリッツクーラ/(フリッツ・クーラー)

製造:東洋ピアノ製造(浜松市) 発売元:昭和楽器(埼玉)
鉄骨部分には”TOYO PIANO”と刻印があります。
音色はデフォルトではやや堅めのピアノですね。
東京藝術大学や武蔵野音大の指定ピアノだった時期あり?(不確定情報)

<読み方>
○ フリッツクーラ  × フリッツクーラー

ピアノのトレードマークとしては珍しい三角形をしています。
他にも三角形のロゴもありますが、このページの中から探してみて下さい^^

<機種バリエーション>
特製30号、特製38号、特製70号など
フリッツクーラのまくり(蓋内部の右上部)にある大きくて独特なブランド銘柄マーク →★

フリッツクーラのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FRITZKUHLA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリッツクーラ ドイツ 1872~ その他詳細不明
FRITZ KHULA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリッツ・クーラ フィリピン 詳細不明
FUCKS & MOHR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FUCHS & MÖHR フックス・アンド・メーア ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
FUJI


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FUJI フジ

富士楽器製造
シェーンベルグ製造当時の富士楽器が昭和11年に作ったピアノのブランド。
創立者は野田秀治氏。二代目は野田満氏である。 

フジのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FUKUSHIMA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FUKUSHIMA フクシマ

福島ピアノ研究所(東京都大井町)
福島ピアノは大井町の東京楽器研究所で作り出されたものである。
この研究所の所長であった福島琢郎氏は、ピアノの技術者としては飛び抜けた人であった。
彼は早稲田大学の商学部を卒業後、日本楽器に入社しているが、
当時の農商務省と音楽学校の推薦で渡米し、スタインウェイで2年ピアノの製造技術を学び取ったが、
帰国後、理論と技術が噛み合わず、日本楽器を飛び出している。

福島氏の父親は三井の重役で、当時のエリート中のエリートであったため、
三越の重役その他の出資を得て、さらに実際の技術者として、後にヒロタピアノを作った
日本楽器の広田米太郎氏を招いて、1918年に株式会社東京楽器研究所を設立した。

名前は研究所であったが、実際はピアノ工場で、福島氏は音楽学校の顧問もしていたので、
その製品は品質も優れていたが、販売機構を持たなくても飛ぶように売れていった。
当時のヤマハのアップライトは最低500円であったが、関東のメーカーのピアノの方が値段が高く、
ニシカワが650円、フクシマが最も高く800円だったという。
ちなみに1918年の大卒の初任給は40円だそうです。

製造台数はわずか500台程度であったが、この研究所で技術を習得した多くのピアノ技術者たちが、
後の関東地方のピアノ製造を支えたのである。
技術者として活躍した方々は次の通り極めて多い。
木下乙弥氏、藤原梅太郎氏、太田一郎氏、山崎秀雄氏、清水栄一氏、伊藤辰雄氏、橋本勝美氏、
足立三郎氏、斉藤喜一郎氏、渥美亘弘氏、竹内友三郎氏、森吾市氏、大越勇喜氏、淵田栄氏、
松崎妙氏、大岩隆平氏、大友雅一氏、飯国一郎氏、福井辰利氏、大井長一氏、の各氏。

フクシマのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

FUKUYAMA & SONS

FUKUYAMA & SONS

画像クリックでHPへ戻る

フクヤマ/フクヤマ・アンド・サンズ

明治12年生れの福山松太郎氏が明治末期より神田小川町に開業した福山ピアノが、
昭和40年代になって自らの姓をつけて製作した自信作とのことである。
高級品を目指して努力したと伝えられています。

音色、出来栄えともになかなか良いピアノだと感じます(※ただしピアノの個体差は大きいです)
ピアノの蓋には、FUKUYAMA & SONSと書かれています。

上のトレードマーク画像がアップライト、下のトレードマーク画像がグランドです。
グランドピアノの方のトレードマークは、「I様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フクヤマのグランドのフタ部分にある銘柄マーク →★
フクヤマピアノの保証書 →★ (株) 福山ピアノ社の本社は千代田区神田神保町1丁目14番地とあります

フクヤマのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FURSTEIN (FARFISA)
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フルシュタイン(ファルフィサ) イタリア 詳細不明
FURTADOS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
インド 総合楽器メーカーでピアノもわずかに製造しているようです
その他、詳細不明

公式ホームページ:https://www.furtadosonline.com/
フェイスブックページ:https://www.facebook.com/FurtadosIPT/

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

G & GRAND
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジー・アンド・グランド 東日本ピアノ製造(株)、バロック 1953年創業の東日本ピアノ製造。
GALNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ガルナー 遠州ピアノ製造(株)浜松  昭和31年より昭和36年まで生産されていた。
GAVEAU



画像クリックでHPへ戻る
ガヴォ― フランス(パリ) 創業1847年  プレイエル社が製造

ジョセフ・ガブリエル・ガヴォー(Joseph Gabriel GAVEAU)は、
1824年ロモランタン(Romorantin)生まれ。

ガヴォーはいくつかの工房で修業と経験を積んだ後、1847年にパリに自身の工房を作る。
当初からガボーは丈夫で良いアップライトピアノを作ることに拘り、エラールの設計を真似て
アップライトピアノアクションで、特にジャックの角度についての改良に取り組みました。
そして、「ガヴォ―アクション」と呼ばれる独自の特色を持つアクションを作り上げました。
ガヴォーは高い品質のチェンバロと、特に小型のアップライトピアノで素晴らしい名声を獲得しました。
彼のピアノに対する評判は高まり、セルヴァン通りに工場を構えます。

1890年頃には200人の職人を雇い年間1500台を生産するほどまでに大きくなりました。
1893年、70歳になった彼は会社を息子のガブリエル・ウジェーヌとエチエンに譲り、
会社名は"Société GAVEAU"となりました。
1896年からはパリ近郊のフォントネー・スー・ボワ(Fontenay sous bois)にモダンな新工場を建て、
約300人の職人を雇い生産量は年間2000台にのぼりました。
この工場では多くのパリの有能な職人たちが育てられました。
エティエンヌ・ガヴォー(Etienne Gaveau)は経営を担当し、パリ中心部に本社を構え、
1908には自社のピアノを宣伝するためにコンサートホール「サル・ガヴォ―」を建設しました。
1911年、兄弟は仲違いし、ガブリエルは独自の会社を興し、グランドピアノ製作で新しいアイデアを取り入れ、
木材にこだわって作られたおしゃれな外装の小さなグランドピアノを製作することで独自のスタイルを構築。
1930年頃、子会社のM.A.G. (Marcel と André Gaveau)が設立され、丈夫で小さくてしかも安価な
アップライトピアノの製造を担当。
1939年に戦争が始まった時、ガヴォ―社は95,000台目のピアノを製造したところでした。
エチエンは1943年に死去し、息子のマルセルとアンドレは困難の中でも経営を続けました。
1960年、エラール社と合併し、"Société Gaveau-Erard"と名付けられました。
その後プレイエルも加わり、"LES GRANDES MARQUES REUNIES"(大メーカーの集合)となりましたが、
1965年に倒産、工場は閉鎖。
しかし、不安定な財政状況は続き、この複合企業はドイツのシンメル・カンパニーに買収された。
シンメルとの契約が1994年に切れると、この人気のあるフランスのメーカーは再びフランスへ戻った。
1996年以降、ガヴォーのピアノは、フランス南部のプレイエル社の工場で生産されている。
※Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造

<附録>
ガヴォー・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1855年~1988年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ガヴォー(Gaveau)はかつて存在したフランスのピアノ製造会社である。
1847年にパリでジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーによって創業され、エラールとプレイエルに次ぐ
フランスで第三のピアノメーカーであった。大工場はフォントネー・スー・ボワにあった。
一部のガヴォー製ピアノは芸術的なキャビネットを持っていた。
多くのピアノは空圧システムを備えている(Odeola、Ampico、ミニョン)
1960年、ガヴォーはエラールと合併した。
1971年から1994年まで、ガヴォーピアノはピアノ製造会社のヴィルヘルム・シンメルによって作られた。
ガヴォーブランドは現在フランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)によって所有されている
(プレイエルおよびエラールブランドもこの企業によって所有されている)
今日、フランス・ピアノ製造会社はガヴォーブランド名で幾つかのモデルを製造している。
ジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーには6人の子供がおり、エティエンヌ・ガヴォーが継いだ。
ガブリエル・ガヴォーは1911年に設立された。
ガブリエル・ガヴォーはペダルまたはデュオ・アート(自動演奏)システムを持つ幾つかのピアノを作り、
1919, 55-57 Av. Malakoff, 75016(現トロカデロ)に近いAv. Raymond Poincaré)にあった。
この工場は1939年にドイツによって徴発された。
また1911年には、オーギュスタン・ガヴォーが独自のアップライトピアノを作る自身のピアノ会社を設立]
自伝『My Young Years』において、アルトゥール・ルービンシュタイン はコンサートで
ガヴォー製ピアノを演奏する契約をいかに結んだかについて詳しく述べている。
ルービンシュタインはガヴォー製ピアノの「堅く応答がないアクション」と「音色の冷たさ」について書いている。
またカミーユ・サン=サーンスやアルフレッド・コルトーのような音楽家も
自身のガヴォーピアノの演奏を楽しんだ。

ガヴォーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GEBR. PERZINA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製

ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、
現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。

1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、
北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。
現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に
こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある
ピアノのひとつとなりました。
また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、
ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。
しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は
東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、
大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。

2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。→★
※ 第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。

ペレツィーナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GEBRÜDER STINGL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
Gebrüder Stingl ドイツ(ウィーン) 詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>

ゲブルーダー・シュティングル(独: Gebrüder Stingl、ゲブリューダー・シュティングル、シュティングル兄弟)は、
ピアノを製造するウィーンの同族経営事業であった。
住所はウィーンの3区ラントシュトラーセ、Ungargasse 27であった。
創業者アントン・シュティングル(Anton Stingl、1808年9月11日ラーズニェ・キンジュヴァルト生、
1895年ピッテン没)は1840年におじの家具職人イグナーツ・シュティングルと共にウィーンへ移住した。
アントンは1853年からピアノ木工職人として働き、1860年に独立した。
作業場は4区のStarhemberggasse 28に位置していた。当初は、工芸ピアノ製造業者に供給した。
会社は1887年に拡張・再編された。3人の息子ヴィルヘルム(1860年-1908年)、イグナーツ(1861年-1915年)、
グスタフ(1868年9月7日–1906年11月27日)が会社に加わった。
ヴィルヘルムは商工会議所会員、イグナーツは名誉称号Kaiserlicher Rat(帝国顧問)を授与され、
グスタフは1900年から1904年までキリスト教社会同盟評議員であった。
父の死後、彼らはオーナーとなり、会社は「ゲブルーダー・シュティングル」(シュティングル兄弟)と呼ばれた。
会社は急成長し、10区のLaxenburger Strasse 32に新たな工場が建設された。
1895/1896年、古い伝統企業Johann Baptist Streicherがゲブルーダー・シュティングルに売却された。
シュティングルの生産はNeuer Streicherhofに移転した。
ゲブルーダー・シュティングルはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達ピアノフォルテ製造業者に
指名され、1900年4月14日から宮廷ピアノ製造業者となった。ペルシアやセルビア、ブルガリア王室の御用達の
称号もゲブルーダー・シュティングルに贈られた。
会社はウィーン式とイングランド式のレペティション機構(ダブルエスケープメント)を備えたグランドピアノを
製造したが、高品質のコンサートピアノも開発した。
特色はハーフペダルと世界最小のピアノ「Piccolo-Mignon」であった。
第一次世界大戦まで、シュティングルオーストリア=ハンガリー帝国で最大のピアノフォルテ工房へと発展し、
約400人の従業員を雇用した。ブダペストにも支店を開いた。
帝国の崩壊によって会社は大きな打撃を受け、1918年に「シュティングル・オリジナル」(Stingl-Original)
として再編され、次に有限会社、1922年に株式会社となった。住所はTroststraße 10であった。
1935年、シュティングルはLauberger & Glossによって買収され、 Lauberger & Glossは
「Stingl-Original」のブランド名で楽器の製造を続けた。
Lauberger & Glossは1960年代初頭にウィーンのその他のピアノ工房と同様に製造をやめた。
もう一つの「シュティングル」がグスタフ・シュティングルの息子グスタフ・イグナーツ(1900年-1960年)の
会社であった。1921年、彼は4区Favoritenstraße 17に会社を設立した。
1923年、Robert Rellaが会社に加わった。この会社「グスタフ・イグナーツ・シュティングル」は
1920年代以降輸出に重きを置いた。
グスタフ・イグナーツ・シュティングルは1932年からピアノおよびオルガン製造業者のギルドの会員であり、
後にはその役員であった。会社の本店は後に4区のWiedner Hauptstraße 18に移転し、
作業場は12区のWolfganggasse 38に位置した。1948年、ファミリーの合名会社が設立された。
これは後にシュティングル家の最後の人物の甥のグスタフ・イグナーツ・スィーヒ(Gustav Ignaz Sych)の
単独所有となった。第二次世界大戦後、ウィーン国立音楽大学やウィーン音楽院、ザルツブルク音楽祭への
納入が始まった。
カール・ミヒャエル・ツィーラーやフランツ・レハール、ロベルト・シュトルツ、ウド・ユルゲンス、
オペラ歌手らなど数多くの音楽家がシュティングルの製品を購入した。
シュティングルは日本のピアノ製造業者KAWAIの欧州代表部でもある。
HP:https://stingl-klavier.at/
GEISSLER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ガイスラー フランス 詳細不明
GEISTREICH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GEISTREICH ガイストライヒ

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
GELTHNER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GELTHNER ゲルッツナー

発売元:音調社、製造:広田ピアノ
広田ピアノで作っていたピアノ。 

ゲルッツナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GEMENSTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ゲーメンスタイン 日本 詳細不明
GEOGE ROGERS & SONS



画像クリックでHPへ戻る
ジョージ ロジャーズ アンド サンズ
イギリス(ロンドン) 詳細不明
GEORG SCHWECHTEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GEORG SCHWECHTEN ゲオルク・シュヴェヒテン(シュベヒテン)
1853年創業 ドイツ(ベルリン)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ゲオルク・シュヴェヒテン(Georg Schwechten、1827年2月4日シュトルツェナウ生、
1902年8月19日ベルリン没)は、19世紀後半のベルリンの卓越したピアノ製作者の一人である。
オリジナルの保存状態のよい、または修復されたシュヴェヒテンのアップライトピアノおよび
グランドピアノは今でも称賛に値すると見なされており、珍しい。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年に兄のハインリッヒ・シュヴェヒテン(1812年-1871年)によって
1841年にベルリンKoch通り11番地で開業されたスクエア・ピアノの工房を引き継ぎ、
弟のヴィルヘルム(1833年-1900年)と共に1853年にG. シュヴェヒテン社を創業した。
1861年、ゲオルクはKoch通り60番地に工場を建設し、その後隣の不動産も取得した。
G. シュヴェヒテン社のピアノはすぐに大きな名声を得た。
ゲオルクの死後、娘のAnna Maria Clara Fiebelkornが会社を引き継いだ。
彼女はSchwechtenhausを建設した。
ヴィルヘルムの息子フリードリッヒとヴィルヘルム(1880年-1954年)は1910年に
Pianofabrik Schwechten & Boesを設立した。
(1911年からGebr, Schwechten、1912年からFriedrich Schwechten、ヴィルヘルム通り118番地)
1918年、2人とも親会社に戻った。ピアノ生産は1854年に始まり、1925年まで続いた。
シュヴェヒテンピアノは1839年にゲオルク・シュヴェヒテンの兄ハインリッヒの店で始まった。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年にベルリンで店を構え、優美な手作りピアノを専門とした。
この素晴らしいピアノはゲオルクが死去した1902年に終わった。
「Schwechten」のブランド名は中国の上海鋼琴有限公司(Shanghai Piano Co. Ltd.、1895年創業)
によっても使用されていたが、ドイツのSchwechtenとの関係は不明である。
GEORGE STECK & CO.
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジョージ・ステック エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品 ニューヨーク
現所有:ピアノディスク社
MASON & HAMLINの項目も参照

ジョージステックのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 GERHARDADAM
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ゲルハルドアダム ドイツ 詳細不明
ADAM GERHARD アダム・ゲルハルド
GEROG JACOBI ドイツ シュトゥットガルト(STUTTGART) 詳細不明
GERSHWIN




画像クリックでHPへ戻る
ガーシュイン/ガーシュウィン GERSHWIN

大岡楽器製作所、白鳥楽器、スワン楽器製造KK、フローラピアノ製造(株)、東日本ピアノ製造(株)

昭和28年に大岡郁平氏によって大岡楽器製作所が発足し、
ガーシュインのブランドでアップライトピアノが作られました。

その後、稲葉ピアノの後援で白鳥楽器となり、さらにスワン楽器KKと改称され、
昭和42年に東日本ピアノ製造(株)に改組。

グランドピアノの裏側には国産初のテンション・レギュレーター装置を採用。
アップライトではペダルの重さを調整できる装置も採用。昭和を感じるピアノですね♪
機種:No500、GA-50等

上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

ガーシュインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
G.E. RUSSELL & SON 詳細不明
GEYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ガイヤー ドイツ(旧東ドイツ) 詳細不明
GLASER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイツ 読み方不明、詳細不明
GLORIOUS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
グローリアス 新東海楽器(浜松)、(第一楽器(浜松))
新東海楽器(浜松)だが、第一楽器(浜松)で作ったこともある。

グローリアスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GOLD STAR

画像クリックでHPへ戻る
GOLDSTAR/GOLD STAR ゴールドスター 東海楽器製造(株)
ピアノを製造していた頃の東海楽器株式会社についての詳しい解説は「TOKAI」の項目へ
機種:120-G等

※TOKAI(トーカイ)、SILBER STEIN(シルバースタイン)、
HUTTNER(ヒュッツナー)、というブランドもトーカイ楽器の製造です。

ゴールドスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GOODWAY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
グッドウェイ 詳細不明
GORDON LAUGHED


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GORDON LAUGHEAD ゴードン・ローヘッド製造(ミシガン州グランドヘブン)

三代続いた個人企業のピアノメーカーです。
ミシガン州のグランドヘブンにあり、アップライトピアノと学校用の楽器を主として製作。
このメーカーのブランドには、社名と同じゴードン・ローヘッドの他に、
クールツマン(KURTZMANN)と呼ばれるブランドがあります。
ピアノ業界では一般的にそのピアノの創始者の名称が用いられることが多い中、
このピアノメーカーは例外で、社内のマネージャーの名前が使われています。

ゴードンローヘッドのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

GORS & KALLMANN

GORS & KALLMANN ピアノ

GORS & KALLMANN

画像クリックでHPへ戻る

ゲルスカルマン/ゲルス・カールマン/グロスカールマン

GÖRS & KALLMANN (GORS KALLMANN)

製造:大成ピアノ製造
販売:昭和楽器OEM

機種バリエーション GK2000、GK3000など

ドイツ(旧西ドイツ)製にも同じ名前(R.GÖRS & KALLMANN)がありますがまったく違います。
音色・作りはローレックスKR27等に近い感じです。その他詳細不明。 
ピアノ天板をあけると裏に貼ってある昭和楽器の品質保障シール
(作ったピアノすべてに貼ってるとは思いますがね) →★

ゲルスカルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 GORS & KALLMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ゲルス ウント カールマン
R. GORS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
ドイツ(旧西ドイツ)ベルリン 詳細不明

ゲルスウントカールマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

GRATIAE

GRATIAE ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

パコピアノ/グラチアピアノ

PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO
この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い
北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内で行い出荷。

日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて
日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。

ブランドはGRATIAE(グラチア)という低価格のアップライトのみ。
当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、
アジア・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。

1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、
ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。
その他詳細不明。

グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク →★

パコのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GREIFEN




画像クリックでHPへ戻る
GREIFEN (J.S.GREIFEN) グライフェン/グライフン

詳細不明  GREIFENとはドイツ語で「~をつかむ」、「~をつかまえる」という意味
GREIFENピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★  GREIFENピアノ外観写真 →★

※これらの画像はすべて nosuke様からご提供頂きました
GREIG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
グリーグ (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。
GROLIA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
グロリア (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。

グロリアのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GROSSSTEIN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GROSSTEIN グロススタイン (グロスタイン)

青池楽器店
昭和11年、銀座伊東屋七階の全国ピアノ技術者協会主催の展覧会に出品された。

グロススタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GROTRIAN



画像クリックでHPへ戻る
GROTRIAN (GROTRIAN-STEINWEG)
グロトリアン (グロトリアン・スタインウィッヒ/グロトリアン・シュタインヴェーク)

ドイツ(旧西ドイツ) ボルフェンヴュッテル 創業1835年。
ヨーロッパの王室でも使われ、あのクララ・シューマンが、「今日からはこのピアノしか弾かない」と
言ったことでも知られており、愛用していたと伝えられている。

今も変わらずドイツ最高のピアノブランドのひとつであるグロトリアン・シュタインヴェーク社は、
ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンと、スタインウェイ王朝の創始者ハインリヒ・
シュタインヴェークとの協力から始まった。ふたりはグロトリアンのデザインをもとに、1835年に
最初のピアノを共同で製作したと伝えられている。
グロトリアン・シュタインヴェーク社の現従業員の約半数がピアノ製造技師であり、
その特別な見習いプログラムによって、この会社の高い技術水準は将来へと受け継がれている。
独創的な『デュオ・コンサートグランド』は、二台のピアノを1枚の大屋根で結合したピアノで、
二台のグランドは取り外し可能なリム(側板)と、間の隙間を埋めるブリッジ状の響板で接続される。
二台のグランドは簡单に切り離すことができ、一台一台個別の屋根にして独奏楽器としても演奏できる。
アップライトピアノの背面構造の設計はアスタリスク形状になっており、弦張力に対抗する力がすべて
中心の一点に集まることにより、調律の安定性を高めている。
そしてその歌うような音色から、「シンギングトーン」と称されてている。

<歴史>
ビジネスに関心を持ったグロトリアンはモスクワに小売店を開いて成功した。
10年後に母国ドイツへ帰ったグロトリアンは、ハインリヒ・シュタインヴェークの息子、
カール・フリードリヒ・テオドール・シュタインヴェークとピアノ製作の共同契約を結ぶ。
ふたりはブラウンシュヴァイクへ生産拠点を置き、高品質のピアノを製作する優れた会社を設立した。
一方、ハインリヒ・シュタインヴェークはそのころアメリカへ移住して名前をスタインウェイに改め、
自身の会社を設立していた。1865年にふたりの弟が病死すると、テオドール・シュタインヴェークは
自社の株を売って、アメリカへ渡り、繁盛していたスタインウェイ社の経営に就いた。
フリードリヒ・グロトリアンはその2年後に亡くなり、会社は息子のヴィルヘルムに委ねられた。
ヴィルヘルムは株主A.ヘルフェリヒ、H.シュルツとともに、シュタインヴェークを含む
さまざまなブランド名でピアノを生産した。
会社は着実に成長していき、1920年には、1,000人の従業員が年間1,600台の楽器を生産するまでになった。
1917年にヴィルヘルム・グロ卜リアンが亡くなると、息子のヴィリとクルトが会社の経営を引き継いだ。
兄弟は、「良いピアノを作ってさえいれば、後のことは何とかなる」 という父の教えを肝に銘じ、
良質の職人技を守り抜いた。1919年に社名が正式にグロトリアン・シュタインヴェークとなり、
その社名をめぐってスタインウェイ社と法的に争ったりはしたが、1927年には生産高が3,000台にまで増大した。
それから1931年に大恐慌による打撃を受け、年間700台まで生産高は落ち込んだ。
戦時中はやむなく閉業し、戦後グロトリアン・シュタインヴェーク社がピアノの生産を再開できたのは
1948年になってからだった。
爆撃された工場を再建し、伝統のピアノ製法を復活させるにはそれなりの時間を必要とした。
1954年には良質のピアノメーカーとしての地位が回復し、会社は若いピアニストを支援するために、
グロトリアン・シュタインヴェーク・コンクールを設立した。
そして1974年、グロトリアン・シュターンヴェーク通りに最先端の設備を誇る新工場が完成した。
グロトリアン社の6代目クヌートは息子ヨプストの協力のもと、現在この場所で会社を指揮している。

※スタインウェイ・アンド・サンズとの「Steinweg」に対する商標権問題で、ドイツ以外への輸出に於いては、
GROTLIANのブランド名を使用している。
グロトリアンはスタインウェイの血縁とも言えるが、楽器の構造はかなり異なる。
グロトリアンピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★

<附録>
グロトリアン・シュタインヴェークピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1865年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
グロトリアン=シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)は、ドイツの高級ピアノ製造会社である。
欧州外ではグロトリアンと呼ばれる。ドイツ・ブラウンシュヴァイクに本社がある。
グロトリアン=シュタインヴェークは高級グランドピアノとアップライトピアノを製造している。
同社の起源は1835年にゼーゼンのハインリッヒ・シュタインヴェーク(後のヘンリー・スタインウェイ)
が設立したピアノ工房にある。したがって、世界で最も古いピアノ製造会社の一つであり、
2015年に香港の柏斯琴行(Parsons Music Group)によって買収されるまでは
グロトリアン=シュタインヴェーク家が所有していた。
グロトリアン=シュタインヴェークの歴史は、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク
(米国への移住後にヘンリー・スタインウェイと改名し、スタインウェイ・アンド・サンズを創業した)
によって最初のシュタインヴェークのピアノ工場が建設された1835年に遡る。
1856年、フリードリヒ・グロトリアンがパートナーとなった。
1865年、フリードリヒの息子ヴィルヘルム・グロトリアンと2人の共同出資者が工場と
シュタインヴェークブランドの後継としてピアノを販売する権利を買い取った。
グロトリアン家のその後の世代が会社をドイツで最高級のピアノ製造会社にした。
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノは一部の高名なピアニストによって好まれ、
シカゴ・コロンブス万国博覧会(1893年)にて称賛を得た。
グロトリアン=シュタインヴェークはオーケストラとコンサートホールを運営し、ドイツの6都市、
そして1920年までにロンドンに販売店を設立した。
1920年代末の最盛期には、グロトリアン=シュタインヴェークは1000人の従業員を雇用し、
年間3千台のピアノを製造した。
1930年代の不景気と1940年代の戦争によって、グロトリアン=シュタインヴェークはひどく衰退し、
その後工場を完全に失った。グロトリアン家は工場を再建し、高品質な仕事でその評判を取り戻した。
1950年代には、有望な若いピアニストを見つけるために年1回のピアノ演奏コンクールを創設した。
グロトリアン=シュタインヴェークは1960年代中頃に米国で事業を拡大しようとした。
スタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)はシュタインヴェーク(Steinweg)の
名称の使用を差し止める訴えを起こし、その結果合衆国第2巡回区控訴裁判所にて1975年に判決が下された。
この訴訟は、グロトリアン=シュタインヴェークというブランドはピアノ購買者がそのブランド名と
スタインウェイ・アンド・サンズのブランドを一時的に混同する原因となる、という「購買前の混同」を
説明する先例となった。裁判所はグロトリアン=シュタインヴェークに米国での「シュタインヴェーク」という
名称でのピアノの販売を差し止める命令を下した。
その後、グロトリアン=シュタインヴェーク社は北米でピアノを販売するために
グロトリアン・ピアノ・カンパニーと命名した企業を設立した。

■19世紀
1803年1月13日、ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンはドイツ・シェーニンゲンで生まれた。
フリードリヒは1830年頃に始めたピアノの販売のためにモスクワに居を定めた。
その後、サンクトペテルブルクに拠点を置いた小さなピアノ製造会社との共同経営会社に参加し、
これらのピアノをモスクワで成功した楽器店で販売していた様々な楽器に加えた。
ドイツでは、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(1797年-1871年)が1835年に
ハルツ山地の端のゼーセンにある自宅からピアノの製造を始めた。
ハルツ山地はピアノに使われる上質なブナノキとトウヒの産地であった。
最初の年に生産したピアノの中に、フリードリヒ・グロトリアンによって設計され、
シュタインヴェークが作ったスクエア・ピアノがあった(この楽器は現在ブラウンシュヴァイク博物館にある)
シュタインヴェークは1839年のステート・フェアに3台のピアノを出品した。
その内2台はスクエア・ピアノだったが、グランドピアノが広い注目を集めた。
1850年、シュタインヴェークは大家族のほぼ全員と共にニューヨークへ移住した。
ピアノ工場は長男のC・F・テオドール・シュタインヴェーク(1825年-1889年)に残され、
テオドールは自身の名前で経営を続けた。
その頃、ニューヨークでは、シュタインヴェーク家は米国風に姓をスタインウェイと改め、
1853年にピアノ製造会社スタインウェイ・アンド・サンズを創業した。
父の古い工場の経営権を引き継いでから間も無く、C・F・テオドール・シュタインヴェークは
ブラウンシュヴァイク近くのヴォルフェンビュッテルに移った。
ここで、テオドールは商売のために旅行していたフリードリヒ・グロトリアンと出会った。
1854年、フリードリヒ・グロトリアンは叔父からの遺産としてMüller-Mühlenbein pharmacyを受け取り、
その経営のためにドイツへ戻った。
グロトリアンは1856年にC・F・テオドール・シュタインヴェークのピアノ会社に共同経営者として加わった。
1857年、C・F・テオドール・シュタインヴェークとグロトリアンはピアノ工場をブラウンシュヴァイクへ移し、
街の中世部のBohlwe通り48にある元市長の屋敷に店を構えた。
会社は当時約25人の従業員を雇った。フリードリヒ・グロトリアンは1860年12月11日に死去し、
会社の株式は息子のヴィルヘルム(1843年)に残された。
1865年、C・F・テオドール・シュタインヴェークは兄弟のヘンリーとチャールズの死後に
スタインウェイ・アンド・サンズの経営を助けるためにニューヨークの家族に必要とされた。
ヴィルヘルム・グロトリアンはC・F・テオドールの工場の株式を買い取るために2人のピアノ職人
Adolph HelfferichとH.D.W. Schulzと手を組んだ。
新たな共同経営会社は「テオドール・シュタインヴェークの後継者」を意味する商標
「C.F. Th. Steinweg Nachf.」を使用するための権利の代金を支払った。
(Nachf. はドイツ語で後継者を意味する "Nachfolger" の省略形)
会社名は「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf.」となった。
ヴィルヘルム・グロトリアンは1870年代に2人の息子ヴィルヘルム・"ヴィリ"・グロトリアンJr
(1868年-1931年)とクルト・グロトリアン(1870年-1929年)を育てた。
ニューヨークでは、C・F・テオドール・シュタインヴェークはC・F・セオドア・スタインウェイに改名し、
スタインウェイ・アンド・サンズに15年間トップおよびチーフ・テクニシャンとして働いた。
セオドアは米国での生活を好きではなく、ブラウンシュヴァイクの自宅を持ち続けており、
随時行ったり来たりしていた。1880年、セオドアは海を超えた渡航を止め、父親の古い会社
(現在のグロトリアン=シュタインヴェーク)と対抗して、欧州の顧客のためにピアノ製造する
新しいスタインウェイ・アンド・サンズのピアノ工場をハンブルクで始めた。
事業を立ち上げ後、セオドアは引退して晩年をブラウンシュヴァイクで過ごした。
セオドアは1889年に死去し、彼のピアノコレクションは市の博物館へ寄贈された。
ハンブルク工場はグロトリアン=シュタインヴェークと競い合って成功を収めた。
どちらの会社も高級ピアノを生産することで知られていた。
1880年代、ヴィリ・グロトリアンは米国メリーランド州ボルチモアのWm. クナーベ& Co.と
フランス・パリのプレイエル, ヴォルフ et Cieでピアノ製造を学んだ。
クルト・グロトリアンもまたその他の国々のピアノ製造会社で学んだ。
彼らの父ヴィルヘルム・グロトリアンSr. は1893年にヴィリをシカゴへ連れていった。
シカゴで開催されたコロンブス万国博覧会でグロトリアン=シュタインヴェーク社のピアノは
メダルを授与された。ピアニストのオイゲン・ダルベール、イグナツィ・パデレフスキ、
クララ・シューマンはグロトリアン=シュタインヴェークのピアノを好むと表明した。
グロトリアン=シュタインヴェークはベヒシュタイン、ブリュートナー、フォイリッヒ、
イバッハ、リップ、スタインウェイのハンブルク工場と共にドイツのトップピアノ製造会社に数えられた。
1895年、ヴィルヘルム・グロトリアンSr は2人の息子を共同経営者とした。
父は息子達に「いいピアノを作りなさい、残りはすべて後からついてくる」という社訓を残した。
ヴィリ・グロトリアンは、グロトリアン=シュタインヴェークがピアノ生産に使うシステムと
スタンダードの改善を系統的に始めた。
グロトリアン=シュタインヴェーク・ブランドは最高品質のものとしてよく知られた。
会社は30の帝室・王室の御用達の称号を得た。
所有者のヴィルヘルム・グロトリアン、ヴィリ・グロトリアン、クルト・グロトリアンは
オーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達を授与された。

■20世紀
ブラウンシュヴァイクにおいて、グロトリアン=シュタインヴェークは1913年までに
500人の従業員を抱えるまで成長し、毎年約1600台のピアノを生産した。
グロトリアン=シュタインヴェークオーケストラは若い指揮者ヘルマン・シェルヘンの指揮の下
ライプツィヒで活動した。グロトリアン専門店がライプツィヒ、ハノーファー、ケーニヒスベルク、
デュッセルドルフ、ベルリンで営業していた。
第一次世界大戦中、クルト・グロトリアンはドイツ陸軍の軍務に服するため工場を離れた。
クルトは程なくして負傷し、捕虜となった。ヴィルヘルム・グロトリアンは1917年に死去した。
息子のヴィリ・グロトリアンが会社を率いたが、労働力とピアノの注文は大幅に減少した。
戦後、会社は以前のように回復し、グロトリアン=シュタインヴェークのブランド名の下で
ロンドン店を立ち上げることによって1920年に売り上げを延ばした。従業員は1000人に増えた。
1924年、グロトリアン=シュタインヴェークは微分音音楽作曲家イワン・ヴィシネグラツキーのために
特殊なピアノを製造した。このピアノは3段の手鍵盤と四分音離れて調律された弦を持っていた。
1927年まで、グロトリアン=シュタインヴェークは毎年約3000台のピアノを作っていた。
この数字は世界恐慌の間の1930年代に著しく落ち込んだ。1931年には500台未満のピアノしか作られず、
従業員は200人未満に減った。
クルト・グロトリアンは1920年代末に重病を患らい、1928年に2人の息子エルヴィン(1899年-1990年)と
ヘルムート(1900年-1977年)を株主にした。
1929年、クルト・グロトリアンは古い戦傷の合併症により死去した。
ヴィリ・グロトリアンは1931年に死去した。
第二次世界大戦中、グロトリアン=シュタインヴェークの工場は(ドイツの多くの他社と同様に)
航空機の組立部品に転向するよう命令された。工場は1944年のブラウンシュヴァイク爆撃によって破壊された。
街の中心部にあった創業者の屋敷も同様に破壊された。
その後、エルヴィンとヘルムートは工場を再建した。1948年までに生産は再開した。
作曲家でピアニストのヴィルヘルム・ケンプは戦後に製作されたピアノの「響きと精緻な出来栄え」の
称賛者として録音を続けた。

■商標争い
商標に関する2つのピアノ製造会社間の最初の摩擦は1895年に起こった。
1895年、スタインウェイ・アンド・サンズはグロトリアン=シュタインヴェークがピアノに関して
「シュタインヴェーク」という名称の使用を止めるよう提訴した。スタインウェイは裁判に破れたが、
1919年1月、ヴィリとクルト・グロトリアンはさらなる訴訟を防ぐことを期待して、家業の商標を守るために
姓をグロトリアン=シュタインヴェークに変更する決断をした。
1925年、会社はグロトリアン=シュタインヴェークカンパニーと呼ばれるデラウェア州法人として
米国での販売事業を立ち上げた。
続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークが米国で販売したピアノはわずか15台であった。
1928年にピアノの販売を発見すると、スタインウェイ・アンド・サンズは販売代理店と
グロトリアン=シュタインヴェークに抗議したが、1929年にグロトリアン=シュタインヴェークは47台の
ピアノを米国へ送った。スタインウェイ家の代表者はグロトリアン=シュタインヴェーク家と
この問題について直接話し合うためにドイツへ赴いた。
秘密協定が合意に達すると、両家の代表者は「友好の葉巻」を吸い、グロトリアン=シュタインヴェークは
それ以降米国での「シュタインヴェーク」および「グロトリアン=シュタインヴェーク」の名称の使用を止めた。
1930年、デラウェア州法人は 解散し、続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークから米国への輸出は減少、
その後完全に中止した。
1950年、グロトリアン=シュタインヴェークは(使われることのなかった)1926年の古い商標出願を放棄した。
1961年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェーク(1935年生)が会社に加わった。
1966年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は米国でのピアノ販売のためにウーリッツァーと契約を結び、
スタインウェイ社はニューヨーク州で訴訟を起こした。裁判は9年続いた。
1975年、合衆国第2巡回区控訴裁判所は、
「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf. 対Steinway & Sons」の陳述を聴取した。
原告のグロトリアン=シュタインヴェークは彼らのブランド名は長く確立したものであり、
ドイツにおいてスタインウェイのブランド名より前から存在する、と主張した。
被告側のスタインウェイ・アンド・サンズは、米国においてよく知られ強く確かである彼らのブランド名が
消費者の混同によって弱められた、と反訴した。
控訴審は、ピアノ購買者は2つのピアノブランドがあることで「購買前の興味」において誤って導かれることになり、
「潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」として
被告側を支持した下級審の判決を支持。
控訴審は、米国では非常によく知られたブランドではないグロトリアン=シュタインヴェークは
スタインウェイ・アンド・サンズが築いてきた確固たる評判に基づいて一定の余分な信頼性を不当に得ている、
と考えた。高級ピアノの購買者が洗練され博識であると理解され、購買時にどの製造会社がどのピアノを
製造しているかに関して混同していなかったとしても、グロトリアン=シュタインヴェークのブランドに対する
最初の関心時に「意識下の混同」が存在するかもしれない、と控訴審は考えた。
グロトリアン=シュタインヴェーク社は1977年以後「シュタインヴェーク」の名称を使った米国での
ピアノの販売を禁止された。その結果、1976年にグロトリアン=シュタインヴェークは北米でピアノを
販売するための補助的なブランドとしてグロトリアン・ピアノ・カンパニーGmbHを作った。
裁判は現在「購買前の混同」として知られる概念を定義した初の裁判例であった。
地方裁判所判事ロイド・フランシス・マクマーンは「購買前の混同へと欺いて導かれ、
潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」と述べた。
「購買前の」混同に関するロイド・フランシス・マクマーンの考えは控訴審判事ウィリアム・H・ティンバース
によって追認された。ティンバースは「こういった購買前の混同はスタインウェイに損害を与える」と述べた。
グロトリアンのウェブサイトの英語版は、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版とは異なり、
「シュタインヴェーク」という姓に一切言及していない。これはおそらく訴訟の結果であり、
法的責任を最小化したいという願望のためであろうとも考えられる。

■現在の業務
1974年、グロトリアン=シュタインヴェーク家はブラウンシュヴァイク北東部に新たな工場を建設した。
ヘルムートとエルヴィン・グロトリアン=シュタインヴェークは引退し、ヘルムートの息子クヌートが
トップとなった。この工場が現在のグロトリアン=シュタインヴェークの生産拠点である。
1999年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェークは社の指揮から退き、日常的な管理を
ブルクハルト・シュタイン(インダストリアルマネージャー、ピアノ職人)の手に委ねた。
2012年時点で、グロトリアン=シュタインヴェーク社はエルヴィン・グロトリアンの娘とクヌートの息子で
株主の6代目ヨブスト・グロトリアン(1969年生)によって所有されている。
毎年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は6種類のサイズのアップライトピアノ約500台と5種類のサイズの
グランドピアノ約100台を生産している。毎年20台程のコンサートグランドピアノが作られており、
その製造にはそれぞれ8か月を要する。2010年、特別な175周年モデルとして「Composé Exclusif」と呼ばれる
118cmのサイズのアップライトピアノを発表し、50台が生産された。
2015年4月1日、柏斯琴行(Parsons Music Group、香港を拠点とする1986年創業の企業)が
グロトリアン=シュタインヴェークの株式の大半を取得した。
2017年、第2ブランドfriedrich GROTRIAN(フリードリッヒ・グロトリアン)が作られた。
このブランドのリム、鋳鉄フレーム、響板は中国(Parsons Music)で作られ、最終的な組み立て、
アクション組込み、仕上げがドイツで行われる。アクションは大部分がレンナー社製が使われている。
2018年以降、製造が完全に中国で行われる第3ブランドとして
WILHELM GROTRIAN(ヴィルヘルム・グロトリアン)と
WILHELM GROTRIAN STUDIOが存在する。
前者は高さが46インチから52インチの間のアップライトピアノ4モデルと、
長さが5フィートから6フィート11インチの間のグランドピアノ3モデルである。
WILHELM GROTRIAN STUDIOブランドは、アップライトの高さが45 1/2インチから48インチ(3モデル)と
グランドピアノの足さが5フィートまたは5フィート5インチ(2モデル)である。


グロトリアンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GROTORIAN & SONS


画像クリックでHPへ戻る
GROTORIAN & SONS  グロトリアン・アンド・サンズ

ドイツの「GROTRIAN」とは違うピアノのようですが、詳細は不明
本場ドイツ製のグロトリアンとは違い、スペルが違います。
このピアノの銘柄スペル内には、「O(オー)」が1文字多く入っています。

雰囲気的には韓国製っぽいですが、詳細はまったく不明
GRUNEWALD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
グルーネバルト ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
GUILBERT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ギルベール プルツナーピアノ製造(株) その他詳細不明

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

H, CHALLEN CHALLENの項目参照
H. HERZ
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フランス(パリ) 詳細不明
H. MATSUMOTO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
H.MATSUMOTO エイチ・マツモト (エチ・松本)

松本ピアノ(東京月島)
松本ピアノが故あって二つに別れたとき、長男広氏のHをとって付けたピアノ。
父、新吉氏のS・マツモトもある。

※ 松本ピアノの詳しい歴史については、MATSUMOTO & SONSの欄をご参照下さい

マツモトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
H. PLEYEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
エイチ・プリエル/H・プリエル 森技術研究所(浜松) ※フランスのプレイエルとは違う
HAESSLER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヘスラー ドイツ 詳細不明
※ヘスラーピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★

ヘスラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HAIDIEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
HAILUN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HAILUN ハイルン 中国(寧波市)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、
ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。
公式HP:http://www.hailunpiano.com/
HALLET DAVIS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハレット・デイビス/ハレットデービス HALLET DAVIS/HALLET. DAVIS & Co.
アメリカ 1839年創業

アメリカ最古の歴史を持ち、優れた品質を誇る。
創業1839年であるから極めて古く、それ以来音楽学校その他の専門家用として
名声を博してきた楽器で、1867年のパリ博覧会であの有名なフランツ・リストが
このピアノを弾き、またヨハン・シュトラウスも愛用したと伝えられている。
尚、ローマ法王のバチカン宮殿にも納入されたというから、20世紀初頭の最も
優れたピアノの一つであったことは間違いないでしょう。
現在でもシカゴで販売されています。

ハレット・デイビスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HAMAMATSU
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハママツ 日本(名称からして浜松だと思う) 詳細不明
HAMILTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハミルトン アメリカ 詳細不明
HAMPTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハンプトン HAMPTON アメリカ ストーリー(ストリー)・アンド・クラーク社

詳細は、スートリー・アンド・クラーク(STORY & CLARK)の項目を参照
HANDOK
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハンドック/ハンドク 韓国(?) 詳細不明

HANKYU WAGNER

HANKYU WAGNER

画像クリックでHPへ戻る

阪急ワグナー/ハンキュウ ワグナー (HANKYU WAGNER)

こちらは阪急と入っているワグナーピアノです。
阪急百貨店で売られていたブランドでしょうか?

非常に珍しいトレードマークです。
詳細はワグナーの項目を参照してください。

ワグナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HANSEN ハンセン ドイツ 詳細不明
HANTHEY ドイツ 読み方不明、詳細不明
HARDMAN PECK




画像クリックでHPへ戻る
ハードマン・ペック HARDMAN PECK & CO. アメリカ 創業1842年

ハードマン・ペックはアメリカの歴史的なピアノで、メトロポリタン歌劇場の専用ピアノとして
使われ、歴史的なテナー歌手であるエンリコ・カルーソーが伴奏用に使ったと伝えられている。
グランドピアノとアップライトピアノ両方を作っており、オペラ用のピアノは繊細で優美な
音色を特徴とし、シンギングトーンと表現されています。
構造上の特徴としては、背面のポスト(支柱)が6本あることなどが知られています。

外装にあるハードマンペックのブランド銘柄マーク→★

ハードマンペックのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HARMONY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハーモニー 浜松楽器工業 (株)

浜松楽器工業 (株)は、「ディアパソン」を製造していた会社で、
「浜松楽器」が「河合楽器製作所」の子会社の時代に製作したのピアノのようです。
その他詳細不明

※浜松楽器の詳細については「ディアパソン」の項目を参照
HARRINGTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハリントン アメリカ
上記、ハードマン・ペック HARDMAN PECK & CO.のブランド
HARRISON キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
HARRODSER HARRODSER ハロッサー

ドイツの部品を使っているとのこと
中国製造?詳細不明

<某HPの製品情報より>
DEHONITピンブロックは、厳選されたブナ材の19層ブロックで、
ピアノ弦のスピンドルピンの安定した位置を提供します。
黒檀の黒鍵はインドネシアのエボニーで作られており滑らかで光沢があります。
ハロッサーアクションは、すべての無垢材のアクションです。
ピアノの8800の部品が正確に一致しています。キーは1秒間に13回連打可能。
レスロー弦は、130年の歴史を持つドイツで最高のピアノ弦。耐用年数を50%増しの優れた防食処理。
ドイツABELハンマー使用、厳選されたピュアウールと洗練された手作業の研磨により、
ハロッサーピアノならではの音質を実現しています。
STRUNZサウンドボードは、トウヒ材で作られたドイツのトップレベルの響板。
可変厚の響板は、演奏中に最適なボリュームを発生させます。

<参考>
HARRODSER INDIAのフェイスブックページ →★
HARVARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HARVARD ハーバード

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
HASHIMOTO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HASHIMOTO ハシモト

製造:協信社(シュベスターピアノ製造KK) 東京蒲田
橋本勝美氏が協信社(シュベスター)に依頼して作ったピアノ。

ハシモトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HAUPTMANN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HAUPTMANN ハウプトマン (ハープトマン)

製造:日本楽器横浜工場(横浜)、発売元:山野楽器店(銀座)
銀座の山野楽器店が松本ピアノから権利を譲り受けて総合楽器店として出発した時、
西川ピアノにヤマノピアノを依頼、西川が日本楽器の横浜工場となってから作ったピアノ。
※スペル HAUPTOMAN→× HAUPTMANN→○

ハウプトマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HAUPTMANN JUNIOR


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HAUPTMANN JUNIOR ハウプトマン・ジュニア

製造:日本楽器横浜工場(横浜)、発売元:山野楽器店(銀座)
ハウプトマンと同じように山野楽器店が日本楽器横浜工場で作らせていたブランド。
ハウプトマンより一回り小型で、一般向きと言われたが堅牢で音色もきれいであった。

ハウプトマンジュニアのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HEINRICH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハインリッヒ 福山ピアノ社(フクヤマピアノ)

昭和40年代頃に株式会社福山ピアノ社が販売していたピアノブランド。
本社(当時):東京都千代田区神田神保町1丁目14番地

その他詳細不明
HEINTMAN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハインツマン HEINTMAN & COMPANY.LIMITED カナダ

トロントにあるメーカーで、創業は1850年。
あらゆるピアノを製作しており、幾多の国際的な賞を取った優れたピアノとのこと。

ハインツマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HEITER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハイテル 大森ピアノ社(磐田市) 詳細不明
HELL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヘル 日本 詳細不明
HELLAS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヘラス フィンランド(HELSINKI/ヘルシンキ) 創業1901年

スカンジナビア諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランド)の中では
最も古いピアノメーカーで、レンナーハンマーを使いドイツの伝統技術を継承して作られた
性能の優れたピアノです。機種としてはコンサートグランドから、コンソールタイプまで広範囲に生産。
最盛期の年間生産台数は約5500台で、その半数がヨーロッパや
同スカンジナビア各国へ輸出されている。その後、日本にも入ってきて好評を博す。 
HELLASは1989年、FAZERも買収してフィンランド国営企業として2つのブランドのピアノを製造。

ヘラスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

HELMAN

HELMAN

画像クリックでHPへ戻る

ヘルマン

東洋ピアノ製造(アポロピアノ) 浜松 詳細不明

ヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

HELMHOLZ

画像クリックでHPへ戻る
FR.HELMHOLZ ヘルムホルツ

ドイツ(ハノーファー/HANNOVER)
HERIOS ? ヘリオス 詳細不明
HERRMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヘルマン 神戸堂(神戸)、福山ピアノ(東京)、大成ピアノ製造(浜松) 詳細不明

ヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HILGER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヒルガー ドイツ 詳細不明
HINZE キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
HIROTA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HIROTA  ヒロタ

広田ピアノ(川崎市)、東洋楽器製造(浜松)
広田米太郎氏は、当時最高の技術を持つ調律師で、1923年の関東大震災の翌年に
東京楽器研究所を離れて、約6~7年の間ヒロタピアノを作っていた。
従業員24~25人で、年間約100台を製造していたという。
ヒロタピアノはアップライト600台、グランド70~80台が作られたと推定されており、
アクションやワイヤーはドイツ製を使い、グランドはブルッツナーをコピーしたもので、
音色は極めて美しく、ブランドとしてはY・ヒロタが用いられていた。
この米太郎氏の長男の広田武雄氏が広島で屋代千里氏と合同して
東洋楽器製造株式会社を作り、ワグナーピアノを作り出しました。

※Y.HIROTA Y・ヒロタ

製造:東洋楽器製造KK(広島)
製造?発売元?:ヒロタピアノ(広田ピアノ)(東京都大田区大森)

広田米太郎氏によって大田区大森に創立されたヒロタピアノのブランド。
ブルッツナーをコピーしたもので、音色は極めて美しかったというが、
工場は終戦とともに消失した。広島の東洋楽器でも作られていた。

ヒロタのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HOBART M. CABLE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ホバート・M・ケーブル アメリカ 1911年創業 工場:ミシガン州
HOELLING & SPENCENGBERG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイツ 読み方不明、詳細不明
HOEPFER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヘパー ドイツ 詳細不明
HOFFMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ホフマン

小野ピアノ?、興和楽器製作所(製造)、日本楽器横浜工場(製造)、東洋楽器、十字屋?

ホフマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

HOFFMANN



画像クリックでHPへ戻る
HOFFMANN(W.HOFFMANN)(& KUHNE) ホフマン&キューネ
ドイツ(旧西ドイツ) 
このトレードマークにはMade by C.Bechstein Europe SINCE1964とあります

HOFFMANN(ホフマン)(ベヒシュタイングループ)はペトロフがOEM販売。
PETOROFのHPより。

エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
W・ホフマン(W. Hoffmann)はドイツのアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
工房は1893年にベルリンで創業された。
1991年、「転換」の直後、ホフマンはベヒシュタイングループに買収され、
アップライトピアノとグランドピアノはザイフヘナースドルフで生産された。
2001年、生産がチェコに移転された。

ホフマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HOLTS ホルツ 詳細不明
HOMEYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HOMEYER/ERNST HOMEYER ホーマイヤー ドイツ(ライプツィヒ) 旧東ドイツ その他詳細不明

HOPKINSON

HOPKINSON

画像クリックでHPへ戻る

ホプキンソン 1835年創業 イギリス(ロンドン)
J.& J. HOPKINSON ホプキンソンピアノ社

ジョン・ホプキンソンによって設立
音楽出版社から出発したピアノ製造メーカーで、
1990年ベントリー社によって買収

ホプキンソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HORUGEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ホルーゲル ドイツ 詳細不明

HORUGEL

HORUGEL

画像クリックでHPへ戻る

ホルーゲル/オノ・ホルーゲル (ホリューゲル)

発売元:大阪 小野ピアノ (住所当時:大阪市住吉区帝塚山西2-8-3*)

創始者の小野好氏は仙台の富豪で、最初は最初は蓄音機の販売で成功し、
昭和8年、東京大田区の六郷にピアノ工場を持ち、
戦争中は神奈川県湯河原に疎開して大きく発展したようです。
トレードマークには、ONO PIANO,COとあります。小野ピアノ。

ホルーゲルは同社のメインブランドでした。
このピアノは私自身1台しか調律したことはありませんが、
作りはうーん。。といった印象です。

<別情報>斉藤喜一郎氏がドイツ留学から帰国後、東京蒲田楽器製作所を設立し
ブッホルツとホルーゲルピアノを製作したとの情報もあり(詳細不明)

■機種/モデル バリエーション
U5→ 特製ハンマー使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)
U6→ レンナーハンマー使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)
U7→ レンナーハンマー&レンナーアクション使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)

ホルーゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HOTTA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HOTTA ホッタ

名古屋の楽器商堀田洋行は、戦後一時オルガンで大当たりし、
引き続きピアノを製作したが、こちらはそれほどではなかった。
創立者の堀田悟朗氏(明治36年生)は、上海のモートリーピアノで技術を学び、
昭和28年ごろグランド型のオルガンを発案し、ピアノの代用として一時期よく売れた。
61鍵、73鍵などがあった。 

ホッタのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HOUGEL HOUGEL,HUGEL,(FOOGEL?),(FOUGEL?) ヒューゲル (フーゲル)
明音楽器製作所(浜松) FOOGELの説もある
HOWARD/R.S.HOWARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
R.S.HOWARD CO アメリカ(ニューヨーク) 詳細不明
HSINGHAI


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
HSINGHAI/XINGHAI シンハイ(星海) 中国北京

漢字で書くと星海と書く中国北京製のピアノです。
中国の首都である北京には楽器を取り扱っている軽工業公司の総元締である
総公司があるので北京製のピアノは中国で最も優れたピアノだと言えよう(当時)
グランドはフルコンサートを含む4種類、アップライトの種類も大変多い。
北京のピアノ工場は音楽大学と密接な関係があり、音楽大学にはピアノ科の学生
一人一人に1台のピアノが備え付けられている。

ニエアル(聶耳)と同じで星海も中国の有名な作曲家で、フルネームは洗星海
(シェン・シンハイ)である。彼は1905年に広東省の漁師の家に生まれ、
努力して広東の嶺南大学を卒業後、フランスに行き、パリ音楽院で作曲を学ぶ。
そして1935に上海に帰国したとき、抗日救国運動が激しく燃え上がっている
のを見て、多くの救国歌曲を作ったと伝えられている。
後に武漢から延安に入り、すぐに芸術学院音楽家主任となり、民族音楽の採集、
整理、研究をした人で、有名な中国の歌劇である東方紅(トンファンホン)も
この時代に生まれたといわれている。
彼は多くの民族色豊かな作曲を残すと共に、1940年に社会主義リアリズムの
新しい音楽をいかにして民族音楽の形式と結合させるかという野望を抱いて
ソ連に渡り、第一交響曲(民族解放)と、第二交響曲(神聖なる戦い)を作曲したが
惜しくも胸部疾患のため1946年に他界。

彼は中国にとっては最も社会主義に尽くした文化人であるから、北京製のピアノに
彼の名前が残されたのであろう。

中国の輸出用ピアノにはエーデルスタイン(EDELSTEIN)と名付けられている。

XINGHAIの公式HP →★
シンハイのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HUNTINGTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハンティングトン スターリング・ピアノ・コーポレーション アメリカテネシー州
※STERLINGの項目参照
HUPFELD


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フプフェルト
フプフェルトは1800年代後半に創立されたドイツ・ライプツィヒのメーカーです。
→詳しくはRONISCH(レーニッシュ)の項目を参照

フプフェルドのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HUPFER (フッファー?読み方不明) ドイツ 詳細不明
HUTTNER


画像クリックでHPへ戻る
HUTTNER/HÜTTNER ハッツナー/ヒュッツナー

トーカイ楽器/東海楽器製造(株)
当時:浜松市寺脇町36 (※東海楽器の現在のHPには寺島町とあるが詳細は不明)
現在:浜松市南区遠州浜2-26-10 (現在はギターのみの製造で、ピアノの製造はしていません)
機種:U5DM、U5DW、E1-M、E1-M(CUSTOM)等 ※Mはマホガニー、Wは木目調

TOKAI楽器には2枚目(下)のような別のトレードマークもあるようです。2人の天使?が描かれています。
こちらの画像は「Atelier sonorite」様よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

東海楽器に関するの詳しい解説は、「トーカイ」のブランド項目参照
※TOKAI(トーカイ)、SILBER STEIN(シルバースタイン)、
GOLDSTAR(ゴールドスター)というブランドもトーカイ楽器の製造です

HUTTNERのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 HYUNDAI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
Hyundai ヒュンダイ 韓国 ローゼンストックRS101などと似たピアノ

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

IBACH イバッハ イギリス 詳細不明
IBACH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イバッハ IBACH (RUD IBACH SOHN)
ドイツ(旧西ドイツ) 創業1794年。 IBACH,RUD

イバッハ社のピアノの音色は、どのような音量で弾いても、しっかりとした透明な低音域と、
豊かで温もりのあるテナー音域、そして真珠のような歌う高音域が特徴。
イバッハ社のさまざまなアップライトとグランドピアノはすベて、大部分が手作業で製作されている。
標準的なピアノを生産する一方で、イバッハ社は奇抜な外装デザインの伝統も守り続けている。
1880年代、イバッハ社はヤンコ鍵盤のピアノを製造していた。パウル・フォン・ヤンコが特許を取得した
ヤンコ式配列の鍵盤は、左右それぞれの手で広い音域を弾くことができる。

1794年にヨハネス・アドルフ・イバッハによって設立されたイバッハ社は、現在6代目イバッハが運営しており、
独立した家族経営のメーカーとしては現存する中で最も古いと思われます。
この会社ができた時代は、ピアノの構造に金属を取り入れることも、自社の商品を宣伝するという発想も、
物づくりの精神に反するとされていた。

<歴史>
ヨハネス・アドルフ・イバッハは当初、ドイツの著名なオルガン製作者のもとで修業をしていたが、そのころ、
発展途上にあったピアノに将来性を見出すと、彼の関心はこの新しい刺激的な楽器に集中していった。
1794年、イパッハが工場を設立した場所は、ピアノ製作の伝統の中心であるザクセンではなく、
デュッセルドルフに近いバイエンブルクだった。そしてナポレオン戦争による経済不況の時代にありながらも、
会社は着実に成長していった。
1834年にヨハネスの長男カール・ルドルフが経営に加わり、社名は「Rud.Ibach Sohn
(ルドルフ・イバッハ・ゾ—ン)」に改められた。グランドの発展に乗り遅れることなく、またアップライトを
早くも1838年から製造し、会社の名声は急速に高まっていく。
カール・ルドルフは、ヨーロッパ各地で開催された貿易見本市や展示会に多く参加した。
1863年、ぺーター・アドルフ・ルドルフ・イバッハが3代目イバッハ社長になると、彼の指揮のもと、
会社は発展を遂げ、より広い近代的な工場が必要となった。
自社のピアノの音色を大々的に改良していったP.A.ルドルフは、リヒャル卜・ワーグナーをはじめとする
当時の一流の作曲家や演奏家に尊敬された。
ワーグナーはルドルフのことを「親切な音色の技師』だと言っていたと伝えられている。
ピアノの外裝をもっと面白いものにできないかと考えたP.A.ルドルフは、一流の建築家や
デザイナーを対象とするコンペを行っており、今日に至るまでイバッハ・ウン卜・ゾーン社は、
奇抜なデザインの外装のピアノを作り続けている。
ルドルフが会社を商業的に拡大していったのに対し、彼の兄弟のヴァルターは世界中をまわって
一流のピアノ製作者から新しいアイディアを学んだ。10年間、外国で修行を積んだヴァルターは
ドイツへ帰国すると、1892年にペーターが亡くなったあとに会社を引き継いだ未亡人フルダを支えた。
20世紀の初めには、4代目のアルベル卜・ルドルフ・イバッハが率いるイバッハ社は、
3つの工場(シュヴェルム、バルメン、ベルリン)でピアノを生産するようになっていた。
会社は成熟したメー力ーとしての地位を確立し、演奏家や作曲家たちの支持を集めた。
しかし、1930年代の経済危機に直面すると、生産高20世紀初めの量の12分の1にまで減った。
1940年代になっても暗い時代が続き、第二次世界大戦中に会社の工場やコンサートホール、
資料室は大部分が破壊された。
苦境に陥った会社はなかなか立ち直ることができなかったが、1952年になってようやく、
5代目のヨハン・アドルフ・イバッハと妻のマルグリットがピアノ生産を再開し、
楽器の品質を高く保つことに専念した。
大部分を手作業で製作する職人技が評価され、イバッハ社はドイツ最高ランクのメーカーの地位を取り戻す。
シュヴェルムの工場は建て替えられて本社となり、世界規模の販売ネッ卜ワークが確立された。
現在、尊敬を集めるこのピアノ会社はロルフ・イバッハの指揮のもと、
芸術的な外装デザインの伝統を守り続けており、リチャード・マイヤーをはじめとする一流の建築家に
ピアノケースのデザインを依頼している。
1994年、会社のピアノ製作200周年を祝して、ブルーノ・パウルやペーター・ベーレンスらの
3つの歴史的デザインによるピアノが作られた。
今もイバッハ一族が舵をとるルドルフ・イバッハ・ゾーン社の3世紀目は明るいといえる。

初期の頃のピアノはオーバーダンパー方式(いわゆる鳥かご式アクション)を採用しているものがあります。
参考:鳥かご式アクション写真 →★

<附録>
イバッハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1820年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Rud. イバッハ・ゾーン(Rud. Ibach Sohn)は、ドイツ・シュヴェルムのピアノ製造業者であり、
2007年までは世界で最も古い製造を続けている会社であった。
1794年に創業されたイバッハはアップライトピアノとグランドピアノの大手製造業者の一つであった。
1904年まではオルガンも生産していた。イバッハは最後まで創業家によって率いられてきた。
21世紀の初めには、第7世代目が会社に加わった。2007年12月、シュヴェルムでのピアノ生産は打ち切られた。
今日は、イバッハ製ピアノのサポートを扱っている。
ヨハネス・アドルフ・イバッハは1794年にバイエンブルク(1929年以降はヴッパータール市)で
最初のスクエア・ピアノを製造した。
1795年、ヨハネスはこの地の十字軍修道院(Kreuzherren-Klosters)のオルガンを修復した。
18世紀が終わる前に、ヨハネスは生産拠点をまずリッタースハウゼン(オーバーバルメン)の貸し工房に、
次にバルメンのヴッパーフェルトに移した。
1817年、居住と工場のための建物を建設し、ここでピアノとオルガンを生産した(中心はピアノ製造)。
1839年、息子のカール・ルドルフ・イバッハとその兄弟のリヒャルト・イバッハが、
Ad. Ibach Söhne(アドルフ・イバッハの息子達)という名前で会社を引き継いだ。
最初の営業所はデュッセルドルフ、ボン、エッセンに設立された。
1850年代初頭まで、イバッハはケルンのピアノメーカーEckとプロイセンで最大のピアノメーカーである
ケーニヒスベルクのGebauhrに所有されていた。
イバッハはとりわけオランダに向けた輸出を推し進めた。1869年、オルガン製造は独立会社となった。
1873年のウィーン万国博覧会においてイバッハ社はメダルを獲得した。
会社は拡大し、ケルンに作業場を持つ営業所とシュヴェルムに新工場が加わった。
イバッハのヴェルテ=ミニョン(自動演奏)グランドピアノ(1924年)
さらに、公立楽器博物館と初のヴッパータール音楽ライブラリーが開かれた。
1892年、ペーター・アドルフ・ルドルフの未亡人フルダ・イバッハが会社を引き継いだ。
彼女は20年間会社を率いて、数百人を雇用した。
この時期に、ベルリンに3番目の工場が建設された。
さらに会社は拡大し、中米、南米、バルト諸国、ロシア、アジア、アフリカ、オセアニアでも販売を行った。
この時に、移調グランドピアノや放射型鍵盤、Ibachord(コンサート・チェンバロ)、指揮台ピアノ、
イバッハ=ヴェルテ・グランドピアノ、イバッハ=ヴェルテ・アップライトピアノといった様々な
革新や新たな進歩が取り入れられた。第一次世界大戦後は会社にとって試練の時期だった。
輸出市場の消失に加えて、ラジオと蓄音機の発明によってピアノ市場は縮小した。
自動車がステータスシンボルとしてのグランドピアノの取って代わった。
変化した顧客の要求、特に狭い集合住宅のため、小型ピアノが開発された。
第二次世界大戦はバルメンの本社にも破壊をもたらした。
したがって、1945年にシュヴェルム工場が新本社となった。
しかしながら、生産は1950年にようやく再開できた。
1960年代と1970年代の好景気は会社に取って良い時期であった。
1980年代、韓国の大宇財閥との合弁事業の一環として大宇楽器が韓国で作られ、
製造される全ての楽器はイバッハから出された。
韓国での製品には「K」が加えられた。
部外者からの意見では、このブランド名の「希釈」が深刻な経済問題を引き起こした。
2004年から取締役を務めていたユリア・ザビーネ・ファルケ(旧姓イバッハ)はイバッハに対する競合他社の
キャンペーンを一番の問題と見た。2007年には、5人強のピアノ職人がイバッハで働いていた。
2007年12月、ピアノ生産は打ち切られた。
それ以後、イギリスのジョン・ブロードウッド・アンド・サンズが世界で最も古い途切れることなく
生産を行っているピアノ製造業者である。

イバッハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
IMPERIA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
インペリア 新東海楽器(浜松) 詳細不明
INABA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
INABA イナバ

製造:スワン楽器製造KK(浜松市)
製造:稲葉楽器製造株式会社(浜松市和田町)
発売元:イナバピアノ(東京都渋谷区道元坂上)

東京都渋谷区道玄坂上にある稲葉綱雄氏経営のイナバピアノが、
実弟の稲葉亮氏の経営するスワン楽器に作らせたもの。
終戦後の何もない時代にバラックの中からピアノ研究を開始し、
稲葉兄弟の名をつけた自信作である。浜松市和田町228の
稲葉楽器製造株式会社で作られていた。

イナバのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
INBAL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
インバル イスラエル 詳細不明 
IRMBACH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ロシア(旧ソ連製) 詳細不明
IRMLER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イルムラー  製造:ドイツ・ライプツィヒ
現在はブリュートナーのセカンドブランド。

メンデルスゾーンなどの一流の演奏家や作曲家がイルムラーのグランドピアノを弾いたとされる。
また、イルムラーピアノは数々の素晴らしい賞を受賞したり、ヨーロッパ各地の王室御用達楽器に選ばれるなど、
イルムラー社はドイツにおける最高ランクのピアノメーカーと評されるようになった。
現在は、コスト削減のため、組み立てをポーランド国内で行い最終調整をライプツィヒの
ブリュートナー工場で行っているピアノとのこと。

<歴史>
ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラーは、ウィーンのピアノマイスターたちのもとで
ピアノ製作を学んだ。そして1818年にドイツへ戻ると、当時のヨーロッパ文化の中心地であるライプツィヒに
会社を設立し、 非常に高い品質のグランドピアノ、およびスクエアピアノ、アップライトピアノを製作した。
イルムラーはとても小さな店から始まったが、1857年にイルムラーが亡くなる頃には世界中でイルムラー社の
ピアノが販売されるようになっていたという。
イルムラーの後を継いだのは、ピアノ製作の教育を受けていた息子のオットーとオズヴァルトだった。
イルムラー社は北米への輸出や国内市場で着実に売り上げを伸ばしていった。
ところが、他のドイツメーカーに徐々に押されるようになり、最先端のアイディアを取り入れた攻めのセールスを
展開するように迫られた。1861年、イルムラー社は工場に蒸気駆動機械を導入する。
そしてその年のうちに、オットーは工場の経営を弟に託し、この世を去った。
その後の成功により、イルムラー社はドイツにおける最高品質のピアノメーカーとしての地位を確立し、
オーストリア、ヴュルテンベルク、スウェーデン、ルーマニアの王室から表彰された。
1905年にオズヴァルトが亡くなると、会社は有能な息子、エミールとオットーに委ねられた。
イルムラー社はその後、1950年代まで独立してピアノを生産していた。そしてイルムラーピアノは、
イルムラー・ヨーロッパというブランド名のもと、アジアとヨーロッパの工場で作られるようになり、
アメリカ向けピアノは、ジャーマン・ピアノ・インポーツ社が輸出している。

<附録>
イルムラーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1953年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J. G. イルムラー(J. G. Irmler)は、ザクセン・ライプツィヒのピアノ製造会社であった。
所有者のエミールおよびオットー・イルムラーは
オーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達称号を授与された。
1818年、ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラー(Johann Christian Gottlieb Irmler、
1790年2月11日–1857年12月10日)がライプツィヒでピアノ製造会社を創業した。
1842年、イルムラーはグランドピアノのための新たなアクションを考案した。
同年、イルムラーはザクセン国王から
große Goldene Sächsische Königliche Staatsmedaille
(ザクセン王室大金章)を授与された。
1943年、他のピアノメーカーと同様にイルムラー社も空襲の被害にあい、生産施設は完璧に破壊された。
第二次世界大戦の終戦後、イルムラー家は事業の再開を決断した。
しかし、ロシアの占領下でピアノ製作に適した建物を再建することは非常に難しかった。
家長の死去後、イルムラー家は西側に脱出した。
1953年、東ドイツ当局はイルムラー社の歴史を終わらせた。
1999年、イルムラーの名前が復活した。
2018年現在、Irmler Piano GmbHはブリュートナー社の関連会社であり、イルムラーブランドのピアノは
ブリュートナーが販売している。
Studioシリーズは主に中国の工場で組み立てられ、ドイツのブリュートナーの工場でハンマーが組込まれ、
検査や調整が行われる。このモデルは積層スプルース響板が使われている。
Professionalシリーズは、サミックのインドネシア工場製の部品とポーランド製の
キャビネットを使ってドイツで組み立てられる。

イルムラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
IRWIN & SON


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
IRWIN & SON PIANO COMPANY INC. アーウィン・アンド・サン
アメリカ ノースカロライナ州

このピアノもキュリエールピアノと同様、ノースカロライナで作られているピアノです。
ノースカロライナ州はアメリカ南東部の大西洋側に位置する州で、
高原や森林地帯が多く、木材が豊富なため家具やピアノのキャビネットの製造が
盛んに行われています。
社長のアーウィンは、ピアノ業界30年の経験者で、その間、エオリアン・アメリカン・
コーポレーションの販売促進部の重役などを務め、同時にウッド・アンド・ブルックス社
(ピアノのアクションとキーの製造をする会社)のセールスマネージャーその他を勤めており、
このアーウィンピアノを作り出してアメリカ全土に販売するようになったと言われています。

アーウィンアンドサンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
IVERS & POND


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
IVERS & POND PIANO CO. イバース・アンド・ポンド アメリカ テネシー州

1880年にテネシー州に作られたピアノ工場で、その後アメリカでは最も近代的な設備の
工場となりました。
イバース&ポンドは家庭用スピネット型からグランドに至るまでさまざまなピアノを作り、
キャビネット(外装)はかなり美しい。

イバースアンドポンドのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
IZUTSU


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イヅツ IZUTSU (IZUTSU&SONS) 井ヅツピアノ(井ヅツ楽器株式会社)大阪
井ヅツピアノで発売した多数のブランドの一つ。

イヅツのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

J. & C. FISCHER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジェー・アンド・シー・フィッシャー
エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品
工場:ニューヨーク
J.B.CRAMER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
J.B.Cramer クラーマー/クラマー

イギリス(ロンドン) 詳細不明
J.G. DOERING


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
J.G.DOERING YOKOHAMA
ジェー・ジー・デーリング

製造・販売:デーリング商会(横浜)
横浜でピアノの輸入・加工・販売をしていて、
わが国におけるピアノ普及のパイオニア的存在だったドイツ人技術者、
デーリング商会が、明治17年から明治22年にかけて販売したもの。
日本最古級のアップライトピアノ。

ピアノの正面中央にガラスに焼き付けられた天使像がはめ込まれていることから
「天使のピアノ」と呼ばれ、国立市の滝乃川学園で保存されています。
この「天使のピアノ」は石井筆子の嫁入り道具だったと伝えられています。

<附録>
滝乃川学園ホームーページにピアノが紹介されております →★
2003年には国立市登録文化財に指定

JGデーリングのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
J.G. IRMLER



画像クリックでHPへ戻る
J.G.イルムラー  製造:ドイツ・ライプツィヒ
現在はブリュートナーのセカンドブランド。

メンデルスゾーンなどの一流の演奏家や作曲家がイルムラーのグランドピアノを弾いたとされる。
また、イルムラーピアノは数々の素晴らしい賞を受賞したり、ヨーロッパ各地の王室御用達楽器に選ばれるなど、
イルムラー社はドイツにおける最高ランクのピアノメーカーと評されるようになった。
現在は、コスト削減のため、組み立てをポーランド国内で行い最終調整をライプツィヒの
ブリュートナー工場で行っているピアノとのこと。

<歴史>
ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラーは、ウィーンのピアノマイスターたちのもとで
ピアノ製作を学んだ。そして1818年にドイツへ戻ると、当時のヨーロッパ文化の中心地であるライプツィヒに
会社を設立し、 非常に高い品質のグランドピアノ、およびスクエアピアノ、アップライトピアノを製作した。
イルムラーはとても小さな店から始まったが、1857年にイルムラーが亡くなる頃には世界中でイルムラー社の
ピアノが販売されるようになっていたという。
イルムラーの後を継いだのは、ピアノ製作の教育を受けていた息子のオットーとオズヴァルトだった。
イルムラー社は北米への輸出や国内市場で着実に売り上げを伸ばしていった。
ところが、他のドイツメーカーに徐々に押されるようになり、最先端のアイディアを取り入れた攻めのセールスを
展開するように迫られた。1861年、イルムラー社は工場に蒸気駆動機械を導入する。
そしてその年のうちに、オットーは工場の経営を弟に託し、この世を去った。
その後の成功により、イルムラー社はドイツにおける最高品質のピアノメーカーとしての地位を確立し、
オーストリア、ヴュルテンベルク、スウェーデン、ルーマニアの王室から表彰された。
1905年にオズヴァルトが亡くなると、会社は有能な息子、エミールとオットーに委ねられた。
イルムラー社はその後、1950年代まで独立してピアノを生産していた。そしてイルムラーピアノは、
イルムラー・ヨーロッパというブランド名のもと、アジアとヨーロッパの工場で作られるようになり、
アメリカ向けピアノは、ジャーマン・ピアノ・インポーツ社が輸出している。

<附録>
イルムラーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1953年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J. G. イルムラー(J. G. Irmler)は、ザクセン・ライプツィヒのピアノ製造会社であった。
所有者のエミールおよびオットー・イルムラーはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達称号を授与。
1818年、ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラー(Johann Christian Gottlieb Irmler、
1790年2月11日–1857年12月10日)がライプツィヒでピアノ製造会社を創業した。
1842年、イルムラーはグランドピアノのための新たなアクションを考案した。
同年、イルムラーはザクセン国王からgroße Goldene Sächsische Königliche Staatsmedaille
(ザクセン王室大金章)を授与された。
1943年、他のピアノメーカーと同様にイルムラー社も空襲の被害にあい、生産施設は完璧に破壊された。
第二次世界大戦の終戦後、イルムラー家は事業の再開を決断した。
しかし、ロシアの占領下でピアノ製作に適した建物を再建することは非常に難しかった。
家長の死去後、イルムラー家は西側に脱出した。
1953年、東ドイツ当局はイルムラー社の歴史を終わらせた。
1999年、イルムラーの名前が復活した。
2018年現在、Irmler Piano GmbHはブリュートナー社の関連会社であり、イルムラーブランドのピアノは
ブリュートナーが販売している。
Studioシリーズは主に中国の工場で組み立てられ、ドイツのブリュートナーの工場でハンマーが組込まれ、
検査や調整が行われる。このモデルは積層スプルース響板が使われている。
Professionalシリーズは、サミックのインドネシア工場製の部品とポーランド製のキャビネットを使って
ドイツで組み立てられる。

イルムラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

J.& J. HOPKINSON

J.& J. HOPKINSON

画像クリックでHPへ戻る

ホプキンソン  ホプキンソンピアノ社 1835年創業 イギリス(ロンドン)

ジョン・ホプキンソンによって設立
音楽出版社から出発したピアノ製造メーカーで、
1990年ベントリー社によって買収

ホプキンソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

J. LARY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フランス(パリ) 詳細不明
J. OOR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ベルギー(BRUXELLES ブリュッセル) 詳細不明
J.S. GREIFEN




画像クリックでHPへ戻る
J.S.GREIFEN (GREIFEN) ジェイ・エス・グライフェン/ジェイ・エス・グライフン

詳細不明  GREIFENとはドイツ語で「~をつかむ」、「~をつかまえる」という意味
まくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

※画像はnosuke様からご提供頂きました
JACINTO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ハシント フィリピン 詳細不明
JACKSON & SONS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジャクソン&サンズ 東日本ピアノ製造(株)浜松市 詳細不明
JANSEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジャンセン JANSEN アメリカ(インディアナ州) 

インディアナ州のエルクハートにあるウォルターピアノ社が製造しているブランド。
この会社は、管楽器のメーカーである有名なコーン社の一部門であったジャンセンピアノ社を
買収して設立されたもので、ブランドだけは以前のジャンセンを残しています。
<参照> それ以前の歴史はウォルター(WALTER PIANO CO.)の項目もご参照下さい

ジャンセンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
JASPER-AMERICAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ジャスパー・アメリカン  キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
JEWETT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
アメリカ、ボストン 詳細不明
JOHANN KUHSE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ヨハン・クーゼ 創業1874年 ドイツ(ドレスデン)
ヨハン・クーゼ(Johann Kuhse)によって創業されたピアノ製造会社

1922年に合併し、エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック株式会社となる。
JOHN BRINSMEAD & SONS



画像クリックでHPへ戻る
JOHN BRINSMEAD & SONS  ジョン・ブリンスミード イギリス(ロンドン)

創業1836年。1862年にレペティッションアクションの特許を取得。
19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍し、1878年レジョン・ド・ヌール勲章を受けています。

ジョンブリンスミードのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
JOHN BROADWOOD & SONS

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
JOHN BROADWOOD & SONS ジョン・ブロードウッド・サンズ
イギリス 創業1795年

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ(John Broadwood & Sons)は、イングランドのピアノ製造会社。
バーカット・シュディが1728年に創業、彼の死後1773年にジョン・ブロードウッドへと受け継がれた。
1761年にロンドンへと赴いたスコットランドの建具屋、家具職人ジョン・ブロードウッドは、
スイスのハープシコード製作者だったバーカット・シュディの下で働き始めた。
8年後にシュディの娘と結婚した彼は1770年には会社の経営に携わるようになる。
ハープシコードの人気に陰りが見えるようになると会社は徐々にピアノへ注力するようになり、
1793年にハープシコード製作から完全に撤退する。
ブロードウッドの息子であるジェームズ・ブロードウッドも1785年からこの会社で働いており、
1795年には社名をジョン・ブロードウッド・アンド・サンズに改めて取引きを行った。
3男のトーマス・ブロードウッドも1808年に経営に加わり、
これ以来ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズLtdという社名が現在まで続いている。
会社が最盛期を迎えたのは1850年代のことであり、その当時は年間2500台の楽器を生産していた。
ブロードウッドがヨハネス・ツンペのモデルに倣って最初のスクエア・ピアノを制作したのは
1771年のことであった。精力的に楽器の改良を進め、初期ピアノフォルテにおいては
クラヴィコードでの機構と同様に楽器側面に位置していた糸巻を1781年に奥側へ配置、鍵盤を揃え、
ハンドストップをペダルに置き換えた。後のアメリカ合衆国第3代大統領となるトーマス・ジェファーソンは
ソーホー、グレート・パルテニー通りのブロードウッドを訪ねて楽器について議論を行っている。
1789年、ヤン・ラディスラフ・ドゥシークの助言に従ってピアノの音域を5オクターヴを超えて拡張すると、
さらに1794年には6オクターヴを完全に収めるまでになった。改良された楽器は音楽家の間で人気を獲得し、
フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは1791年の初のロンドン訪問の際にブロードウッドの楽器を使用している。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1818年にブロードウッド社より6オクターヴの音域を持つ
ピアノを贈られ、以降この世を去るまでその楽器を手元に置いていた。
聴力を失った彼が楽器の音色を楽しむことは難しかったとしてもおかしくはないが、
作曲された作品にはこの楽器の持つ音域が反映されていった。
フレデリック・ショパンは1848年にロンドンのギルドホールで開催した生涯最後のコンサートなど、
イギリス滞在中にブロードウッドの楽器に触れている。彼はブロードウッドに好感を持ちはしたものの、
フランス製のプレイエルをより好んでいたようである。
ブロードウッド社はピアノの製造、調律においてイギリス王室御用達となっている。
2008年にピアノ製作者、技工士のアラステア・ローレンスが会社を買収した。
その一家とブロードウッドとの関係は1787年にまで遡る。会社所有者の変更と並行し、新たな修理、
保存工房はイングランド、ケント、グードハースト、フィンチコックスに移された。
JULIOUS



画像クリックでHPへ戻る
ジュリアス 久保田楽器製作所(静岡県掛川市) 詳細不明

トレードマークの上部分に富士山が描かれています。
ジュリアスのまくり部分(蓋の部分)にあるピアノブランド銘柄マーク →★

ジュリアスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

K. HERRMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
K.HERRMANN K・ヘルマン 日産楽器(浜松市) 詳細不明
KAFMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カフマン 韓国製 (注:イタリア製ではありません、イギリスのKAUFMANNでもありません)

KAISER

KAISER ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

カイザー

河合楽器(河合ピアノの河合滋氏の義兄の設立)が
日本楽器の天竜工場にオーダーして作ったピアノです。

製造がヤマハで、売るのがカワイということで不思議な感じがしますが、
カワイピアノ製作所とは関係がなく、エテルナと同じ背景のピアノです。
販売するお店が京橋にあったので京橋カワイとも呼ぶ人もいます。

ピアノの歴史ってなかなか面白いですよね♪

カイザーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KAYSERBURG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
中国 カイザーバーグ/カイザーブルグ?読み方不明
製造:パールリバー アップライト及びグランドも製造
その他詳細不明

HP:https://kayserburgusa.com/
KALLMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カルマン 井ヅツピアノ(井ヅツ楽器株式会社)大阪 井ヅツピアノで発売したブランドの一つ。
その他詳細不明 

KALLMANN

KALLMANN

KALLMANN PIANO

画像クリックでHPへ戻る

カールマン (ゲルス・カールマン/ゲルス・コールマン)

GÖRS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
昭和楽器の製造

機種バリエーション GK2000など

ドイツ(旧西ドイツ)製にも同じ名前(R.GÖRS & KALLMANN)がありますがまったく違います。
音色・作りはローレックスKR27等に近い感じです。その他詳細不明。

ピアノ天板をあけると裏に貼ってある昭和楽器の品質保障シール
(作ったピアノすべてに貼ってるとは思いますがね) →★

カールマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KAPS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カップス KAPS ドイツ

エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック
(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)

1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。
KARLEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KARLEN カーレン 日本 杉山直次 詳細不明
KAUFMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カフマン イギリス 詳細不明
※韓国製のKAFMANNとは違う

KAWAI

KAWAI TRADE

KAWAI

KAWAI ピアノ

KAWAI マーク

KAWAI ピアノ

カワイK48

KAWAI

KAWAI BL-


KAWAI

画像クリックでHPへ戻る

カワイ KAWAI (株)河合楽器製作所  創業1927年。

言わずと知れた日本のピアノメーカーです。ヤマハに次ぐメーカーです(生産台数として)
世界に目を向けても世界第2位の製造台数です。
トレードマークは時代によって大きく変更されたり、微妙に変わったりしています。

ちなみに製造台数(アップライトピアノ)は、ヤマハが618万台、カワイが258万台となっています。
ヤマハはカワイの倍以上の製造をしていますね。(西暦2007年時点に於いて)
製造番号はすべて1番からの通し番号で、二つとして同じ製造番号はありません。
従いまして、メーカーの製造番号から製造年も分かります。

日本楽器(現ヤマハ株式会社)に12歳から勤務していた河合小市氏が独立し、
昭和2年(西暦1927年)に河合楽器研究所として設立したのが始まりです。
カワイは日本で初めて独自のアクションを製作したピアノ会社です。

X-JAPANのYOSHIKIがカワイの透明なピアノ(クリスタルピアノ)を使っているのは有名です。
某調律師さんからこのカワイのクリスタルピアノについて下記のような情報を頂きました。
ヤマハ内部の人からの情報によりますと、YOSHIKI氏が以前浜松駅で展示されてたこのクリスタルピアノを見て、
同じような感じのピアノを作って欲しいとヤマハに一度オーダーを持ちかけたようです。
しかし、ヤマハは「プラスチック(アクリル)のボディーで作ったピアノは弊社の求める音では無い」と拒否。
それでもYOSHIKI氏は、どうしてもそのプラスチックピアノが欲かったらしく、結局カワイに頼んだそうです。
先日、1台1億円もするクリスタルピアノがカワイから売り出され、高額すぎない!?と話題になりました。

力ワイ・ピアノは、アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクールと、
ショパン国際ピアノコンクールで、公式楽器に認定されました。

カワイのアップライトピアノのアクションレールに貼られたシール →★
同じくカワイのアップライトピアノのアクションレールに貼られた別バージョンシール(JIS8341) →★
古いカワイ内部にある防錆剤(ダイアナ)の小袋 →★  カワイの昔懐かしいキーカバー →★
昭和38年製カワイピアノの証明書(保証書) →★  昭和38年製カワイピアノ(K48)御愛用の栞 →★
カワイのまくり(フタ部分)にあるKAWAIブランド銘柄マーク →★

<カワイの歴史>
河合小市氏は1897年から日本楽器(現ヤマハ)に勤めていたが、1927年に独立して自身の会社を設立した。
河合が最初に製作したピアノは64鐽のアップライトで、350円で売られた。そしてその一年後、河合は最初の
グランドピアノを製作する。河合が会社創成期に克服しなくてはならなかった困難は並大抵のものではなかった。
優秀な職人も、良質の材料も不足していただけでなく、販売網が確立されていなかったからだ。
1930年代にはすでに社名が河合楽器製作所となり、年間250台程度だった生産高が1,000台にまで増大したが、
第二次世界大戦で工場は完全に破壊され、将来の見通しが立たなくなってしまった。
河合小市氏の努力と前向きさに加え、学校のカリキュラムに音楽が組み込まれたことも追い風となり、
工場は再設立され、1949年にはアップライトとグランドの生産が開始された。
1953年にはピアノ生産高が年間1,500台にまで伸び、従業員数は500人になった。日本におけるカワイの多大な
功績を称えられ、河合小市氏は天皇陛下より栄誉ある藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章した。
このような賞を受賞したのは楽器産業界初であった。
1955年に河合小市氏が亡くなると、息子の河合滋氏が会社を引き継ぎ、生産高を向上させるため、
工場に近代的な生産技術を導入する。河合は若い親たちに子どもの音楽教育の有用性を訴えるなど、
積極的なセールス手法をとり、特にピアノを推奨した。そして全国規模の音楽教室のネットワークと、
音楽講師の養成学校を設立した。その後、河合は生産ベースを工場1ヶ所から14ヶ所に拡大する。
その中には1988年に設立されたアメリカの工場も含まれる。
1960年代、力ワイは約2,000人の訪問セールス員を雇い、カワイ音楽教室には300,000人以上が受講。
アメリカ国内でピアノと電子オルガンを販売するため、1963年に力ワイアメリカコーポレーションが設立され、
力ワイヨーロッパ、力ワイカナダ、力ワイオーストラリア、力ワイアジアが続いて設立された。
1980年、面積29,879平方メートル(9,038坪)の工場が建設され、
1日に60台のグランドピアノを生産することが可能になった。
1989年に滋氏の息子の河合弘隆氏が社長に就任し、製造工程にロボット技術を導入するために
莫大な資金を投入した。近年、会社は生産拠点をアメリカやマレーシアなどの日本国外に設立した。
より丈夫で安定したアクション部品の材料を追求し、力ワイは他に先駆けて新素材を使用し始め、
現在の力ワイのアクション部品はABS樹脂などでできている。

<附録>
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1951年~1988年) →★
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1988年~2012年) →★

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)に勤務していた河合小市が独立し、1927年(昭和2年)に
河合楽器研究所として設立された。1935年(昭和10年)に合名会社、1951年(昭和26年)に株式会社へと改組。
1952年(昭和27年)に河合小市が死去すると、1955年(昭和30年)、娘婿の河合滋が社長に就任。
1956年(昭和31年)にカワイ音楽教室を創設、音楽教育事業によるユーザ層の拡大に乗り出すと共に、
1989年(平成元年)に河合弘隆が社長に就任し、滋は会長に専任となった。
河合滋が社長を務めていた頃は、業界に先駆けてピアノの割賦販売を打ち出すなど、同業のヤマハと切磋琢磨し、
日本の音楽普及に貢献した。
バブル時代にはゴルフ場事業等にも進出し、非ピアノ事業の育成を企図した多角化を行ったが、
近年はピアノ事業に回帰する姿勢を鮮明にしている。
ピアノを中心とした楽器製造・販売のほか、近年はカワイ精密金属などでピアノの部品素材のノウハウを生かした
半導体素材の生産も行っている。
かつてはDTM関連製品やムーンサルト、F-I、Rockoonシリーズ等のエレキギター/エレキベース、
K5000シリーズなどのシンセサイザーを製造・販売していたが、現在では楽譜作成ソフトウェア
「スコアメーカー」や入力用の小型キーボード「HYPERCAT」を除き撤退している。
出版部門は「カワイ出版」のブランドで、多くの楽譜、音楽書を出版している。
音楽書以外にも絵本等の出版も行っている
また、ピアノの製造過程で出る端材を活用して、木製の玩具なども発売している他、
学校向けのスポーツ用具も製造している。
国内のアコースティックピアノにおけるシェアはヤマハが約6割、同社が同4割で長らくこの比率は変わっていない。
ヤマハが特約店方式で各地の楽器店と契約しているのに対し、全国に直営店を展開している。
グランドピアノは1990年代まではドイツ製ピアノの影響が強い製品を製造していたが、
現在ではスタインウェイの特徴を取り入れ、近代化されたRXシリーズを中心に、手作り工程と
入念な出荷調整を取り入れた高級機SKシリーズ、コンサート用のSK-EXシリーズを出荷している。
アップライトはKシリーズを出荷している。
いずれも炭素繊維強化プラスチックを採用してレスポンスを改善したアクションを特徴としている。
また騒音対策としてエニタイム仕様やピアノマスク仕様のピアノも出荷している。
他にも外装部が透明アクリル樹脂でできているクリスタル・ピアノ「CR-40A」を受注販売している。
連合赤軍あさま山荘事件の発生当時、連合赤軍に占拠されたあさま山荘の所有者であった。
(正確には当社の健康保険組合の所有)
1970年代以降、カワイはピアノ性能の一貫性と安定性を向上させるための代替素材の使用を開拓してきた。
1971年、カワイは木材の使用と関連する問題を克服するためにアクションの部品に
ABS(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレン)複合材料を使用し始めた。
カワイの設計エンジニアは、湿度の変化にともない顕著に収縮および膨潤する性質を持つ木材は、
安定なピアノタッチを確保するために厳密な公差を維持しなければならないピアノアクションで使用するためには
理想的とは言えない、と結論を下した。
そのため、彼らは選ばれた木製アクション部品を徐々にABS部品に置き換えた。
カワイによれば、カリフォルニア州立工科大学ポモナ校、教授Abdul Sadatによって
1998年に行われた科学的試験では、カワイのABSアクション部品が相当する木製部品よりも強く、
湿気による収縮と膨潤に対してはるかに影響されにくいことが明らかとなった。
カワイは、複合材料部品の使用によってカワイのピアノアクションは他のメーカー製のものよりも安定で
一貫性があると宣伝している。
2002年、カワイは炭素繊維入りABS樹脂を使ったウルトラ・レスポンシブ・アクションを発表した。
ABSカーボン(ABS-Carbon)と名付けられたこの新素材はカワイのアクション部品の強度を高め、重さを低減し、
これによって全体のアクション操作がより速くなった(トリルを演奏する時のコントロールのために
非常に重要である)炭素繊維の追加はABSカーボンアクション部品の剛性も高め、
これによってアクションは奏者のより少ない労力でより大きな力を生み出すことが可能となった。
カワイは、素材および設計におけるこれらの進歩が長年にわたって高い堅実性を持って
ウルトラ・レスポンシブ・アクションが奏者の意図により正確に応答するのを助ける、と強く主張している。

※一般向けグランドピアノとフルコンサートグランドの中間的ピアノである「SHIGERU KAWAI」という
特別ブランドも河合楽器製作所から出しております。詳しくは→Shigeru Kawaiの項目へ

カワイのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KEIMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KEIMAN カイマン 永栄楽器(名古屋)、東洋ピアノ製造(株) 浜松市竜洋町高木
その他詳細不明
KEMBLE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KEMBLE ケンブル イギリス ミルトン・キーンズ
Kemble and Company Ltd.

ケンブルのピアノは、豊かでまろやかなヨーロッパ的な音色で知られている。
バイエルンの「持続可能森林」のスプルース材が響板に用いられており、また鍵盤も
さまざまな気候条件において安定した状態を保てるように同じくスプルース材で出来ている。
クァンタム131の外装デザインは、イギリスの有名なデザイン会社
コンラン・アンド・パートナーズ社が手掛けた。
ケンブルの従業員の70パーセント以上が同社で15年以上働いており、その豊かな経験は
世代から世代へと工場の中で受け継がれている。
1930年代に生産された『ミンクス』というアップライトピアノは高さが90cmしかなく、
アクションは鍵盤より下に位置するため、鍵盤後部が上がることによって突き上げるのではなく、
下から引き上げることでハンマーヘッドが弦へ向かう仕組みだった。
また追加で、弦が発する音量を弱くするモジュレーターを取り付けることができた。

ケンブルの輸入会社は成功し、1920年までにはロンドンのストーク・ニューイントンの工房で
自社の楽器を製作するようになった。第一次世界大戦までこの地域はピアノの町だったため、
ロバー卜・ケンブルは工房の職人を見つけるために、正面の窓にカーテン代わりにピアノフェルトを
吊るしている家を探してまわったという。そのような家を見つけると、戦前にピアノ工房で
働いていた者がいないか尋ね、もしいれば、その人を雇った。ケンブルは妻のいとこの
ヴィクター・ジェイコブスとともに働き、彼の会社は1920年代と30年代の厳しい経済情勢下でも
繁盛した。1935年にケンブル社は3つの新モデルを売り出す。ジュビリー(その年のジョージ5世
在位25周年を記念した名称)と、キュビストと、ミンクスだ。特に小型のミンクスの人気は
めざましく、これらの楽器への需要は生産が迫いつかないほど高まった。
1939年になると、ケンブル社は戦争に協力するため、爆撃機のドアを生産するようになったが、
戦後はすぐにピアノ生産を再開した。1967年、ケンブル社はクラーマー(Cramer)と
ブリンスミード(Brinsmead)のブランド名を買収し、翌年、ロンドンからミルトン・キーンズの
ブレッチリーへ移転した。ここでは今もアップライトピアノが生産されている。
その前の年に、ケンブル社はヤマハ株式会社の電子オルガンを配給する契約を結んでいた。
そしてその配給契約は株式購入へと発展する。1971年にヤマハはケンブル社の少数株主となった。
1980年代の初め、ケンブル社は廃業の一歩手前まで追い込まれるが、その寸前にディートマン・
ピアノをイギリスで生産するという大きな契約をイパッハ社から取り付ける。
1984年にケンブル社はまた苦境に陥り、ふたたびヤマハが多額の投資をして、
今回は株の過半数を取得した。1986年まで、ケンブル社はヤマハの名前でヨーロッパ市場向けの
ピアノを生産し、生産高を急激に増やすために大きな投資をした。1992年、ケンブル社は
輸出部門で英国女王賞を受賞。3年で輸出量が2倍以上になった。1999年に生産高はピークに達し、
約7,000台のピアノが生産された。そして現在も安定した生産高を保っている。
したがって、近年のものはヤマハ製アクションを使用している。

現在、ケンブル社はヨーロッパでも最も進んだピアノ製造工場を誇る。
1968年にロンドンの伝統的なピアノの町から、パッキンガムシャーのミルトン・キーンズへ
移った先見の明により、会社は見事な成長を遂げて、今やヨーロッパ最大のピアノ製作会社となった。

<附録>
ケンブルピアノ 製造番号/製造年対照表(1930年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ケンブル(Kemble)は、1911年にロンドン北部のストーク・ニューイントンでマイケル・ケンブルによって
創業されたピアノ製造会社である。
2009年の生産終了までイギリスで約35万台のアップライトピアノおよびグランドピアノを製造した。
父の会社を引き継いだ後、創業者の息子はピアノ生産をミルトン・キーンズのブレッチリーへ移転した。
1964年、イギリスのピアノメーカー・J・B・クラーマー& Co.を買収した。
1968年に日本の楽器メーカーヤマハとの合弁事業Yamaha-Kemble Music (UK) Ltd. が発足し、
この会社はイギリスにおけるヤマハの輸入・楽器およびプロオーディオ機器販売業務を担当した。
1986年、創業者の孫のブライアン・ケンブルが社長となった。
1980年代はイギリスの経済が落ちこみ、1986年にヤマハがケンブル& Co. の支援に乗り出した。
以後、2009年まで約12万台のピアノが生産され、1992年には輸出に関する功績によりピアノ産業として
唯一「The Queen's Award for Export Achievement」を授与された。
2007年7月、ヤマハはケンブル家が少数保有していたYamaha-Kemble Music (UK) Ltd. の残りの株式を購入した。
売却後、Yamaha-Kemble Music (UK) Ltd. はYamaha Music U.K. Ltd. に改名されたにもかかわらず、
この売却はヤマハのイギリスにおけるピアノ販売・製造部門であるKemble & Co. Ltd. には影響を与えなかった。
2009年、ケンブルピアノの生産は全てアジアへ移され、欧州での生産が終了した。
これによってイギリスにおけるピアノ製造の幕が降ろされた。
閉鎖時にも、ケンブルはまだ年間約7千台のピアノを輸出していた。
ケンブルは2018年現在中国で生産されるヤマハの手頃な価格のブランドである。

ケンブルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KEMP
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KEMP ケンプ 東日本ピアノ製造(株)浜松 詳細不明
KEYFER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KEYFER キーファー 日本 詳細不明
KHOHL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KHOHL コール ドイツ 詳細不明
KIMBALL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KIMBALL PIANOS キンボール ジャスパーコーポレーション(アメリカ)
創業1857年 ※現在は生産されていません

キンボール社は小さな小売店から始まり、世界最大クラスのピアノ製造会社へ発展した。
それは創立者のウィリアム・ウォレス・キンボールの賢明さと努力の賜だったとも言える。
キンボールは音楽的なバックグラウンドはなかったものの、1850年代の市場変化への優れた洞察力を持ち、
アイオワの土地を売ってグロヴェスティーンとトラスローのスクエアピアノを4台購入し、
1857年にシカゴに小売店を開いた。
1864年、キンボールは名門クロスビー・オペラハウスの中に店舗を設け、低価格のリードオルガンや、
チッカリング、ヘールなどの東海岸のメーカーのピアノを販売した。
キンボールは精力的に働き、すぐにアメリカ西部で最大のピアノディーラーになり、会社は繁盛し続けたが、
1871年にシカゴ大火に見舞われ、キンボール社はすべての商品と在庫、ならびにショールームを失う。
ジョセフ・ヘールはキンボールが築き上げてきた業績への尊敬の念から、「とりあえず私の10万ドルを
使って下さい」と、火事の当日に電報を打ったと伝えられている。
キンボールは店を自宅に構えなければならないほどだったが、1880年には100万ドルを超える
収益を上げるようにまでになった。
1880年代にはリードオルガンの生産を開始し、1882年に面積960,000平方フィート(89186平米)
の工場をオープンしてからは、年間15,000台もの楽器を製造するようになった。
1887年に既存のオルガン工場を増設し、1888年からはそこでピアノの生産がスタートした。
最初の年に生産された500台のピアノは満足のいかない出来だったが、スタインウェイやベヒシュタインに
勤めていた技術者を雇ってからは、楽器の品質が一気に向上した。
キンボール・ピアノは積極的に売り込まれ、数多くのショールームに展示された。
そして展示にとどまらずキンボール社は40人の出張セールスマンによって販売もされ、北米の隅々まで
販路を広げるためにキンボールに雇われた人たちだった。
そうしたことで、キンボールは、パイプオルガンおよびピアノ製造の伝統的な長い歴史を持ち、
現在では電子オルガンのメーカーとしても世界的に知られている。
生産するピアノの種類は極めて多く、スピネットからコンサートグランドに至る各種ピアノのほかに、
プレイヤーピアノ(自動ピアノ演奏)まで作っている。
ウィリアム・ウォレス・キンボールは会社を後継者に遺して1904年に亡くなった。
キンボール社は中価格市場向けのピアノを生産し、1910年に絶頂期を迎えるが、1959年には破産状態に。
原因は1930年代の大恐慌と、当時の社長W.W.キンボール・ジュニアによる度重なる楽観的な判断だった。
1959年、オフィス家具メーカーのジェスパー・コーポレーションというインディアナ州の
アメリカ屈指の巨大なテレビおよびステレオなどのキャビネットメーカーの傘下になり、
社名はキンボール・インターナショナルに改められました。
従業員はピアノ製作の経験がなく、生産したピアノの半分が工場に戻ってくるという結果になったものの、
キンボールピアノは他のメーカーと比較した場合、はるかに有利な条件で木材が入手出来たという。
その後、生産技術は向上し、1966~67年にかけてオーストリアの偉大なピアノメーカーである
ベーゼンドルファー社を買収し、さらに1980年にはアメリカのクラカウアー社を買収したことにより、
ピアノ製作面でのサポートを得て、 その秀でたピアノ製作技術がキンボールに導入されました。
その後、1995年にグランド製造中止、翌年1996年にはアップライトも製造中止に。

<キンボール社の特徴>
キンボールはその長い製作の歴史の間に、幾多の構造上・デザイン上のパイオニア的役割を果たしています。
第一に挙げられるものとしては、”ライフクラウンド”とよばれる響板の改良である。
これは気温や湿度の変化に対して絶対に割れる危険性のない、通常の3倍の強度を持ったものとのことだ。
また、”ユニロック”とよばれるチューニングピンを確実に保持する装置の開発によってピアノの調律を
長持ちさせることに成功している。
さらにキンボールは、”スーパーフォニックスケール”とよぶアップライトピアノの音色を、
グランドピアノの音色に近づける方法や、耐水接着剤の使用を可能にしたエレクトロニック接着法の開発、
その他幾多の新技術をピアノ工業へ導入し、その製造技術を飛躍的に向上させました。
また、現在あらゆる鍵盤楽器に白と黒の鍵盤の原型を作り出したのもキンボールであると伝えられています。
ピアノやオルガンの白鍵と黒鍵の配列法は非常に微妙で、黒鍵は白鍵の真ん中にはなく弾きやすいように
各音によって少しづつ左右にずらしてあります。

<過去にキンボール社が取り扱ったピアノブランド名>
Kimball、Conn、Jasper-American、W.W.Kimball、Hinze、Harrison、Schuerman、
DeVoe & Sons、Whittaker、Becker、La Petite、Krakauer、Whitney、Whitmore

キンボールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KINCAID


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キンケイド KINCAID アメリカ(ノースカロライナ)

ノースカロライナのモルガントンで作られているピアノで、会社名はグランドピアノ会社。
この会社名から推察すると、グランドピアノを専門に作っているように想像できますが、
名称とは真逆に安価なアップライトのみを作っており、ピアノには15年の保証をつけて販売。
キンケイドピアノには種類が多く、約25種類もある。

日本のピアノといえば黒塗りが多いが、アメリカやヨーロッパのピアノといえば、
生地塗りや部屋の模様にマッチしたさまざまなデザインのものが多いのが普通です。
キンケイドにもさまざまなデザインのものがありますが、そのデザインにも伝統的な
流儀があり、あまり突飛なものがあるわけではありません。

ちなみに、キンケイドピアノのデザインは大きく分けて次の9種類に分類されます。
■モダン:近代的なデザインののっぺりしたデザイン(別名ボックストライク)
■コンテンポラリー:現代風の部屋にマッチしたケースのピアノ
■トラディショナル:伝統的なスタイルのケースで、アメリカでは最も人気
■トランシィショナル:過渡期という意味で、トラディショナルとコンテンポラリーの中間的デザイン
■アーリー・アメリカン:開拓史時代のデザインのケース
■スパニッシュ:スペイン風の優雅なスタイルのケース
■フレンチ・プロビンシアル:フランスの田舎風なという意味で、ネコ脚のついたロココ風な優美なデザイン
■イタリアン・プロビンシアル: イタリアの田舎風なという意味で、古風なデザイン
■メディタレニアン:地中海風のという意味で、重厚なデザインのもの

キンケイドのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KING
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キング アメリカ(シカゴ) 詳細不明
KING DAVID
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キングデイビッド 台湾(中国)
聲茂楽器製造股份有限公司

工場は新竹県湖口工業区にある。
奥行き140cmのベビーグランド1種類のみ製造し、アメリカやイギリスなどに輸出していたとのこと。

キングデイビットのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KINGSBURY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キングスブリー  ケーブル・ネルソン(ケーブルピアノ社) アメリカ(オレゴン州)
このブランドは、学校やピアノ教育専用に使われているとのこと。

キングスブリーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KIRKMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KIRKMAN カークマン イギリス 詳細不明
 KNIGHT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ナイト Knight イギリス・ロンドン/イングランド  Since 1935

ナイトのアップライトピアノは温もりのある歌うような音色で、高音部は均一な響きを持つ。
ナイトの鉄フレームは標準的なピアノのフレームの二倍の強度を待つ。それは桁の構造原理に基づいた
全周フレームで、ビーチ材の4本支柱の背面構造に固定されている。
極めて高い調律の安定性を得るため、ピン板はフレームのポケットに収められている。
K10モデルには高音部のストレスバーがない。ピアノの左下の角に弦張力に抵抗するためのバーが
何本かあり、響きが弱くなることを防ぐ。チューニングピンを支えて調律の安定度を強化するため、
硬質繊維板のビンブッシュが用いられている。重い純銅線が巻かれた低音部の弦は総重量が3Kgある。

<歴史>
ラジオ、映画、蓄音機の出現によってすでに苦しんでいたピアノ産業は、
1930年代の大恐慌でさらに大打撃を受ける。
そのような状況ドの1935年に、アルフレッド・ナイトは絶大な自信をもってロンドンに会社を設立した。
アルフレッド・ナイトはさまざまなピアノ会社で働いた経歴があり、また才能のあるピアノ奏者でもあったため、
自分が作った楽器を喜んで実演していた。
ナイトのピアノ作りへの情熱は報われ、創業から10年経つ頃には、
ナイト社は年間1,000台のピアノを生産していた。
第二次世界大戦中もナイト社は政府からの受注でピアノを作り続けた。
1944年のノルマンディー上陸作戦の直後、保護のため金属の緑を取り付け、ビールをこぼしても大丈夫なように
特別に作られた9台のナイト製ピアノが、ヨーロッパ大陸へ上陸したと言われている。
戦時中もピアノ生産を中断せずに済んだナイト社は、戦後、他メーカーに大きな差をつけることが出来た。
アルフレッド・ナイトは輸出先を開拓しようと休みなく働き、自社のピアノが高い水準に達していることを
センスとユーモアを交えて実演してみせた。
1955年、アルフレッドは会社をエセックス州ラフトンの大きな工場へ移し、50年代の終わりに
ブリティッシュ・ピアノ・アクション社の経営権を取得した。
アルフレッドは当時新たに開発されたプラスチックを用いて、自らピアノアクションの再設計に着手した。
彼は黒鉛を含ませたナイロンとグラスファイバーを用いて、摩擦のないジャックとフレンジを
作り出すことに成功し、さらに、染みがつかない白いプラスチックの白鍵キートップを開発した。
アルフレッドが亡くなると、会社の経営は娘の一家が引き継いだ。
1991年から、ナイト・ピアノは自社仕様の楽器の生産を、ブリティッシュ・ピアノ・マニュファクチャリング社の
一部であるウェルプデール、マックスウェル・アンド・コッドに依頼している。

<附録>
ナイトピアノ 製造番号/製造年対照表(1936年~2000年) →★

ナイトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

KOHLER & CAMPBELL

KOHLER & CAMPBELL

KOHLER & CAMPBELL ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

KÖHLER & CAMPBELL (ケーラー・アンド・キャンベル)は1896年ニューヨークで創業、
1983年までに毎年約1万台を生産し、約800,000台以上のピアノを世に送り出した
アメリカ最古のピアノメーカーのうちのひとつです。

1977年、韓国のサミックにブランド譲渡され、輸出向けブランド「ケーラー&キャンベル」として 、
外装・組み立て等工賃のかかる工程をインドネシアで仕上げることによって、
コストパフォーマンスに優れた製品に改変。
日本に輸入されたピアノは、東洋ピアノの管理の中で出荷調整がなされ国内販売されています。

近年販売されたピアノはKÖHLERではなく、どこの部分を見てもKOHLERになっていますが詳細不明。
ピアノの拍子木にあるプレートの写真 →★

【歴史】
1896年にケーラーと、キャンベルの二人が組んでピアノ製作を始めたことからこのブランドが生まれました。
この会社は20年たたぬうちに、アップライトピアノ、自動ピアノと自動再生アクションの性能において
世界有数のものにのし上がったとききます。
このケーラー・アンド・キャンベル社は20世紀の初めに自動アクションの製作に専念し、
それを他のメーカーに販売する傍ら、ベルトミニヨンの再生アクションを作り出して、蓄音機が出来る以前、
はじめて一般の人にコンサート以外でピアノ演奏を聞かせるという功績を残しました。
その後、オート・ニューマチック・アクション社とスタンダード・ニューマチック・アクション社という
二つの子会社を作り、あらゆるピアノメーカーへ自動ピアノアクションを売り続け、その売上げは年間
5万台にものぼったと記録に残っています。
この会社は、その後アメリカで最も古いピアノメーカーであるフランシス・ベーコン社を吸収しているので、
その技術の源は1789年にさかのぼる最も伝統を誇れるものとなりました。
元来、ニューヨークにあった会社ではあったが、その後ノースカロライナに近代的な工場が建てられ、
全米その他に500もの代理店を持ったこともあります。

読み方
× コールアンドキャンベル、コーラーアンドキャンベル
○ ケーラーアンドキャンベル

ケーラーアンドキャンベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 KLIBEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
 KLIBEL クリーベル 興和楽器製作所(浜松市天竜川西岸) S・クリーベル

クリーベルという名前は他にも多く、例えば、
■クリーベル(KRIEBEL)ドイツ製
■クリーベル(KRIEBEL)東日本ピアノ製造(株)静岡県浜松市天竜川町332番地(当時)
■クリーベル(CREABEL) 共立楽器 などがあります

クリーベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KLINGEL

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クリンゲル

昭和54年、浜松市の向宿町に設立されたトニカ楽器製造のブランドで、
戦前は東京神田神保町のピオバ楽器が広田ピアノに製作を依頼していました。

ですが、いま見かけるクリンゲルピアノは韓国製(英昌)がほとんどだと思われます。

クリンゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

KLINGEL

KLINGEL ピアノ

KLINGEL

画像クリックでHPへ戻る

クリンゲル 

※写真のトレードマークは韓国(英昌)製のものです

当時、協立楽器が販売しており、ローゼンストックなどと同じ系統のピアノです。

作りや音色もローゼンストックピアノとほぼ同じです。

■機種バリエーション
G803、G806、KU250、KU380、KU700など

クリンゲルピアノの保証書 →★  クリンゲルピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

クリンゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KLINGMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KLINGMANN クリングマン ドイツ 詳細不明
KLUGE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クルーゲ ドイツ(レムシャイト)
詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>

クルーゲ・クラヴィアトゥーレン(Kluge Klaviaturen、クルーゲ鍵盤)GmbHは、
ドイツ・レムシャイトの大手ピアノ鍵盤製造業者である。
毎年グランドピアノ、アップライトピアノ、およびオルガン用の鍵盤約8千個を生産している。
現在、クルーゲは欧州における最も重要なピアノ鍵盤製造業者である。
約50人の従業員が働いている。
1876年、イバッハ社の鍵盤部門の長であったヘルマン・クルーゲ(Hermann Kluge)が、
ノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータール近郊のバルメン(英語版)で
"Hermann Kluge Claviaturen-fabrik KG" を創業した。
この若い会社はすぐに市場での地位を獲得し、しばらくしてクルーゲはスタインウェイ・アンド・サンズを
顧客とした。生産数は順調に増加し、1902年には既に10万個目の鍵盤が作られた。
1943年までの生産数は50万個と推定される。
この年に全ての専用機械と供給品があった生産施設と事務所建物が破壊されたため、
正確な数をこれ以上遡ることはできない。
第二次世界大戦後、忍耐の時期に入った。賃貸の部屋で当初は家具や窓、扉などが製造された。
元の生産施設の復旧には膨大なエネルギーが必要であり、1946年に事務所建物の地下室で
鍵盤の修理を開始することができた。
ほぼ5年後、工場建物の復旧後、鍵盤の生産を再び開始することができた。
再開後の初年には既に500以上の鍵盤が完成された。
続く53年間、会社は多くの浮き沈みを経験してきた。
ハイライトは間違いなくベルリンにあった強力な競合企業Bohn Claviaturen社の買収であった。
Bohn Claviaturen社の生産はポーランドへ移転された。
また重要な出来事は、1999年にアメリカ合衆国の世界最大の楽器製造業者の一つである
スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツ社によってクルーゲ・グループが買収されたことであった。
クルーゲ社はこの取引によっていかなる損害も被らなかった。
背後に名高い親会社を持つことで、会社の強固な基盤が築かれた。
ほぼ全てのヨーロッパのグランドピアノおよびアップライトピアノ製造業者と自身の鍵盤生産部門を持たない
海外の一部の業者はほぼ例外なくクルーゲから鍵盤を輸入している。
クルーゲ社の広告文句は「The key tot quality and success」である。

KNABE

KNABE

画像クリックでHPへ戻る

WM. KNABE & CO. ウィリアム・クナーベ アメリカ
1839年創業 アメリカメリーランド州(都市:ボルチモア)
創業者:ウィリアム・クナーベ/ヴァレンティン・クナーベ(ドイツ生まれ)

アメリカン・ピアノ・カンパニー、
エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品の後、
現所有:ピアノディスク社  現在の製造はサミック社とのこと
MASON & HAMLINの項目や、AEOLIANの項目も参照

1839年にアメリカのボルティモアに設立されたクナーベ社は、アメリカでもっとも有名な
ピアノメーカーのひとつとなった。
当初は「裕福な上流の人々に相応しい品質のピアノ」というスローガンで宣伝されたクナーベのピアノの音質は、
ダルベールやサンサーンスなどの一流のヴィルトゥオーゾに絶賛された。
またクナーベのピアノは見本市に出展されると、高い職人技と優れた構造を称えられて必ず賞を獲得した。
プロイセンの家具、ピアノ職人の見習いだったヴァレンティン・クナーベは、1833年にアメリカに移住し、
ピアノ製作者のヘンリー・ハーティーのもとで働き始めた。
クナーベは英語と商売の技術を学んだ後、1839年にヘンリー・ゲーレと組んで会社を設立し、
クナーベ・アンド・ゲーレのブランド名でピアノを作り始めた。
1854年にクナーベはゲーレから会社を買い取り、息子のウィリアムとアーネストとともにピアノの生産を開始。
ヴァレンティンが1864年に亡くなるまで会社は上質のピアノメーカーの地位を確立し、息子たちの指揮の下、
会社は繁栄し続けた。
1870年には毎年約500台のピアノが生産されるようになり、工場の再開発を経て1890年に生産高は、
年間2000台まで跳ね上がった。19世紀の終わりの四半世紀にクナーベは絶大な評価を得るようになり、
ニューヨークとワシントンにショールームが設立された。
ルービンシュタインをはじめ、多くの音楽家がクナーベ社の支援を受け、クナーベピアノでコンサートを行った。
1891年のカーネギーホールの「こけら落とし」ではクナーベ社がスポンサーとなり、チャイコフスキーを
ゲスト指揮者として招いた。
1889年と1894年にクナーベ兄弟が相次いで突然亡くなってからは、ヴァレンティンの孫が後を継ぎ、
1908年にアメリカン・ピアノ・カンパニーに吸収合併されるまで会社を経営した。
合併の1年後、ウィリアム・ジュニアとアーネスト・ジュニアはこの複合会社を去り、オハイオ州にクナーベ・
ブラザーズ・カンパニーを設立する。
クナーベ・ブラザーズ・カンパニーは短命に終わったが、1914年までクナーベ家伝統の音を
保持したピアノを生産。
会社の買収と、新たなクナーベ・ブラザーズ・カンパニーの設立があったにもかかわらず、元々のクナーベ社は
ピアノを販売し続け、1916年には生産高が年間3000台に達した。
1932年にアメリカン・ピアノ・カンパニーはエオリアン・コーポレーションの一部になり、アップライトと、
グランドピアノを生産し続けたが、1985年にエオリアン社が倒産し、クナーベのブランド名や設備、
型、未完成のピアノはすべて、ゾーマー・アンド・カンパニーへ売却された。
現在は、韓国のサミック社がWm.クナーベ(Wn.Knabe)のブランド名でクナーベピアノを生産している。

<附録>
クナーベピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Wm. クナーベ& Co.(Wm. Knabe & Co.、クナービとも)は、19世紀中頃から20世紀の初めまで
アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに存在したピアノ製造業者である。
1982年まではニューヨーク州イースト・ロチェスターのエオリアン・カンパニーの一事業として存続した。
現在は三益楽器(韓国)によって製造されるピアノの一ブランドである。
ヴィルヘルム・クナーベは1803年6月3日にザクセン=ヴァイマル公国クロイツブルクで生まれた。
1813年のドイツにおけるフランスの軍事行動によって父親のようにアポセカリーとなるために
学ぶことができなくなり、代わりにキャビネット職人に弟子入りし、その後2年間見習いとして働き、
次に3年間ゴータでピアノ職人のために働いた。その後ドイツのいくつかの都市でピアノ職人見習いとして働いた。
1831年、クナーベはザクセン=マイニンゲン公国からアメリカ合衆国へ移住する婚約者の家族に同行したが、
家長が航海中に死去したため、クナーベと花嫁は兄弟が数年早く定住していたミズーリ州ハーマンへの
旅の途中のボルチモアにとどまった。
クナーベは有名なピアノ職人Henry Hartgeの下で働き、結局は農業従事者になる計画を断念した。
4年後、クナーベはLexington通りのLiberty通りの角にある自宅で中古ピアノの販売と修理を始めた。
1839年、クナービはピアノを製造する目的のためにHenry Gaehleと共同経営を始め、
1841年までに彼らはSouth Liberty通り13にあるより大きな作業場へと移った。
1843年、彼らはEutaw通りとCowpenアレーの角に商品陳列室を開き、その4年後にはEutaw通り9に
商品陳列室を移転し、ここで180米ドルから400米ドルの価格でピアノを販売した。
1852年までに、店はEutaw通り4、6、8、9、11へと拡大した。
Knabe & Gaehleは1848年、1849年、1850年にスクエア・ピアノで、1849年にはグランドピアノでも
メリーランド機械振興会から一等賞を取った。
1852年、会社はEdward Bettsを共同経営者に加えてKnabe, Gaehle & Co.として再編され、
1853年までに宣伝された彼らの会社は南部で最大で、100人を超える工員を雇用した。
彼らは「チッカリングのようなダブルアクション」を持つ6から7オクターブの音域のピアノを製造し、
200米ドルから500米ドルで販売した。
1853年11月、Eutaw House近くのCowpenアレーにあった工場が火事になり、推定損失額は19万米ドルであった。
共同経営会社を解消するために1855年初頭に訴訟が始まった。
Henry Gaehleは死去し、クナービは残りの在庫と資材を全て購入したこと、Eutaw Houseの向いにある
North Eutaw通り1、3、5、7にある古くからの売り場でWm. Knabe & Co. として商売を続けると宣伝した。
代表社員となったWilliam GaehleはWm. Gaehle & Co. として営業を続けると宣伝し、Pratt通りとGreen通りの
角の工房でグランドピアノとスクエア・ピアノを製造し、Eutaw通りとFayette通りの角に展示場を構えた。
クナーベはWest通りとChina通りの角にあった元製紙工場を新工場のために購入し、1859年までに
ボルティモア通り207に商品展示場を開設した。
クナーベは1855年、1856年、1857年、1858年にメリーランド機械振興会からスクエア・ピアノで
金メダルを獲得し、1857年にワシントンDCのメトロポリタン協会から銀メダル、1856年に
フィラデルフィアのフランクリン協会からメダル、1855年と1856年にバージニア州リッチモンドの機械工協会から
一等賞を獲得した。
1860年、クナーベはEutaw通りとWest通りに新たに5つの工場の建設を開始したが、南北戦争の勃発のため
その中の一つしか完成できなかった。南北戦争によって、クナーベは南部の主要市場を失なうこととなり、
その損失を埋め合わせるために西部で新たな取引を開拓せざるをえなくなった。
ウィリアム(ヴィルヘルム)・クナービは1864年5月21日に死去し、
息子のウィリアムとアーネスト・J・クナービ兄弟と義理の息子のチャールズ・ケイデルが後を継いだ。
1866年、Wm Knabe & Co. は鋳鉄製フレームに直接螺入される代わりに
より重い真鍮の部品へと螺入されたアグラフを持つ「agraffe treble」を発表した。
1866年までに、彼らは約230人の工員を雇用し、年間約千台のピアノ(アップライト、スクエア、グランド)を製造。
工場は30馬力(22 kW)の蒸気機関や蒸気駆動のエレベータ、乾燥室を備え、グランドピアノのケース、響板、
アクションの製造、ケースのワニス仕上げ、鋳鉄フレームの金めっきを行う12メートル幅の第二建物が増設された。
さらなる補強とキューポラ(円頂塔)によって1869年に工場が完成した。
米国でのKnabe & Co. の売上はニューヨークのスタインウェイ・アンド・サンズとボストンの
チッカリング・アンド・サンズに次いで第3位につけ、1870年までの生産代数は週に約40台
(600米ドルから2千米ドルの間の価格)と見積られた。
1873年、Wm. Knabe & Co. はニューヨーク5番街に自社経営の商品展示場を開設した。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会にはグランドピアノ、スクエアピアノ、アップライトピアノ、
Tschudi & Broadwood製ハープシコードを出展し、改訂された表彰システムによりその他多くの共同出展者と共に
最高の栄誉を手にした。1882年にはチェスター・A・アーサーのためにホワイトハウスへローズウッド製
コンサートグランドを届けた。
ウィリアム・クナービ Jr. は1889年に死去した。
会社は同年、アーネスト・J・クナービを社長として百万米ドルの資本金で法人格を取得した。
アーネスト・J・クナービは1894年に死去し、工場で修行していた息子達が後を継いだ。
アーネスト・J・クナービ Jr. は社長に選出され、ウィリアム・クナービが副社長兼会計係となった。
Wm. Knabe & Co. は1903年までにカナダとイングランドに代理店を設立し、事業をさらに拡張する目的のために
工場を抵当に入れた。1906年までに、工場は大規模に拡張された元の建物と7つの建物を占有し、
念入りに設計された総床面積は約300,000平方フィート (28,000 m²)、従業員は765人を数えた。
工場設備は個別に動力が供給された機械やボイラーと連結された集塵システムといった現代的な
電気器具を含んでいたものの、Knabeはピアノは丁寧に手作りする必要があるという基準と、
そのために完成までにアップライトで6か月、グランドピアノで2年を要するということを宣伝した。

クナーベのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KNABE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クナーベ ドイツ 詳細不明
KNABEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クナーベル 明音楽器製作所(浜松市) 詳細不明
KNOCHEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クノッヘル ドイツ 詳細不明
KONETZNY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コネツネー ドイツ 詳細不明
KONING (KÖNING)




画像クリックでHPへ戻る
KONIG (KÖNIG) ケーニッヒ

三陽楽器製作所、ケーニッヒピアノ製作所、マライ楽器製造
神原清作氏の設計、および製造指導によって作られた。
神原清作氏は明治28年生まれ。日本楽器で山葉直吉氏、河合小市氏らに教えをうけたが、
後にアメリカに留学しボストンのフォースト調律学校を卒業した。 

ケーニッヒのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★
ケーニッヒのエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

ケーニッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KONKORIDIA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KONKORIDIA コンコリディア 日本 詳細不明
KONO

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KONO コーノ

コーノピアノ研究所(浜松)
浜松の河野充喜氏が自身の工房で作り組み立てていたピアノ。
河野氏はアトラスの出身。 

コーノのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KORIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
コーリン 光輪ピアノ製作所(浜松) 詳細不明
KRAFT



画像クリックでHPへ戻る
KRAFT クラフト

写真は、MODEL:132DW 機種:DU-9
当ページに掲載のエルスナー(ELSNER)というピアノのトレードマークに酷似しています。
トレードマークの外周の円から、ワシ(タカ)の羽根の飛び出し具合や雰囲気などを含め、
エルスナーのトレードマークにそっくりです。
ひょっとしたら、クラウス商事株式会社製のピアノなのかもしれませんが、詳細は不明です。
詳しくはエルスナーの項目へ。

左記画像の3枚は匿名希望様よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
KRAKAUER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クラカウアー KRAKAUER BROS アメリカ 工場:ニューヨーク  創業1869年

<読み> ○ クラカウアー  × カラカウアー

この会社は創業1869年より長い間、家系を重んじ、手工業一途に作り続けてきたメーカです。
製作されているピアノの種類は多く、そのすべてが伝統的な外装を見事に引き継いだもので、
キンケイドの項目でも触れていますが、各種の典型的なクラシックピアノのケースの由来を
本格的に伝えるのがこのクラカウアピアノです。
尚、このクラカウアーピアノの特許に、アップライトピアノの背面を飾り板でふさぐ
というものがある。これは必ず壁に背を向けて置くという従来のアップライトピアノの常識を破り、
グランドピアノと同様に、部屋のどこにでも置けるようにしたもです。
大量生産のピアノではないので日本ではほとんど知られていませんが、品質は極めて優れたもので、
ニューヨークの公立学校だけでも1000台以上も使われているとのことです。
※一時期はキンボール社にて製造

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
クラカウアー・ブラザーズ (Krakauer Brothers) は、クラカウアー (Krakauer) としても知られていた、
アメリカ合衆国の手作り高級ピアノ製造業者で、1869年にニューヨークで、ユダヤ人の移民だった
サイモン・クラカウアー (Simon Krakauer) が、息子デイヴィッド (David) や兄弟のジュリアス (Julius)
とともに創設した。
やがて成長した同社は、ニューヨーク市ブロンクス区のサイプレス・アベニュー (Cypress Avenue) に面した
136丁目から137丁目にかけての場所に、工場を開設した。
クラカウアーは、高品質のピアノの製造とともに、19世紀末から20世紀初めのピアノの発達において
影響力の大きな革新によって知られた、卓越したピアノ製造会社であった。
1917年、クラカウアーは、マディソン・ピアノ・カンパニー (Madison Piano Company) を合併し、
「マディソン (Madison)」ブランドでも数十年間にわたってピアノを製造した。
クラカウアー・ブラザーズは、より大きなコングロマリットに吸収されることなく世界恐慌を生き延びた
数少ないアメリカ合衆国のピアノ会社のひとつであった。
1977年、ハワード・K・グリーヴス (Howard K. Graves) がクラカウアーを買収し、
事業をオハイオ州ホームズ郡バーリン(英語版)に移した。
クラカウアーは、ヴァーティコード (Vertichord)、リリコード (Lyrichord)、
そしてマディソンのブランドで製造を行った。
その後、クラカウラーは1980年にキンボール・インターナショナルの一部門になり、
製造番号86405以降はこの体制で生産された。
バーリンの工場は、1985年に閉鎖され、これによりクラカウアーの名は終わりを告げることとなった。

クラカウアーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KRANICH & BACH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クラニッヒ・アンド・バッハ アメリカ 工場:ニューヨーク 創業1864年

1864年、ヘルムート・クラニッヒとジャック・バッハというピアノ技術者が共同で始めた
ピアノメーカーであるためにこの名称が生まれたという。
工場はニューヨークにあり最高級のグランドピアノを製造。
音質、デザイン共に極めて優れていると言われている。
KRASNY OKTYABR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クラスヌイ・オクチャーブ ロシア(ソ連) ”赤い十月”という意味  その他詳細不明

KRAUS


KRAUS

KRAUS

KRAUS

画像クリックでHPへ戻る

クラウス

昭和36年7月から浜松市和田町の
大成ピアノ製造(株)で作られていたブランドです。

U-127、U-130、U-133の三機種がありました。
発売元は浜松市中野町のクラウス商事。協立楽器でも販売。

クラウスというピアノには他に、イタリア製やドイツ製にも
同じクラウス(KRAUSS)がありますが詳細不明。

※一番上のトレードマークは大成ピアノ時代の頃です。
ちなみに、ドレスデン(DRESDEN)のトレードマークも製造会社が同じなのでほぼ同じデザインです。

クラウスのまくり(フタの部分)の銘柄文字マーク部分 →★

クラウスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KRAUSS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クラウス ドイツ 詳細不明
KRAUSS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クラウス イタリア 詳細不明
KREUIZBACH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クロイツバッハ KREUIZBACH 永栄楽器(名古屋)、アトラスピアノ製造(製造)(浜松)
(注)スペルの中には、”I”が入ります

クロイツバッハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KREUTZBACH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
クロイツバッハ KREUTZBACH ドイツ 詳細不明

KREUTZER

KREUTZER

画像クリックでHPへ戻る

KREUTZER クロイツェル (株)クロイツェル

クロイツェルピアノ製作所(製造)、稲葉楽器(旧称)

クロイツェルピアノ製作所(創業1953年)で昭和28年から製造されているピアノ。
昭和51年末に新工場設立。浜松市和田町より浜松市安新町に移転(旧称)稲葉楽器。
東京のイナバピアノと縁故が深い。 
上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<附録>
クロイツェルピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1985年~2012年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
有限会社クロイツェルピアノ(KREUTZER)は、静岡県浜松市にあるピアノの製造業社である。1949年創業。
アップライトピアノの受注生産は2011年に終了した。
ブランド名「クロイツェル」(KREUTZER)と会社名はピアニストのレオニード・クロイツァーに由来する。
以前の名称は株式会社クロイツェルピアノ。
年間の生産台数は少ないが、手造りピアノとして、ドイツ製の基本部品を用い、
総アグラフを採用するなど高品質であり、存在を知る人の間では人気が高い。
グランドピアノは生産していないが、アップライトピアノはさまざまなバリエーションを生産している。
注文生産であり、生産台数は年間数台以下と非常に少ないため、中古ピアノの修理や再生が主な業務となっている。
<クロイツェル社の製造ブランド>
KREUTZER(クロイツェル)、LICHTENSTEIN(リヒテンシュタイン)、ROSENTHAL(ローゼンタール)
東京ディズニーランドのアトモスフィア(開催時間、開催場所が非公開のショー)の1つに
「バイシクルピアノ」というのがある →★
アップライトピアノに椅子、ペダル付き車輪を追加装備し、
自走できるピアノを演奏する(時に走りながら演奏する)エンターテイメントである。
これに使用されている「自転車ピアノ」を製造したのがクロイツェルである。

クロイツェルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

KRIEBEL

KRIEBEL

KRIEBEL

KRIEBEL ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

クリーベル

東日本ピアノ製造(株)
静岡県浜松市天竜川町332番地(当時) 

1型や3型のピアノは音色・タッチともに重厚な印象のピアノです。
機種バリエーション:TK-380、TK-88(小型)

クリーベルのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄 →★  クリーベルの保証書と検査カード →★
クリーベル純正キーカバー →★

沢山清次郎氏の発明によるペダルスプリング強弱調整装置(特許No453845)も採用されています →★
沢山清次郎(さわやま・せいじろう)氏のイニシャルを取ってネジ部分にS.Sと入っていますね。
※ちなみにこの強弱調整装置ですが、私の実感としてさほど強弱を変えられない印象です。

クリーベルという名前は他にも多く、例えば、
■クリーベル(KRIEBEL)ドイツ製
■S・クリーベル(KLIBEL)興和楽器製作所(天竜川西岸)
■クリーベル(CREABEL) 共立楽器 などがあります

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

クリーベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KRIEBEL クリーベル ドイツ 詳細不明
KUNIYUKI


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KUNIYUKI クニユキ

(株)クニユキピアノ社(発売元)、六郷ピアノ(製造)
戦前、神田須田町の交差点のすぐ近くにクニユキピアノ社(国行)という店があり、
六郷ピアノに作らせていたピアノをクニユキのブランドで販売、戦後もしばらく繁盛していた。 

クニユキのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
KURTZMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
KURTZMANN クールツマン ゴードン・ローヘッド社 アメリカ(ミシガン州グランドヘブン)

詳細は、GORDON LAUGHEADの項目を参照
KURZWEIL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
カーツウェル

※カーツウェルの情報は、KURZWEIL JAPAN様に当方より直接問い合わせを致しまして、
ご担当者様より下記のようなご回答を頂きました。ご協力ありがとうございました。

「中国のYOUNG CHANG社が”KURZWEIL”のブランド名を使い製造していたOEMピアノと推測される」とのこと。
「日本国内に存在することは考えにくく、大変珍しい」とご回答頂きました。

尚、「KURZWEIL JAPAN」は電子楽器の輸入代理店です。
カーツウェルピアノのまくり(蓋部分)にあるブランド銘柄マーク →★

カーツウェル公式HP:http://kurzweil.com/
カーツウェル公式HP:http://www.kurzweiljapan.jp/(日本法人)

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

LA LUNA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ

ラ・ルーナ LA LUNA

製造:遠州ピアノ製造KK
発売元:日響ピアノ

東京渋谷上通りにあった頼金義雄氏経営の日響ピアノが
主力商品として昭和30年頃より強力に売り出したピアノでした。
鉄骨部分のロゴ(トレードマーク)は他のメーカーとは一線を画し、
五線譜とト音記号をモチーフとした印象的なマークをしています。

ラルーナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LA PETITE キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
LAGONDA (ラゴンダ? 読み方不明) アメリカ 詳細不明
LAMOUR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
LAMOUR 福山ピアノ社(フクヤマピアノ)東京 詳細不明
LANGER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ランゲル 東洋楽器 ドイツのランゲルアクションを使用していた。
LAURIE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ローリー 山下ピアノ社(神戸)、新宿ピアノ社(東京)、製造:東洋ピアノ製造(浜松) 詳細不明
LAZARE



画像クリックでHPへ戻る
LAZARE ラザール

発売元:福山ピアノ社(東京)
製造:ドレスデンピアノ製造(浜松)、[大成ピアノ製造]

福山ピアノ社の持ちブランド。浜松のドレスデンピアノ製造で製作していました。
大型でパネルの両側の波型に特徴があります。
トレードマークには「LA CLASSE SUPÉRIEURE」とあります(上位クラス・上流階級という意味)

大型でスタイルが堂々としているのが特徴であった。
正しいスペルは「LAZARE」で、「RAZAR」ではないのでご注意 。

ラザールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LEGNICA



画像クリックでHPへ戻る
レグニカ LEGNICA

ポーランド 詳細不明
 LEIPZIGER PIANOFORTEFABRIK  →詳しい解説は、レーニッシュ RÖNISCH (RONISCH)の項目へ
LENYNGRAD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
レニングラード LENYNGRAD ロシア(ソ連) 詳細不明
LESAGE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リーセージ LESAGE PIANO LTD. カナダ

1891年に創業されたカナダ唯一の家系を重んずるメーカーです。
リーセージのモットーは「いづれにも劣らない最高品質のピアノを作る」ことにあります。
1930年台終わりに、この会社は確固とした基礎を築き上げ、他のいろいろなカナダの
ピアノメーカー(ベルピアノ、ウェーバーピアノ、クレイグピアノなど)を買収し、
その結果、カナダで第二のピアノメーカーに成長しました。
ちなみに第一はメーソン・アンド・リッシュ MASON & RISCH, LTDであろう。
リーセージはカナダ唯一の一貫工場で、極めて優れた特徴のある特殊木工機械を使い、
多くの種類の魅力的なピアノを作っている。

リーセージのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

LESTER

LESTER





LESTER ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

レスター

トレードマークにはSINCE1930とあります。
音叉が二本交差したデザインに星形のデザインです。
この星形は調律師が使うチューニングハンマーの先端チップ部分の形からデザインしています。

大和(だいわ)楽器製造(株)で作られていたピアノで、その後レスターピアノ製造株式会社、
後の昭和46年からは新レスターピアノ製造(株)(浜松)で作られていたピアノです。

ヤマハ、カワイ、アポロに次ぐ勢力を持ったこともあります。

レスターピアノのアクションレールに貼られたLESTERのシール →★

レスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LESTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
レスター LESTER アメリカ(フィラデルフィア)
詳細不明
LEUTKE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ロイトケ LEUTKE ドイツ 詳細不明
LICHTENSTEIN



画像クリックでHPに戻る
リヒテンシュタイン

クロイツェル社製造
機種ブランド MK300、KS605等

<広告HPより>
LICHTENSTEIN(リヒテンスタイン)は、静岡県浜松のハンドクラフト系メーカーである
「クロイツェル」による国産ブランド。
ピアノの存在感をひときわ引き立たせる、グラデーション塗装の美しい木目調のピアノ。
譜面台には現在では珍しくなった象嵌加工、ハンドメイドならではの魅力を感じることが出来ます。
またハンマーフェルトには「レンナーフェルトハンマー(ドイツ製)」を採用しています。

<クロイツェル社の製造ブランド>
KREUTZER(クロイツェル)、LICHTENSTEIN(リヒテンシュタイン)、ROSENTHAL(ローゼンタール)
→KREUTZER(クロイツェル)の項目も参照

リヒテンシュタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LIEBERMANN


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リーバーマン/リバーマン/(リーベルマン) LIEBERMANN 韓国(三益)
(株)協立インターナショナルの販売(協立楽器)

協立楽器が主に関西地方で多く販売したピアノで、関東ではあまり多くは販売されていません。

リーバーマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LIGE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リグ? 中国 詳細不明
LINDEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リンデン 詳細不明
LIRIKA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リリカ 旧ソ連(モスクワ) RAZNO製
LIPATTI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リパッティ LIPATTI ルーマニア 詳細不明
LITMULER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リットミューラー LITMULER 日本 詳細不明
LIPP
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リップ LLIPP RICH (LIPP) ドイツ 詳細不明
LORIS & SONS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
LORIS & SONS ローリス・アンド・サンズ

井ヅツ楽器株式会社(大阪)
LU-2B、LU-2M、LU-3B、LU-3M、IMP-B、IMP-M
などの機種があり、コールマンとともに売り出されていた。 

ローリスアンドサンズのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LOSEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ローゼン LOSEN ベルリンピアノ製造(株)浜松、福山ピアノ(東京) 詳細不明
ローゼンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LOUIS DERDEYN ベルギー(ROULERS ルーセラーレ) 詳細不明

LOUIS HERMANN

LOUIS HERMANN

画像クリックでHPへ戻る

ルイスヘルマン LOUIS HERMANN
日本製だと思われますが詳細不明

このピアノも珍しくトレードマークがありません。
写真のピアノは弦がたくさん切れていおり、
終戦直後に作られたかなり古いピアノでした。
ルイスヘルマンピアノの外観とフタ部分にあるブランド銘柄マーク →★

ルイスヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LOWREY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ローリー LOWREY PIANO CO. アメリカ

ローリーは電子オルガンで名が知られているメーカーですが、ピアノ製作を開始したのは1963年です。
その後、アメリカ最大の楽器会社であるC.M.I(CHICAGO MUSICAL, INSTRUMENT CO.)の傘下に。
全盛期は34種類のピアノが作られているというが、歴史が新しいので日本ではほとんど知られていません。

ローリーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
LUBITZ 読み方:ルービッツ? LUBITZ,H ドイツ 詳細不明
LUCE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ルーチェ LUCE 阿部ピアノ(浜松) 詳細不明
LUDWIG
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ルードウィッヒ LUDWIG 日本 詳細不明
LYON & HEALY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
読み方不明 LYON & HEALY アメリカ(シカゴ) 詳細不明

 

    

 

 

  


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

MALCOOLM LOVE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マルコム・ラブ MALCOOLM LOVE アメリカ 詳細不明 すごい名前ですね

エスティピアノの代理店のブランド  ※詳しくはエスティピアノの項目を参照
MANTHEY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マンタイ MANTHEY ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
MARBE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マルベー MARBE 森技術研究所(浜松)、レスターピアノ製造(浜松)
MARIST
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メアリスト MARIST 小出一三氏が製作したもの。

MARCHEN/MÄRCHEN

MARCHEN ピアノ

MARCHEN

画像クリックでHPへ戻る

メルヘン (MARCHEN/MÄRCHEN)

意外と知られていませんが、カワイ製造のセカンドブランドです
現在のブランド所有は株式会社ディアパソン。
メルヘンの初期消音システムは、ハンマーシャンクで打弦を止めるシステムではなく、
キャッチャー部分で止める構造だったため、打鍵直後のシャンクのしなりの影響で、
物理的にレットオフを広く取らなければならず、消音ユニット付きは連打が利きづらいのが難点です。
※キャッチャー部分で止める装置の実際の写真 →★

音色はカワイらしい柔らかな感じです。
メルヘンのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

メルヘンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MASON & HAMLIN





画像クリックでHPへ戻る
メイソン・アンド・ハムリン (メーソン & ハムリン)
The Mason & Hamlin Companies/旧(MASON & HAMLIN PIANO CO.)
アメリカ(ヘーヴァリル)
1854年創業。 所有:ピアノディスク社のカークとゲーリー・バージェット

メイソン・アンド・ハムリン社は1920年代まで、スタインウェイ・アンド・サンズ社の最も手強いライバルだった。
当時、「世界で一番高価なピアノ」として売り出された楽器は、まさに最高の品質を備えていた。
かつて輝かしい業績を誇ったこの会社が低迷することになったのは、所有権が安定しなかったためだ。

メイソン・アンド・ハムリンのピアノは幅広い音色のパレットを持ち、豊かな低音域、澄んだ中音域、
そして鐘が鳴るような高音域が特徴。
1900年、メイソン・アンド・ハムリン社に雇われていたリヒャルト・ゲルツは、
テンション・レゾネーターの特許を取得。
テンション・レゾネーターは調節可能な数本の金属棒からなり、それらはグランドピアノ底面の中心から
放射状に広がってリム(側板)に接続される。
その目的は、響板クラウン(むくり)の弦に対する圧力を調整し、弦の振動が響板全体に
よく伝わるようにすることだ。
この部品はメイソン・アンド・ハムリン社のすべてのグランドピアノに取リ付けられた。
この機構は、「クラウン・リテンション・システム」と呼ばれ、現在もメイソン・アンド・ハムリン社の
グランドピアノに用いられている。
1905年まで、グランドピアノには独特の張弦設計が採用されていた。
ピン板にチュー二ングピンを差し込むのではなく、
弦の張力を調節するために金属のフランジとスクリューを用いる。
弦はフックに通され、小型のチューニングハンマーでスクリューを回して調律される。
スクリューはチューニングピンのように、ねじれたり動かなくなったりせず、回すのも容易で、
このシステムには従来の方式より有利な点がいくつもあり、調律の精度は高かった。
しかし、狙った音程にするのに通常のチューニングピンの方式より、余計に回す必要があった。
調律に長い時間がかかるのと(チューニングピンと反対に回して合わせていくスクリューの調律法に
慣れる必要があったためと言われている)、調律師の偏見のせいでこの貴重なアイディアは廃れていったという。

<歴史>
実業家でアマチュア音楽家のヘンリー・メイソンと、リードオルガンの開発を手掛けるエモンズ・ハムリンによって
1854年に設立されたこの会社は、すぐにハルモニウムとキャビネット・オルガンで有名になる。
メイソン・アンド・ハムリン社の最初のピアノが発売されたのは1881年と比較的遅かったが、
当初から品質は充実していた。
その後も改良が重ねられ、1895年に雇われたドイツの著名なピアノ設計家リヒャルト・W・ゲルツによって
スケールデザインが改良され、1905年には、特許を取得したテンション・レゾネーターが導入された。
一時期、メイソン・アンド・ハムリン社のグランドピアノには独特の調律システムが採用され、
チューニングピンとピン板の代わりにスクリューが用いられていた。(これを ”スクリュー・ストリンガー” と呼ぶ)
しかし、この興味深い装置は十分な発達を待たずに、1905年に廃止になった。
メイソン・アンド・ハムリン社は、1911年にケーブル・ネルソン・カンパニーの一部になってから、
所有権が次々に移って経営が傾き、1932年にはエオリアン・アメリカン・コーポレーションの所有となった。
1985年にエオリアン社が消滅すると、メイソン・アンド・ハムリン社はゾーマー・カンパニーに買収され、
その後、ゾーマー・カンパニーが1989年にファルコーネ社に買収される。
それから1991年に行われた買収のあとにできたメイソン・アンド・ハムリン・カンパニーズ
(クナーベ、ファルコーネ、ゾーマーを含む)が1995年に破産を申請し、今度はピアノディスク社に救済された。
この救いの手は当時周りからは賭けと言われていたが結果的に大成功になった。
(※ピアノディスク社はカークと、ゲイリー・バージェットがゼロから会社を興し、
電子自動演奏ピアノの市場で2000万ドルのトップ企業に育て上げたことで有名)
この新しい熱意あるオーナーのもと、会社は完全に復活を遂げ、2002年、メイソン・アンド・ハムリンのピアノは、
20世紀初頭に作られていた最高のモデルのほぼ完璧な復元となった。

<附録>
メーソン&ハムリンピアノ 製造番号/製造年代 対照表 →★
メーソン&ハムリンのまくり(蓋部分)のブランドマーク写真 →★

<現在ピアノディスク社が取り扱うピアノブランド>
Falcone、Knabe、Mason & Hamlin、Sohmer、George Steck

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
メイソン・アンド・ハムリン(Mason and Hamlin)は、アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ハヴァーヒルに本拠を置くピアノメーカーである。
1854年、ヘンリー・メイソンとエモンズ・アムランによりボストンに設立。
オルガン製作が元であったが、1883年にピアノ製造を開始。
ピアノのリムをテンションレゾネーターと呼ばれる金属棒で拘束することで強固な構造とし、
リムの変形や響板の沈下が長期間にわたって少ないことが特徴である。
米国ではスタインウェイに次ぐ高級ピアノと認識され有名であるが、
日本には輸入数が少なく知名度も充分ではない。
1924年のセルゲイ・ラフマニノフの演奏による彼のピアノ協奏曲第2番の録音に使われた。
公式ホームページ:http://masonhamlin.com/

メーソンアンドハムリンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MASON & RISCH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メーソン・アンド・リッシュ MASON & RISCH, LTD カナダ

カナダで最も大規模なピアノメーカーで、カナダで最も代表的なピアノメーカーです。
1871年にトロントで創業され、1881年にピアノの神様であるフランツ・リストによって、
そのピアノが賞賛されるにおよび、世界的に名声を博するものとなりました。
その後、ビクトリア女王およびローマ法王も、このメイソン・アンド・リッシュのピアノを
使ったと伝えられています。
現在は、製法も近代化され、生産設備の拡張によって大衆的な価格のピアノとなっている。

メーソンアンドリッシュのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MATHSHEK
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
読み方不明 MATHSHEK アメリカ スクエアピアノ(テーブル型)のピアノがあるとの情報
MATSUMOTO & SONS


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MATSUMOTO & SONS マツモト・アンド・サンズ

(有)松本ピアノ工場千葉県君津市(君津郡:当時)
日本におけるピアノの先駆者の一人、松本新吉の六男、
松本信二氏の夫人が子息の真一氏とともに作っていたピアノで、
生産台数は少ないが極めて音の美しいピアノであったと伝えられている。
父、松本新吉氏のS・マツモトや、長男広氏のH・マツモトの項も参照。

<歴史>
松本ピアノは西川ピアノに続いて関東地方に出来たピアノメーカーです。
20世紀初頭から終戦の年までピアノを作り続けました。
その後、生産台数は少ないながらも千葉県君津市で有限会社松本ピアノ工場として
長い伝統によって培われた技術を活かし楽器を作っていました。

松本ピアノの創始者、松本新吉氏は1865年に千葉県周淮郡常代村
("すえぐんとこしろむら"と読む)現在の君津市で父 治朗吉、
母 みやの長男として生まれ、"上総の神童" といわれるほどで、
寺子屋で二十四考や論語、孟子の素読を聞いてたちまち記憶するほどの
才能があったと伝えられている。

松本新吉氏は1883年に "山田るい(るゐ)"さんという最初の奥さんと結婚。
当時新吉19歳、るいさん15歳であった。
彼は1887に西川オルガン製作所に移っているが、その理由は判然としないが、
おそらく"るい"さんが西川虎吉氏の姪だったためであろうと思う。
新吉氏と西川オルガン製作所との関係は1年とも3年とも言われているが、
いづれにせよ短期間であった。
しかし、この短期間の間に彼は驚異的な才能を発揮し、外人技師たちから
オランダ語や英語を学び取り、オルガンやピアノの調律・修理の技術を
身に付けたといわれている。

松本新吉氏が最初に作り始めた楽器はピアノではなく紙腔琴(しこうきん)でした。
紙腔琴についてはWikipediaに詳しく書かれているのでここでは割愛しますが、
日本で最初に流行した大衆楽器でした。
穴の開いたロール状の紙をハンドルを回し送り出し空気を出して音を出すふいご楽器。

日本のピアノメーカーで最初に渡米したのは山葉寅楠氏で、彼は1899年に
文部省の嘱託としてアメリカの楽器業界の視察兼、ピアノの部品購入のために渡米。
ここでピアノの鉄骨フレームにヤマハの商標を鋳込ませたものを輸入することに
成功し、このことで一挙にヤマハの市場価格が高まったと伝えられている。
一方、松本新吉氏がアメリカへ修行へ出かけたのはその翌年の1900年でした。
彼は山葉氏とは対照的で、苦節10年、紙腔琴を作るかたわらピアノやオルガンの製作、
修理などに懸命に働き、その当時としては途方もない渡米費用を調達したという。

1900年に松本新吉は日本のピアノのパイオニア、そしてまた最初の調律師としても
アメリカで絶大な歓迎を受けました。彼は日本で最初の調律師として仕事を始め、
その後数台のオルガンとピアノを作ったがこれらに満足せず、アメリカの数多くの
工場を訪問し、ブラッドベリーピアノ工場で腕を磨いたとされています。
この工場のマネージャーは、彼のことを規律正しく、熱心でしかも忍耐強い
人物であると絶賛していたようです。
このブラッドベリーはニューヨークで1837年創業のピアノメーカーで、
当時73歳になるスミス社長が松本新吉氏を熱心に指導したと伝えられています。

約半年間アメリカでの研究生活を送って帰国した新吉氏は、その年の暮れに
愛妻の急死という不遇に見舞われました。落胆した彼は、一時築地の工場を
郷里の千葉に移しましたが、材料入手に不便なため、1年後再び築地に戻っている。
1905年には長男の広氏をアメリカに送っているが、その翌年に築地工場は
火災のため全焼してしまい、苦労の連続で築地時代を終えています。
1907に月島二号地に新工場を作り、病院長の和田剣之助氏および実業家の大倉文治氏と、
松本楽器合資会社を結成、さらに銀座4丁目の伊勢善自転車店跡地に
松本楽器販売店をピアノやオルガンを販売しました。
この松本ピアノ店が、のちに現在の山野楽器に変わりました。

その後、1910年に松本楽器合資会社を解散し、月島工場を単独経営に移し、
さらに京橋の柳町に営業所を設けましたが、不幸にして1914年に月島工場も全焼。
1916年には台風の大波によって大きな被害を出し、1924年の関東大震災で再び全焼、
柳町営業所も全焼してしまいます。不運が続くとはこのことでしょうか。
※参考資料:大正9年(1920年)頃の「松本ピアノ・オルガン製造所」のピアノ →★

関東大震災後の1924年に再開されたピアノの生産は順調に伸び、月産50台にも
達し品質も向上して、一流の楽器として評価されるようになりました。
新吉氏は長男の広氏と別れて故郷の千葉に移っています。

1924年、松本ピアノ八重原工場を作り、こちらをS・松本とし、
長男の広氏の月島工場のピアノを、H・松本と呼ぶようになった。

1941年5月3日、松本新吉没(享年77歳)。
1953年松本新吉の弟子である沢山清次郎氏がMATSUMOTO & SONSにブランド名称変更。

千葉県君津におけるピアノ製造は六男の松本眞二氏が後を継ぎましたが、
彼は不幸にして事故で亡くなり、奥様の松本和子さんが長男の信一氏と共に
有限会社松本ピアノ工場として仕事を引き継いでいました。
このマツモト・アンド・サンズというピアノは月産わずか当時数台ではありましたが、
大変美しい音色で定評がありました。
一家そろって90年以上もピアノを作り続けていたのはおそらく松本ピアノだけでしょう。

2007年4月6日、君津市外箕輪の松本ピアノ工場閉鎖。

<追記>
松本ピアノの月島工場は、第二次世界大戦の米軍の爆撃により全焼し、
その55年余りにおよぶ歴史に幕を閉じましたが、この月島工場で
腕を磨いた職人達は、戦後も各地でピアノ製作に取り組みました。
例えば、シュベスター(浜松)、キャッスル(土浦)、イースタン(宇都宮)
などのブランドはいづれもその系統で育った技術者たちです。
現在はわかりませんが、日本ピアノ調律師協会(通称:ニッピ)の会員の中には
当時松本ピアノ出身者が極めて多く在籍していたようです。
松本ピアノ出身で著名な方々は下記の通りです。
宇都宮信一氏、上岸斬氏、市川祐弘氏、寺中一氏、本多匡雄氏、
宇佐美隆氏、青木栄次郎氏、森泉良平氏、田中信男氏、古賀良三氏、
松川静雄氏、市村昴氏、岩本重晴氏など。

マツモトアンドサンズのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MAXADAM
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マックスアダム MAXADAM ドイツ 詳細不明
MAY BERLIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メイ・ベルリン MAY BERLIN ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
MAYYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メイヤー MAYYER ドイツ 詳細不明
MEHLIN & SONS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メーリン・アンド・サンズ  MEHLIN & SONS, INC. アメリカ

1853年、ポール・ジー・メーリンという有名な発明家で、一生をピアノの構造の改良に尽くしたと
伝えられる人によって創立された会社であります。
このピアノの外装・デザインは比類のない美しいもので、スピネットからグランドまでのすべてを製作。

メーリンアンドサンズのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MEILMNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MEILMNER  ドイツ 詳細不明
MEISCHNER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MEISCHNER Meischner マイシュナー

アカシアピアノ製作所、マイシュナーピアノ製作所、
アカシア木工株式会社、(株)マイシュナーピアノ社

戦後、アカシア木工(株)が太田一郎氏を迎えてピアノ製作を再開した時のブランド。
昭和26年に町田幸重氏によって(株)マイシュナーピアノ社が興され、
昭和30年まで月産十数台の生産が維持されたとのこと。

色々と調律師さん泣かせの所もあるらしいですが、音は国産と思えないような信念のある本格派で、
これをあの時代に発売したのだから造った方の飛び抜けっぷりが目に浮かびます。

マイシュナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MEISTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MEISTER マイスター

アトラスピアノ製造(浜松)
当時、阪急百貨店で販売していたブランドのようです
MELFORD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メルフォード 日本製 詳細不明
機種:U131など
MELHEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メルヘン MELHEN 韓国 詳細不明  ※カワイのメルヘンとは異なります
MELODI GRAND
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メロディ・グランド MELODIGRAND CORPORATION アメリカ 工場:テネシー州
アメリカには珍しい普及品のピアノメーカーです。

メロディグランドのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MELODY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メロディー MELODY 三陽楽器製作所 ケーニッヒの姉妹品。
MENDELSSOHN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メンデルスゾーン MENDELSSOHN アメリカ(テネシー州)
スターリング・ピアノ・コーポレーション  ※STERLINGの項目参照
MERCEDES
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メルセデス MERCEDES フィリピン 詳細不明
MERCEDES DELUXE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メルセデス・デラックス MERCEDES DELUXE フィリピン 詳細不明
MERDES
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
メルデス MERDES 中響ピアノ(浜松市) 詳細不明
MERRILL

画像クリックでHPへ戻る
MERRILL メリル  Merrill Piano Co.

アメリカ(ボストン)  詳細不明
MICHAEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マイケル MICHAEL 大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸  ※コスモスの項参照
MIESSNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ミーズナー MIESSNER アメリカ(ミルウォーキーMILWAUKEE) 詳細不明

MIKI

MIKI ピアノ

MIKI GAKKI

画像クリックでHPへ戻る

ミキ  天竜楽器製造(株)、三木楽器(発売元)、河合楽器、日本楽器(和田工場)

河合小市氏が日本楽器から離れてピアノを製造するにあたり、
関西の有力楽器商社三木楽器店の後援を受けましたが、
その代償として関西の販売権を譲り、ミキのブランドで販売されました。

三木楽器店は昭和36年頃より河合系列を離れたので
日本楽器系の天竜楽器がそのブランドのピアノの製作にあたり、
その後、日本楽器和田工場に引き継がれて生産されていました。

従いましてアクションはヤマハです →★   ミキの外装表記マーク →★

マフラー装置/弱音装置(一般的な3本ペダルピアノの場合の真ん中ペダルに相当)が非常に特徴的で、
ペダル式ではなく棚板下のレバー式タイプがあります →★
機種:No10等

ミキのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MILLER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ミラー MILLER PIANO CO. 正式名称:ヘンリー・エフ・ミラー・ピアノカンパニー
工場:テネシー州

アメリカ西部の豊富な木材資源を利用して、過去100年以上ピアノ製作を続けてきた会社です。
製造するピアノはまったく飾りのないスピネットタイプ10種類と、小型のグランドを製造。

ミラ-のピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MILLET


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MILLET ミレー、ミレット

新興楽器製造KK(新興楽器製作所)
長野県辰野町の新興楽器製作所のブランド。

ミレーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MILTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ミルトン MILTON アメリカ 詳細不明
MODEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
モデル MODEL 日本 詳細不明
MONARCH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MONARCH モナーク

沢根ピアノ製作所
初期のドルファーと並ぶ沢根覚氏経営の工場で作られた。
製造期間は短かった。 

モナークのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MONARCH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MONARCH モナーク ボールドウィン アメリカ 詳細不明
MONBLAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
モンブラン MONBLAN 三陽楽器製作所 詳細不明
MONDLICHT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MONDLICHT モンドリヒト

製造:天竜楽器製造(株)(浜松)、発売元:竹内楽器店(三田)
MOONLIGHT(ムーンライト)以前の商品名であるが、設計は異なる。
戦前(昭和11年)竹内楽器店(三田)が取次店であった。 

モンドリヒトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MONINGTON & WESTON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MONINGTON & WESTON LTD. モニントン・アンド・ウェストン イギリス 詳細不明

MONSON

MONSON ピアノ

MONSON PIANO

画像クリックでHPへ戻る

モンソン

ロゴには、MONSON PIANO COMPANY.LTDとあります。
製造:山下楽器研究所

山下楽器研究所(静岡県袋井市高尾にあった)は当初ピアノアクションの生産を行っていました。
その後ピアノ本体の製造にも試み、一時は関東にもかなりの台数が出荷されたようです。
アクションはもちろん”モンソン”です。

フレーム右側部分には、MATERIAL MADE IN GERMANYと書かれています。
原材料はドイツから輸入という意味でしょうか。

モンソンピアノのアクションレールに貼られたMONSONシール →★
モンソンピアノの響板に描かれたデカール →★

モンソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MONTRE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
モントル 浜松ピアノ 詳細不明
MOONLIGHT




画像クリックでHPへ戻る
MOONLIGHT ムーンライト

天竜工芸株式会社 昭和16年創業 (浜松市和田町)
後の天竜楽器製造(株)(製造)、[クロイツェルピアノ(株)(製造)]

天竜川のほとりにあったピアノ工場である天竜工芸のブランド。
創業当初は航空機部品を主に製造、その後ピアノも製造開始。
昭和24年ごろ天竜工芸は戦後出足早くに楽器製造を進め、静岡県勢総覧によれば、
資本金250万円で河合楽器製作所を上回り第二位、従業員数でも日本楽器、
河合に次ぐ第三位。ディアパーソン[ディアパソン](浜松楽器工業株式会社)、
シェーンベルグ(富士楽器製造)、アポロ(東洋ピアノ製造)を抜いていた。

昭和26年には平野八郎氏がヤマハ出身者を集め、ヤマハ指導のもとに新たなピアノを製造。
昭和29年、天竜楽器製造(株)に社名を改名、木工技術の優れた良品として定評があった。
日本楽器(現ヤマハ)はこれを買収してエテルナ、ミキを生産する系列工場とし、
その後合併して和田工場とした。
ちなみに「ムーンライト」はクロイツェルピアノ(株)でも作ったという記録がある。

トレードマークのデザインはライオンとワシに加え、天竜の「T」と工芸の「K」を使ったデザインで、
マーク内の文字には、TENRYŪ KŌGEI CO. Ltd と書いてあります。

ムーンライトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MOORE & MOORE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ムーア アンド ムーア MOORE & MOORE イギリス 詳細不明
MORGENSTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
モルゲンスタイン MORGENSTEIN 富士、アトラスピアノ製造 詳細不明

モルゲンスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MORGENSTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
韓国製 モルゲンスタイン 韓国製にもモルゲンスタインというピアノあり 詳細不明

MORGENSTERN

MORGENSTERN

画像クリックでHPへ戻る

モルゲンスターン MORGENSTERN

MU-2、MU-5の二機種があり、戦前は(昭和11年)竹内楽器店が取り次ぎをしていたようです。
トニカ楽器製造(?) 松本ピアノ(?) その他、詳細不明

モルゲンスターン内部の引いた画像 →★
トレードマークは韓国製のサミック(SAMICK)というピアノに酷似していますが、詳細は不明。

モルゲンスターンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MOUTRIE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
MOUTRIE モートリー
イギリスの組立ピアノ  上海(製造)、横浜(発売)

19世紀末、上海でイギリスの植民地政策としてこのブランドが相当数作られ、
我が国では横浜の支店で扱われていた。

※ニエアール/ニエアル NIEERの項目も参照

モートリーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
MUSENHAIM
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ミューゼンハイム?MUSENHAIM? 詳細不明
MUSSARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ムサード フランス(パリ) 詳細不明
MYSTAR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
マイスター 詳細不明

MEISTERとは違うのか?不明

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

N. YAMAHA




画像クリックでHPへ戻る

N.YAMAHA (n.yamaha) エヌ・ヤマハ

山葉ピアノ研究所 創業1928年(昭和3年) 浜松市
製作者 : 山葉直吉氏、大橋幡岩氏、尾島一二氏、田中喜三郎氏ら

尾島直吉氏(旧姓)は10歳の頃、山葉オルガン製造所(後の日本楽器製造株式会社、現ヤマハ株式会社)の
創始者である山葉寅楠氏のもとに弟子入りし、その後山葉寅楠の姪と結婚し養子となり山葉直吉と姓が変わる。
1927年(昭和2年)、当時起こっていた内部労働争議が原因となり山葉直吉氏は工場長を辞職し、
そしてその翌年には日本楽器製造株式会社を正式に退職しました。
その後山葉直吉は、「山葉ピアノ研究所」を設立し、直吉に追って退職した大橋幡岩氏、尾島一二氏、
田中喜三郎氏らとともに「N.YAMAHA」のブランドでピアノ製造に取り組んで製作されたピアノです。
n.yamahaのまくり(フタの部分)にあるブランド銘柄マーク →★

この「山葉ピアノ研究所」で製造されたピアノは合計34台との記録が残っており、その内の3台が現存。
このうち2台が浜松市楽器博物館と、浜松市博物館に展示所蔵されています。
残りの1台の所在は不明です(→情報求みます)
作られたピアノは大変上質なもので、ドイツのピアノ技師であるシュレーゲルからも高く評価されたとのことです。

NAOZIM


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NAOZIM (NAOZEM) ナオジム (ナオゼム)

松山ピアノ製作所

さまざまな新しい構造や形式を取り入れた特徴のあるピアノで一時話題となった。
二重響板の特許を持っている。松山直次氏の経営。

ナオジムのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NATIONAL


画像クリックでHPへ戻る
ナショナル NATIONAL 日本

そう、あの有名な国内大手電機メーカーである「ナショナル」でも自社ブランドとして
過去にピアノを販売していました。ピアノブランドとしてはかなりマイナーです。
実際に作っていたのはナショナルではなくどこかのピアノ製造会社だと思いますが、なかなか面白い時代ですね!
機種:SP-18等

※ちなみに音響器機メーカーのあのビクターでもピアノを作っていたことがあり、そちらはそこそこ有名です。

NATORI

NATORI ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

ナトリ

ナトリピアノは石川隆己氏の弟子である調律師の名取氏が作っていたピアノです。
その他詳細不明。

昔の調律師はピアノも作っていたんですね。
職人自体が調律師をしていた時代とも言えるかと思います。

ナトリのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NEUMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ノイマン NEUMANN ドイツ 詳細不明
NEUPERT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NEUPERT ノイペルト

ドイツ(旧西ドイツ)ハンブルグ

ドイツのハンベルグに、最大級のチェンバロ工場がある。
当初はピアノを造る会社であったのが、第2次世界大戦後バロック時代の古楽器に絞って、
チェンバロとクラビィコード専門に生産を続けるようになった。
はじめのうちは古楽器の模倣とコピーで始めたが、次第に設計段階から創意工夫改良を加え、
それがまたバロック音楽の復興の波に乗って販路が広まったのだと思う。
その製品は、終戦直後から日本にも輸入され、放送局も学校や個人用にもノイペルト社が主流品に。

ノイペルト社の創業は、1868年、ヨーハン・C・ノイペルト(Johann Chritoph Neupert 1842~1921)が
ドイツのニュルンベルグの工場開設から始まった。その後1874年に工場をバンベルグに移した。
彼の3人の息子が家業を継ぎ、まもなくミュンヘンとニュルンベルグにも支店を出すようになった。

ヨーハン・C・ノイペルトは、傍らにバロック時代の古楽器を収集していた。
彼はそれらの良さに魅せられて、1907/08年からは自分の工場でチェンバロとクラビィコードも造りはじめた。
それがいつのまにか全面的に古楽器生産に切り替えるようになり、
彼の蒐集品は、そのまま「ノイペルト音楽史博物館」になっている。

ノイペルトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NEWMEYER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NEWMEYER ニューマイヤー ドイツ 詳細不明  ※中国製の”ニーマイヤー”とは異なる
NIEER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NIEER ニエアール/ニエアル(聶耳) 中国(上海)
ニエアールとは漢字で聶耳と書く。上海製のピアノのブランドである。
中国では、日本でピアノが作られた以前の19世紀の半ばに、スコットマン(SCOTMAN)、
およびモートリー(MOUTRIE)というイギリス系のピアノを最初に香港で作り、
後に上海で作ったと記録されていることから、その製造技術の歴史は相当に古い。

このピアノは、中国のうちでは優れた部類に属するもので、種類としてはフルコンサート
グランドからスピネットに至るまで各種のものが作られている。
聶耳(ニエアール/ニエアル)とは中国の作曲家の名前である。
上海の工場では他にシャンハイ(SHANGHAI)というブランドも作っている。

ニエアールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NIEMEYER



画像クリックでHPへ戻る
NIEMEYER ニーマイヤー ドンペイピアノ(中国東北部の东北

<HPより抜粋>
1850年代にドイツのピアノ技師Niemeyerによって初めて作られたピアノ。
現在は、Dongbei Pianoが全ての製造機械と職人を中国の遼寧省に移し製造を続けています。
北緯40度付近に広がるエゾマツを共鳴版に使い24時間稼動の最新設備の工場で製造され、
現在世界20カ国以上で販売

その他詳細不明

ニーマイヤーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NIENDORF
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ニーンドルフ NIENDORF/NIENDORF FLÜGEL) ドイツ(旧東ドイツ)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ニーンドルフ・フリューゲル・ウント・クラヴィアファブリック(Niendorf Flügel- und Klavierfabrik、
ニーンドルフ・グランドピアノ・アップライトピアノ工場)GmbHは、
ドイツ、ブランデンブルク州ルッケンヴァルデに所在するピアノ製造会社である。
ヘルマンとカール・ニーンドルフは1896年にルッケンヴァルデで楽器工場「Niendorf & Hemprich」を創業した。
彼らの工場はベビーグランドピアノとサロングランドピアノ、アップライトピアノを専門にした。
製品は3割はドイツで、残り7割は世界中(主に南米)で販売された。
1900年にブランド名「Gebr. Niendorf(ニーンドルフ兄弟)」が使用されるようになった。
1921年に初代の工場がほぼ完全に焼失したため、会社は1922年に新たに作られたルッケンヴァルデ工業団地に
4万5千平方メートルで新たに営業を始めた。
この時に、「Gebr. Niendorf Pianofortefabrik AG 」(ニーンドルフ兄弟ピアノ工場株式会社)が設立された。
1929年、ニーンドルフ社は他の名高いドイツのピアノ製造業者と同様に、「Deutsche Piano-Werke AG」
(ドイツピアノ工場株式会社)に加盟した。
この統合の目的は世界恐慌によってもたらされた困難な経済状況を生き抜くためにいくつかの
作業工程を標準化することにあった。
Piano-Werke AGの生産拠点はルッケンヴァルデにあり、後にはブラウンシュヴァイクに移った。
2年後、ヘルマン・ニーンドルフとマックス・ニーンドルフは協同組合から脱退し、
再び「Gebr. Niendorf」を商業登記した。
ナチス時代、ニーンドルフ社は破産を申し立てざるを得なくなった。
会社はFa. Riese, Hallmann & Co. に引き受けられ、
既によく知られていたGebrüder Niendorfのブランド名は守られた。
東ドイツの人民公社(VEB)ドイツピアノ組合ライプツィヒの指導の下、Gebr. ニーンドルフは
1974年に強制的に国有化された。
高品質楽器の生産は続けられ、アメリカ合衆国、アジア、西欧、ソ連へ輸出された。
VEBドイツピアノ組合ライプツィヒでは、「Niendorf」、「Hupfeld」、「Gerbstädt」、「Rönisch」、
「Zimmermann」、「Steinbach」、「Fuchs & Möhr」、「Alexander Herrmann」ブランドの
アップライトピアノおよびグランドピアノが生産された。
これらのより小規模の工場は数年のうちに合併された。年間生産数は約3千台にまで増加した。
フォークトラント音楽祭1985の中で、楽器産業の称賛に値する労働者らがドイツ民主共和国(東ドイツ)の
楽器製造における優れた業績により名誉表彰を受けた。
第2位の賞はVEBドイツピアノ組合ライプツィヒのルッケンヴァルデ支部のピアノ職人、技術者、
設計者に共同で授与された。
この賞は高品質のZimmermannグランドピアノ・モデル145を開発した功績を表彰したものであった。
このグランドピアノはライプツィヒ・メッセでも金メダルを受賞した。
ドイツ再統一後、1990年代にMärkische Pianofabrikが信託公社として営業を開始し、
ニーンドルフブランドの製品を販売した。この会社はすぐにLeipziger Pianofortefabrikによって買収され、
それ以降はMärkisches Werk Luckenwaldeという名称で営業した。
この時期、50名の労働者がレーニッシュおよびフップフェルトブランドのベビーグランドおよび
パーラーグランドピアノを生産した。
1995年にMärkisches Werkは閉鎖が予定されたが、1996年、前従業員と会計責任者のRegina Rotschが
会社を買収し、Rotsch Flügel- und Klavierfabrikの名称で復活させた。
不運なことに、最大の顧客であったLeipziger Pianofortefabrikがわずか数カ月後に倒産した。
野心を持って、Rotsch Flügel- und Klavierbauはすぐに年間60台を購入する日本の顧客を獲得し経営を守った。
自身のニーンドルフピアノを設計した1998年、社は営業所も開設し、
その一年後にはベルリン・ミッテ区に店を開いた。
ニーンドルフ社はピアノ学校も開き、定例の音楽会も開いた。
2000年から2005年まで、会社はRegina Rotschの夫Hennigと彼らの娘Christinaによって経営された。
彼らは米国の以前の共同事業者へ楽器を供給した。
2014年、前従業員でピアノ職員のMarkus Ernickeが会社を引き継いだ。
2015年からはMade in Germanyのアップライトピアノおよびグランドピアノの生産が再開し、
続く数年間で生産数と従業員数は順調に拡大した。
2018年2月現在、23人の従業員によって年間約60台のピアノが製造されている。
製品ラインは高さ118および123 cmのアップライトピアノと全長145、172、227、275 cm(2017年9月)
のグランドピアノである。ニーンドルフ社は2016年からドイツ起源の部品のみを使用している。
公式HP:https://www.niendorf-piano.de/en/
NIPPON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NIPPON ニッポン 日本ピアノ 詳細不明
NISHIKAWA
NISHIKAWA ニシカワ
製造:西川ピアノ(横浜)

日本のピアノ工業創始者の一人西川虎吉氏、西川安蔵氏親子による歴史的ピアノ。
材料の多くを輸入に仰いだが国産ピアノ第一号とする説も多い。
横浜の外国商社との取り引きが古く、明治23年の内国博覧会で一等賞をとった。
大正10年に日本楽器製造(株)により買収され、工場は日本楽器横浜工場となり、
西川ピアノは1916年から1921年までピアノを作り続けて、
当時としては品質が優れたものであったという。尚、その生産台数については全く分かっていない。

NISHIKAWAピアノの銘柄ブランドマーク →★(大正時代の西川ピアノ)

<歴史>
西川ピアノの創立者である西川虎吉氏は1846年に千葉県周淮郡常代村(すえぐんとこしろむらと読む)
現在の君津市で伊藤徳松氏の次男として生まれ、若いときは三味線作りの職人でした。
後に西川家の養子となって横浜に移り住みます。
彼は横浜でドイツ人調律師のドーリングに調律方法を習い、1885年に西川オルガン製作所を
横浜駅西口の鶴家町(現在の浅間町付近)に設立、日本で最初のオルガンを製作しました。
彼のピアノ製作に関する記録はほとんど残っていませんが、1876年頃、当時横浜で楽器とその部品の輸入商の
アレキサンダー・クラークの扱うピアノやオルガンの修理・調整を手伝い、
さらに外国人技術者のイギリス人クレン氏とドイツ人のカイロ氏のもとで7年間の修行をして
調律・製作の技術を身につけたようです。

ピアノ調律界の元老であった沢山清次郎氏の生前の記録によると、日本のオルガン製作の元祖は
西川虎吉氏で、山葉寅楠氏がオルガン製作を開始したのは1887年であると伝えられている。
しかし、アメリカの文献によると日本で最初にオルガンを製作したのは山葉寅楠氏で
1885年との記載がありどちらが正解なのかは不明。

西川ピアノは1916年から1921年までピアノを作ってきたが、アップライト・グランドともに
当時としては優れたピアノだったようです。
その後、西川ピアノは1921年に日本楽器製造(株)ヤマハに買収され、
工場は日本楽器横浜工場となり、販売店指定ブランドで作るピアノ、
いわゆるステンシルピアノを作っていたが、1936年頃に工場を閉鎖しました。

虎吉氏の一人息子であった西川安蔵氏も二代目としてその事業を受け継ぎアメリカのエスティ社に留学し、
西川ピアノが日本楽器に買収されるまでピアノ製作に尽力されたというが、その業績については不明。
NISHIKI
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
中国 詳細不明
NITTO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NITTO ニットー

日東楽器工業(製造)、(有)須賀亀商店(発売元)
ハーモニカを主として取り扱っていた東京の楽器卸商であった
(有)須賀亀商店が取り扱った廉価版

ニットーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NOBEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ

NOBEL ノーベル 日米楽器工業所(アトラスピアノの前身)浜松

ノーベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NOCTURN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NOCTURN ノクターン ロシア(ソ連) 詳細不明
NORDISKA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NORDISKA ノルディスカ

スウェーデン ・ 中国(ドンペイ)
1891年にスウェーデンのヴェトランダで生まれたピアノです。
当時120cm以下の家庭向きが主流で、外装の多様性がすばらしい。

現在は米ボールドウィン社の傘下であるDongbeiPianoで製造され、
比較的安価で高品質なピアノを提供しています。
特にグランドピアノは評価が高く、中国産のグランドピアノでは
品質・輸出量とも1位の実績を持つピアノとのこと。
現在はギターで有名なアメリカのギブソン社(Gibson社)の傘下でピアノ製造をしています。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ノルディスカ (Nordiska) は、1926年にスウェーデンにてピアノ製造を開始したピアノメーカーである。
現在は中国のピアノメーカー・営口東北鋼琴(以下「ドンベイピアノ」と呼ぶ)のブランド。
1988年に中国の国営企業であったドンベイピアノがスウェーデンにて製造されていた
ノルディスカピアノの設計・工場・設備を全て買取り、中国でピアノ製造を始める。
ドンベイピアノは1990年代後半には中国ピアノメーカーの中でもトップ5に入る生産台数・販売台数となり、
アメリカをはじめ日本やヨーロッパなどにピアノを輸出し始めた。
その後、ノルディスカは低価格戦略とヨーロッパから受け継いだ生産技術力を生かし生産台数を伸ばした。
その後、ドンベイピアノは民営化され、2007年にアメリカの大手ギターメーカー「ギブソン」に買収された。
ドンベイピアノはギブソングループに入ると同時に社名を
「Baldwin Dongbei Piano(ボールドウィンドンペイピアノ)」に変更し、
工場ではアメリカの老舗ピアノブランド「Baldwin(ボールドウィン)」をはじめ
「Nordiska(ノルディスカ)」「August Hoffman(アウグストホフマン)」
「J&C Fischer(ジェイアンドシーフィッシャー)」などのピアノブランドを製造している。
2009年には中国の公的機関(国又は省)から一定の生産経歴と実績、設備、技術、サービス、企業イメージ、
社会に対する貢献度などを満たした企業に贈られる「著名商標」(名牌産品/有名ブランドの意)に
ノルディスカが認定された。工場はISO 9001=2000を取得している。

ノルディスカのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
NORMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
NORMAN ノルマン 中響ピアノ(浜松) 詳細不明
NYLUND & SON
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ニールンド・アンド・サン  スウェーデン(ウプサラ)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ニールンド&ソーン(Nylund & Son)は、スウェーデン中部ウプサラのピアノ製造会社である。
アップライトピアノとグランドピアノの両方を製造していた。
1906年にEmil Nylundによって創業され、1927年以来現在の建物を維持している。
1990年頃、ニールンド社はピアノ製造を止め、現在はアコースティックピアノおよび
デジタルピアノをはじめとする楽器の販売を行っている。
ニールンド・アンド・サン公式HP →★

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

OBERMEIER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
 ドイツ ベルリン 詳細不明
OFFENBACH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
Offenbach オッフェンバッハ 韓国製 その他詳細不明

OHHASHI



画像クリックでHPへ戻る

OHHASHI オーハシ/オオハシ 大橋ピアノ 創業1958年。

昭和34年から浜松市新津町の大橋ピアノ研究所で作られていたピアノで、
グランドとアップライトがある。
大橋幡岩氏設計製作の国産最高水準を志した意欲作。
その後、息子の巌氏が引き継ぎ、平成4年まで続いていた老舗ブランド。

機種:No132等

オオハシのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
OLIMPIC
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
オリンピック OLIMPIC 日本 詳細不明
ONO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ONO オノ

小野ピアノ(製造)湯河原?、[日本ピアノ製造(株)](製造)磐田市
ホルーゲルをブランド化した小野ピアノが、戦争中、外国語のネームを避けて
創立者小野好氏の姓を付けたものという。
日本ピアノ製造(株)[シュミットの製造元]でも製作されたことがある。

オノのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

ONO HORUGEL

ONO HORUGEL

画像クリックでHPへ戻る

ホルーゲル/オノ・ホルーゲル (ホリューゲル)  製造:小野ピアノ

通常、ONOは付けずに、HORUGELだけで通用します。

創始者の小野好氏は仙台の富豪で、最初は最初は蓄音機の販売で成功し、
昭和8年、東京大田区の六郷にピアノ工場を持ち、
戦争中は神奈川県湯河原に疎開して大きく発展したようです。
トレードマークのロゴには、ONO PIANO,COとあります。

ホルーゲルは同社のメインブランドでした。
このピアノは私自身1台しか調律したことはありませんが、
作りはうーん。。といった印象です。

<別情報>斉藤喜一郎氏がドイツ留学から帰国後、東京蒲田楽器製作所を設立し
ブッホルツとホルーゲルピアノを製作したとの情報もあり(詳細不明)

ホルーゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ORGAST HOLSTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ORGAST HOLSTER オーガスト ホルスター 大成ピアノ(浜松市) 詳細不明
ORIENTAL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ORIENTAL オリエンタル 日本 詳細不明
OTTO


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー  (CAROL OTTO/Carol Otto)

ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。

キャロルオットーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

OTTO MEISTER

OTTO MEISTER

画像クリックでHPへ戻る

オット・マイスター OTTOMEISTER otto meister

オットマイスター、中国製
製造:星海 Beijin Piano Factory
ロゴには、MADE IN BEIJING CHINA とあります。

音色はしゃりしゃりしていて、全体的にピアノの作りはうーん・・・とった感じです。
ピン味(調律時に音を合わせるチューニングピン)が硬く、ジャンピングも多いのが特徴。
とても音が合わせづらい印象です。
調律経験が豊富でないと音を合わせるのがかなり難しいピアノです。

中国が本格的にピアノを作り始めた頃ですので仕方ないですね。
DHボールドウィンなどもこの類の仲間のピアノです。 

オットマイスターのまくり(蓋部分)にあるメーカーマーク →★

オットマイスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
OTTO-LARE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
OTTO-LARE オット・ラーレ 日本 詳細不明
OUDIYA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
中国? 詳細不明

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

P. WELCE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方
P.WELCE ピー・ウェルス フクヤマピアノ(福山ピアノ社)

福山ピアノの命名した多数のブランドの一つで、小型で価格の安いものにつけられていた。
中音、高音域のピアノ線が通常のピアノは3本張りなのに対して2本で張られています。
鍵盤数も一般的な88鍵ではなく、鍵盤数も少ないピアノも製造で、廉価版ピアノ。
戦後間もない頃のピアノは材料を苦心して集めたピアノだったようです。

ピーウェルスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

PACO

PACO ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

パコピアノ/グラチアピアノ

PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO

金正日が自国でもピアノ製造を作れとの意向で、朝鮮総連系の日本のピアノ製造会社との
合弁で『平壌ピアノ合弁会社』を設立(1988年)
この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い
北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内(浜松)で行い出荷。
製造が容易な部品のみを北朝鮮で作り、その他の部品は全て日本から輸入して組み立てていました。
製造開始当時は、北朝鮮製の部品の比率は1%程度であったとされています。

日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて
日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。
現在は既に日本との合弁を解消しています。
日本国内での製造輸入は、『PACO』社が行なっていました。

当時の日本においては、アップライトピアノの市場が飽和していた上に、デジタルピアノが登場した事により、
アップライトピアノ製造を主とする工場は苦境を迎えていた。
こうした状況下での、北朝鮮からの技術協力要請は、好意的に受け止められていた。
日本人技術者が滞在しての技術指導は約7年程度続いたとのこと。

ブランドはGRATIAE(グラチア)、FEINTON(フェイントン、ファイントン)など低価格のピアノ。
当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、
東南アジア・中国・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。

1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、
ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。

グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク →★

パコのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
 PAPE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
パープ 創業1817年 フランス(パリ)
詳細不明
PAUL GERHARD 詳細不明
PAUL WEISS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PAUL WEISS ポール・ワイス ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
PEACE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PEACE ピース 日本 詳細不明
PEARL RIVER



画像クリックでHPへ戻る
PEARL RIVER パール・リバー(珠江) 中国(広州)

珠江牌とよばれる広州製のピアノ。珠江とは広州の街の真ん中を流れる大河。
ピアノはすべてアップライトで、背が低く、当時スピネットタイプの小型が多かった。
中国のピアノのうちでは最も安価なものの部類。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
広州珠江鋼琴集団(こうしゅうしゅこうこうきんしゅうだん、グァンヂョウジュジャンガンチィンジトゥアン、
英語: Guangzhou Pearl River Piano Group Co.,Ltd、SZSE: 002678)股份有限公司は、
中国で最大のピアノ製造業者であり、世界最大のピアノ工場を有している。
1956年に中華人民共和国広東省広州市で設立された。
通称は広州珠江鋼琴集団股份、広州珠江鋼琴集団、広州珠江鋼琴など。
中国国外ではパールリバー(Pearl River)として知られている。
パールリバーは年間10万台を越えるピアノを生産する能力があり、それらを80を越える国々へ輸出している。
今日、パールリバーピアノは幅広いブランドと水準の下で生産されている。
パールリバーは「Kaiserburg」、「珠江(Pearl River)」、「Ritmuller」、「京珠」などのブランドを中心に
様々な種類のピアノを製造・販売している。
2016年1月、パールリバーはドイツ・ブラウンシュヴァイクのピアノメーカーヴィルヘルム・シンメルの
株式90%以上を取得した。ドイツにおける経営は変わらないままであり、シンメルの工場は
今でもシンメル家によって管理されている。
1998年、パールリバーは中国のピアノメーカーとして初めて、全ての部品と構成要素を含む
グランドピアノおよびアップライトピアノの全製品について国際標準化機構ISO 9001認証
(ISO 9001)を取得した。パールリバーは最近ISO 14001も取得した。
パールリバーは米国において自社での流通を行っていたが、2000年に流通を
North American Musicに引き渡した。パールリバーは自身の社名の下で米国において
ピアノを販売した最初の中国ピアノメーカーの一つであり、ピアノ教師と調律師によく受け入れられてきた。
パールリバーは世界最大のギターおよびバイオリン製造業者の一つでもあり、
百貨店ターゲットで一般に見られる人気のあるギターブランド「ファーストアクト」の主要な供給業者である。
ドラム、金管楽器、木管楽器も国際的に販売している。
中華人民共和国では、自身のブランド名「紅棉」の下でギターを生産している。
パールリバーは新しいリットミュラー(Ritmuller)シリーズを作るために
ピアノデザイナーのLothar Thommaを雇った。
最終的に、Thommaはリットミュラーシリーズのパフォーマンスモデルとプレミアムモデルの
両方を設計するか設計を手助けするかした。
パールリバー社は、Lothar Thomma設計のリットミュラーピアノはヨーロッパのスケール設計を備え、
最高級のヨーロッパ製部品を使用し、手仕上げを行うためにより小規模でゆっくりとした製造工程である、
と述べている。パールリバーとリットミュラーの違いには、Thomma設計の低張力ドイツ式スケール、
ドイツFilzfabrik Wurzen GmbH製フェルト、ドイツ・レスラウ(Röslau)製弦、本物の黒檀鍵、
ドイツAbel製ハンマー(パフォーマンスモデル)及びドイツレンナー製ハンマー(プレミアムモデル)等がある。
米国の3つの大規模なピアノ小売企業はOEM自社ブランドの供給元としてパールリバーを使っている
(Jordan Kitts Music、Sherman Clay〔閉店〕、Schmitt Music)。
これらの小売チェーンは独自のブランド名(Henry F Miller、Christofori)を使用している。
ヤマハは1995年にパールリバーと合弁事業を作り、中国市場向けのピアノを製造するための工場を設立した。
この工場は経済技術開発区の広州の東、パールリバーの工場から約35マイル離れている。
この工場はパールリバーピアノグループのために2つのモデル、UP125M1およびリットミュラー
UP126Rを生産している。どちらの製品種目も小売ピアノ店によって米国で販売され、
鍵盤の横に「Yamaha Pearl River」という追加の刻印が押されている。
パールリバーはスタインウェイ・アンド・サンズの「エセックス」ブランドのグランドピアノと
アップライトピアノを含む全てのモデルも広州工場にて製造している。
2005年5月1日、スタインウェイ・アンド・サンズとパールリバー・ピアノグループは
合意について合同で発表した。両社はスタインウェイ・アンド・サンズが系列会社の
ボストンピアノCo., Inc. のために設計した複数の新しいエセックスモデルの開発を開始した。
エセックスピアノは2006年の初めに市場に届いた。
これはスタインウェイの中国における初の事業であり、
パールリバーが西洋のピアノメーカーと結んだ初のOEM関係であった。
Hallet, Davis & Co. Boston (HD&C) は、通常Hallet & DavisまたはH&Dと呼ばれる
ピアノ製品ラインである。元々のHallet, Davis & Companyは1841年に
George H. Davis、Russell Hallet、およびその他の共同経営者によってボストンで設立された。
この会社はDavisと創業者とは別のHallet(Benjamin Franklin Hallet)によって
1950年代にボストンで再構成された。
1900年代初めにW. W. Kimball CompanyがHallet & Davisを買収した。
1905年、持ち株会社Conway CompanyがKimballからHallet & Davisの名称を取得した。
1927年にConwayはピアノ事業を整理した。
Hallet & Davisのブランド名と100年以上続くその製造の起源に関しては混乱があった。
1904年12月版の「Piano and Organ Workers’ Official Journal」において、
編集者らは「数年前にHallet & Davisの工場がシカゴから撤去され、
Kimball Companyと合併したにもかかわらず、いわゆる業界紙がボストン製の楽器として
Hallet & Davisピアノを発表し続けていること、結果として犯罪的なごまかし・詐欺を手助けし
幇助していることについて読者は興味を持って知りたいと思っていることだろう」と述べた。
20世紀中頃、 Hallet & Davisの名称は、その他多くの 米国ピアノブランドと同じように、
エオリアン-アメリカンCorp.(1985年に破産宣告)の下に集約されていた。
Hallet & Davisブランドとその適切なボストンとのつながりを復活させようという試みが
1998年に成され、商標「HALLET, DAVIS & CO. BOSTON」がNorth American Music, Inc. によって
出願された。この出願は米国特許商標庁(USPTO)によって「拒絶/却下または無効」とされた。
その翌年の1999年、North American Musicは再びHallet & Davisの商標
(この時はBOSTONを外して単に「HALLET, DAVIS & CO.」として)を出願し、
最終的に2001年にUSPTOによって許可された。
新たなH&Dピアノがマサチューセッツ州ボストンと少しの関係もないという事実にもかかわらず、
中国のパールリバー・ピアノグループはH&Dのステンシルの下に「Boston」を
(登録商標の一部ではないにもかかわらず)入れている。
パールリバー・ピアノグループは2014年以降H&Dラインを生産してきた。
2014年以前は、このブランド名のピアノは東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)によって作られていた。
しばらくの間、H&Dブランドは両方のメーカーから同時に生産されていた。
今日、Hallet & DavisはNorth American Musicが卸すために製造されるピアノのOEMラインである。
ここ数年全てのH&Dピアノはパールリバーによって作られているものの、
このブランドには非常にさまざまなデザインと品質を持つ詳細が不明確な製造の歴史がある。
過去このブランドは、北京星海楽器や東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)、
Silberman Piano、Parsons Music、そしてパールリバー・グループを含む
複数のピアノメーカーによって製造された。

パールリバーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PEARL RIVER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PEARL RIVER ユンチャン(パールリバー) 韓国 詳細不明
PERZINA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製

ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、
現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。

1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、
北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。
現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に
こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある
ピアノのひとつとなりました。
また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、
ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。
しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は
東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、
大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。

2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。
(※)第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ペルツィーナ(Perzina、Gebr. Perzina〔ペルツィーナ兄弟〕)は、1871年から1929年頃まで
ドイツ北部のシュヴェリーンの鍵盤楽器製造業者(Gebr. Perzina GmbH、Alvari-Piano-GmbH、
Pianofortefabrik Gebr. Perzina)によって使われたブランド名である。
日本ではペレツィーナとも呼ばれる。
現在、ペルツィーナブランドのピアノはオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・
煙台ペレツィーナ (Yantai Perzina Piano Manufacturing Co., Ltd.) によって生産されている。
ザクセン系ピアノ職人を父に持つユリウス・ペルツィーナとアルバート・ペルツィーナの兄弟は、
20代後半になると父の仕事を引き継ぎたいと望み、ベヒシュタインの創業者である
カール・ベヒシュタインの元で修行した。
その他にもドイゼン(ドイツ語版)やシュヴェヒテン、レーニッシュの下で修行と経験をつみ、
ピアノ職人の技術を修得したペレツィーナ兄弟は、1871年7月1日にドイツ北部のシュヴェリーンという町で
「Pianoforte Fabrik Gebrüder Perzina」(ペルツィーナ兄弟ピアノ工場)を創業した。
会社を設立した初年度は20台のピアノが製造された。1883年にメクレンブルク大公家御用達の称号が
ペレツィーナに授与された。数年後、Gebr. ペルツィーナ社は「オランダ女王」、「ポルトガル王」、
「アンハルト公」の御用達称号を授与された。
ペルツィーナ社はオランダのウィルヘルミナ女王や、ハインリヒ・メクレンブルク=シュヴェリーン
(オランダ女王ユリアナ王妃の父)、オルデンブルク公爵等にピアノを納めた。
ピアノ工場を開業して数年後、兄のアルバートが引退したが、
社名のGebr. ペルツィーナ(ペルツィーナ兄弟)は残った。
1894年にペルツィーナ社はアントウェルペン国際博覧会は、1895年にアムステルダム国際博覧会へ出品した。
1900年頃から会社は急成長をし始めた。1901年のレターヘッドでは自社を
「ドイツ・バルト海諸国で間違いなく最大で最も効率的なピアノ工場」と形容していた。
1897年の始め、シュヴェリーン工場のスタッフが約10週間仕事を止めた。
従業員らは賃金の引き上げを求めてストライキを行った。
1897年4月、わずか52歳で共同創業者のユリウス・ペルツィーナが死去した。
工場の経営は、合名会社の設立後、続く20年間ハンブルクの実業家ダニエル・フス(Daniel Huss)の
手に渡った。社主の義理の息子は経営責任者としてピアノ工場を手工芸工場から産業工場へと転換した。
創業年の1872年に生産された楽器は20台だったが、1897年には既に315台、1900年までには
シュヴェリーン工場の生産数は年間768台に伸びた。
1904年7月26日の壊滅的な火災によって生産建物のほとんどが破壊された。
それからの3年間にわたって、宮廷石工のLudwig Cleweが合名会社の株主の指定にしたがって
新たな工場建物を建設した。この中にはWismarschen通り44番地の本館も含まれ、今日も現存している。
1910年頃には年間製造台数が1000台まで増加(グランドピアノの製造は1905年から開始)。
数年後、製造工場を拡大するためシュヴェリーンより約60 km南下したレンゼンという町に移転した。
第一次世界大戦まで急激に成長した。この頃がドイツ時代のペレツィーナの製造のピークであった。
第一次世界大戦の開戦以降、Gebr. ペルツィーナは「フォッカーヴェルケ・シュヴェリーン
(Fokkerwerke Schwerin)」のためにバルブとプロペラの生産を行い、
1914年8月からは弾薬袖も生産ラインに加わった。1916年、ペルツィーナ社は検察庁の標的とされた。
排出された薬莢が新たな供給品に再び混入された; 従業員1名が贈収賄で通報、逮捕された。
このスキャンダルは多忙な経営責任者ダニエル・フスを直撃し、
10カ月の禁固刑と2年間の市民権剥奪を言い渡された。
1917年8月23日、アントニー・フォッカーが工場と400名の従業員を買収した。
ヴェルサイユ条約の条項の結果として、航空機メーカーのフォッカー社は1919年に本社を
シュヴェリーンから移転した。
戦後、フォッカーはピアノ工場をオットー・ルボー(Otto Libeau)に貸した。
1920年4月から、会社はピアノに加えて家具と木箱も生産した。
グーテンベルク通りの第三工場は1923年に「Alvari-Piano-GmbH」に改称した。
Wismarschen通りにおけるピアノの生産は1929年頃まで行われた。
1930年代、「低地ドイツ・ベオハバター」(Niederdeutsche Beobachter)紙が以前の本館に移転してきた。
シュヴェリーンのピアノ製造者Wilhelm Meyerはオットー・ルボーと共に
「Gebr. ペルツィーナGmbH」という名称でピアノを製造した。
ルボーは1930年代中頃に会社を離れた。1929年まで、ペルツィーナ社はシュヴェリーンの住所録に
「Gebr. Perzina GmbH, Pianoforte-Fabrik, gegr. 1871. Inh. Wilhelm Meyer, Wismarsche Straße 153」と
掲載されていた。1984年から2013年まで、シュヴェリーン市立図書館は
「ペルツィーナハウス(Perzinahaus)」を使用した。
二度の世界大戦によって多くのピアノメーカーが姿を消す中、
ペルツィーナは東ドイツの国営企業として生き延びた。
「Perzina」ブランドのアップライトピアノとグランドピアノはレンツェンにおいて
国有企業の下で1959年から1972年まで生産された。
1930年代の始め、ベルリンのピアノ修復者Friedrich Geilがレンツェンで
「Wagner」ブランドのピアノ生産を始めた。
Geilはシュヴェリーンの議会から登録商標「Gebr. ペルツィーナ」を使用する権利を与えられた。
1972年、この会社は収用され、VEBドイツピアノ組合ライプツィヒに譲渡された。
1989年の転換後、ブランド名「Wagner」および「Perzina」はGeil家によって再び引き継がれ、
ピアノ生産の再編が目指された。経営責任者の突然死の後、1990年末に以前の生産責任者が新たに
設立された有限会社(GmbH)のトップとなった。
1990年代中頃にオランダの楽器卸売業者Ronald G. Bol(Music Brokers International B.V.)が
世界的な販売権を取得し、その後事業に参加した。
Bolは徐々に生産をドイツ国外へ移し(1998年に中国の煙台〔エンタイ〕に生産拠点を移転)、
レンツェンのピアノ工場は最終的に1996年12月に閉鎖された。
ペルツィーナブランドのピアノは、Yantai Longfeng Piano Co.での生産を経て、
現在は煙台ペレツィーナの年間15000台の生産能力(アップライト)をもつ近代的な設備のもとで製造されている。
煙台ペレツィーナは、2003年にBolと中国人実業家Sun Qiangとの共同で設立された。
Bolがこの民営企業の副社長で、海外への供給責任者である。
主任技師はドイツ人のHas Leferinkである。彼によって設計や品質管理がされている。
ドイツ・レンゼンのピアノ工場は1996年12月に閉鎖され、
現在の欧州本部はオランダ・ヴィーネンダールにある。
煙台ペルツィーナで製造されている「Gebr. Perzina」ロゴのピアノのみが、
ドイツ生まれの歴史ある「Perzina」ブランドを継承している。
それ以外では製造されていない。60%以上を日本や欧米をはじめとする海外50か国以上に、
残りは中国内100以上の都市に供給しているとしている。
日本では、1972年設立のピアノ量販店「ピアノ百貨」の7店舗で販売されている。
Music Brokers Internationalは他にも欧州生まれのピアノブランドの製造権を所有しており、
煙台ペルツィーナで、これらの他ブランドのピアノも製造している。
「Gerh. Steinberg」(ドイツで1908年創業)、「Carl Ebel」(ドイツで1877年創業)、
「Eavestaff」(イギリスで1823年創業)、「Rippen」(オランダで1937年創業)などの
ブランドがそれである。
2002年に公開されカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した映画「戦場のピアニスト」の
廃墟の中の演奏シーンで、ドイツ時代のペルツィーナのグランドピアノが使用された。
また、ペルツィーナ(Gebr. Perzina)のアップライトピアノは、アメリカのLarry Fine著
「THE PIANO BOOK (2007-2008)」のピアノランクにおいて、中国製ピアノとして初めて
グループ3のAランクに入った。当時同ランクメーカーの中では、低価格であった。
現在のペレツィーナのアップライトピアノは、現代ピアノの心臓部とも言われる響板に特徴がある。
フローティング響板(floating Soundboard)、逆クラウン響板(reverse-crown soundboard )などと
呼ばれているものである。いずれも、現代の他のピアノにはまず見られない非常に珍しい構造と言える。
一般的なピアノは、響板は響棒と接着された状態でその全周を土台である「バック」に対して接着され、
しっかりした土台を固定端とすることによって、響板振動の無駄な減衰を防止する。
しかし、現在のペレツィーナのフローティング響板は、響板の下辺が支柱等で構成されるバックから
完全に離れており、響板の左右辺は支柱にネジ止めされている。
また、通常のピアノの響板は、弦側に凸状の形状であり弦圧に対して突っぱるようになっている。
これが響板の「クラウン」であり、適切なクラウンこそが、ピアノの力強い音の源泉であると考えられている。
アップライトピアノの寿命とは、響板がひどく割れたり、響板が沈下してクラウンが失われ弦圧が
維持できなくなったときだと言われることがあるほどである。
適切なクラウンの形成とその維持には高度な技術が必要とされている。
逆クラウン響板では、最初から響板が弦圧によって弦側からみて凹状になっている。
これにより、演奏者側により多くの音響が放射され、また(逆)クラウンが長く保たれるとしている。
また、他の中国製ピアノとは異なり、多くの部品をドイツをはじめとする欧州から調達しているとしている。
このことを煙台ペレツィーナは、彼らのピアノに欧州標準品質(ESQ:European Standard Quality) という
独自のマークをつけて表現している。

ペレツィーナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

PETROF

PETROF

PETROF PIANO

PETROF

PETROF ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

ペトロフ PETROF

旧チェコソロバキア国家公団製造
創業1864年 チェコスロバキア製(現在:チェコ共和国)

非常に音色が柔らかでまろやかなピアノで、このピアノを指弾すると一瞬で虜になる人がいるほど。
ペトロフアップライトの最高音のミュージックワイヤー(ピアノ線)は、13番よりさらに細い
12番半を使っているピアノもあります (普通のピアノは13番が一番細い弦です)
温湿度の変化に弱い印象も受けますが、総合的に良いピアノだと思います。
ただ、外装に接着してある装飾のモールディング(装飾の飾り)は本当によく剥がれます^^;
一番下のトレードマークは日本向けではないタイプ(アメリカ購入)のペトロフのアップライトです。

<概要>
ペトロフはアントニーン・ペトロフによって、チェコのボヘミア(チェコ西部・中部を指す歴史的地名)で
生み出されたとても素晴らしいピアノです。社会主義国家出身のピアノなのであまり宣伝はされませんが、
ロシア(旧ソ連)や東欧諸国、西欧諸国では名器として知られています。
このピアノ製作会社は社会主義時代に国有化される以前、三代にわたりペトロフ家が所有し、
業界の技術革新に乗り遅れることなく、博覧会で数々の賞を受賞してきた。政治変動の世紀を乗り
越え、現在もペトロフ社はチェコ共和国でもっとも有名なメーカーの地位を守り続けている。

コンサートグランドは戦前~戦後を通じて各地の博覧会や国際見本市に於いて
金賞を獲得しており、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Michelangeli)
(ミケランジェリは、イタリア出身のピアニスト)や、スヴャトスラフ・リヒテル(ソ連出身のピアニスト)、
ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff)(ドイツ出身のピアノニスト)らもこのペトロフを
愛用していたと記録が残っています。さらにはジャズ音楽のオスカー・ピーターソンや、
デューク・エリントンもペトロフを絶賛したと伝えられています。

<詳細な歴史>
家具職人の修行を積んだアントニーン・ペトロフは、1857年に19歳でウィーンへ出て、
ピアノ製作者のおじ、ヨハン・ハイツマンに弟子入りする。
アントニーン・ペトロフは、オーストリアのさまざまな製作者のもとで働いたのち、
1864年に生まれ故郷のフラデツ・クラーロヴェーに戻って会社を設立した。
初めはウィーン式アクションのピアノを少数製作していた。
旅行を多くしたペトロフは、各地の最新の技術発展を敏感に察知して自らの設計に取り入れ、
1875年には鋳鉄フレームと、イギリス式グランドアクションを改良したレぺティション・アクションを用いた。
1880年に、ペトロフはグランドに加えてアップライトピアノの生産も開始し、亡くなる1915年までに
35,500台のピアノを販売した。
アン卜ニーンの3人の息子と3人の孫たちは、ふたつの大戦と大恐慌を上手く乗リ切って会社を運営した。
会社は1948年に国有化され、産業通商団体チェスコスロヴェンスケー・フデブニー・ナーストロイェ・
ミュージックエクスポートの一部となり、その傘下で繁栄を続けた。
1970年にアップライトピアノの生産を増大するための新工場が建てられ、さらに1989年には、
グランドピアノ市場に集中するためのもうひとつの新工場が建てられた。
そして1990年までに製造番号は450,000に達した。ペトロフ社は近年、年間約12,000台のアップライトと、
年間約1,750台のグランドピアノを生産し、約1,000人の従業員を雇っている。
1997年に設立されたトヴァールナ・ナ・ピアニナ社が、2001年にペトロフ社と結合し、
1991年に始まった会社私有化へのプロセスはクライマックスを迎えた。

■機種/モデル バリエーション (並び順は後述機種ほど高級機です)
・グランドピアノ (カッコ内の数字はペダルの数)
 MODELⅤ(2)、MODELⅣ(3)、MODELⅢ(3)、CHIPPENDALE(2)、ROCOCO(2)
・アップライトピアノ
 CLASSIC、DEMI-CHIPPENDALE(ねこ脚)、125-I、BAROQUE、
 CHIPPENDALE(ねこ脚)、ROCOCO(ねこ脚)

ペトロフ独特の鉄骨フレームの音響効果を高めるために付けられた無数の凹凸 →★
ペトロフ(日本以外向け)のまくり部分のブランド銘柄マーク →★

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

<下記はペトロフ社の扱うピアノブランド(2018年現在)>
ANT.PETROF、PETROF、Ant. Dalibor、Weinbach、Rösler、SCHOLZE、FIBICH、AKORD

<附録>
ペトロフピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1900年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ペトロフ(Petrof)はチェコ共和国、フラデツ・クラーロヴェーを本拠地とするピアノメーカーである。
1857年、アントニン・ペトロフは、ウィーンでピアノ工房を営む叔父ヨハン・ハインツマンの元で
ピアノ作りを学び始め、フリードリッヒ・エルバーやシュヴァイクホーファーといったその他の
著名なピアノ製作者の下で修行した。1864年に故郷のフラデツ・クラーロヴェーに戻り創業し、
父の工房で最初のコンサートグランドピアノを完成させた。
その後、業界で初めて鋳造フレームを採用したり、当時まだ普及していなかったアップライトピアノの
製造をいち早く始めるなど、斬新な技術と高い品質で名声を得た。
1899年にオーストリア王室御用達を取得、1958年にはブリュッセル万博金賞を受賞。
1948年に国有化され経営権は創業家の手を離れたが、1991年に4代目のヤン・ペトロフが経営者として復帰、
2004年より5代目のズザナ・ツェラロヴァー・ペトロフォバー(Zuzana Ceralová Petrofová)が
経営を引き継ぎ現在に至る。
ペトロフは1932年にエレクトロ-アコースティックピアノネオ-ベヒシュタインを生産するライセンスを取得し、
ネオ-ペトロフ(Neo-Petrof)として販売した。
ペトロフ工場は他のブランドも生産している。イジーコフ工場では、Weinbachブランドのピアノが
事前に組み上げられ、最終的に中国で組み立てられる。
この工場では第二次世界大戦までアウグスト・フェルスター社の工場があった(現在の拠点はレーバウ)
国営企業とペトロフ社は2000年までドイツのフェルスター社とは独立にこの工場で
August Försterブランドのピアノを生産した。

ペトロフ公式ホームページ(日本語)→https://jp.petrof.com/

ペトロフのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PFEIFFER

画像クリックでHPへ戻る
PFEIFFER プファイファー/(ファイファー)
ドイツ(バーデン=ヴュルテンベルク州) 1862創業

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
カール・A・プファイファー(Carl A. Pfeiffer)GmbH & Co. KGは、
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州レオンベルクのアップライトピアノおよび
グランドピアノ製造業者である。伝統的な技術を用いたピアノ製作でよく知られている。
1862年にヨーゼフ・アントン・プファイファー(1828年–1881年)によってシュツットガルトで創業された。
彼の父カール・A・プファイファーはグウォグフ(現在のポーランド。ドイツ語名グローガウ)で
既にピアノ製作者として働いていた。後者は2つの響板を持つダブルグランドピアノ(独: Doppelflügel)
を初めて製作した。今日、会社はプファイファー家の5世代目によって経営されている。
ヨーゼフの息子、カール・アントン・プファイファー(1861年–1927年、社名の由来)は
ピアノのための道具をいくつか開発した(ワイヤーを正確に曲げるためのいわゆるKröpfzange〔ペンチの一種〕等)
息子のヴァルター・プファイファーもピアノ、特にアクションを科学的に扱った。
このテーマに関する彼の著作はピアノ製作において標準となる文献として一般的に認められている。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)の西への編入後、ライプツィヒを拠点とするピアノ工場であった
ルートヴィヒ・フップフェルトAGおよびレーニッシュを買収した。
プファイファー自身は1994年からレオンベルクを拠点としており、高品質のピアノ製造を続ける
数少ない会社の一つである。2005年時点での年間生産台数はグランドピアノが約10台、
アップライトピアノが約100台である。
レーニッシュおよびフップフェルトブランドのピアノの製造は2009年に破産するまで続けられた。
その後、レーニッシュの名称はブリュートナーが購入した。
公式HP:https://www.pfeiffer-pianos.com/en/home
PHOENIX
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PHÖENIX (PHOENIX) フェニックス 日本 詳細不明
PIANY
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ピアニー 全音楽器製造KK(浜松) 詳細不明

PIANY(ピアニー)の登録商標(昭和46年2月登録)は現在、株式会社全音楽譜出版社にあり、
今ではピアノのブランドではなく鍵盤ハーモニカ、「ゼンオンピアニー」という商品名で使われているようです。
PIERRE



画像クリックでHPへ戻る
PIERRE ピエルレ  東洋ピアノ
“ピエルレ”は、フランス語で宝石を意味する言葉とのこと。

ピエルレのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PLEYEL




画像クリックでHPへ戻る
PLEYEL プレイエル フランス/パリ
工場:フランス南部アレス 創業1807年

1807年、50歳のイニャス・プレイエル/イニャス・プライエル/イグナーツ・プライエル/
イグナース・プレイエル/イグナーツ・プレイエル/(Ignace Pleyel)はピアノ会社を設立。
(→発音によって色々な読み方があり)
イニャス・プレイエルは、ハイドンの弟子であり友人でした。
プレイエルは1807年に最初のピアノをパリで製作する以前に、41曲の交響曲と、70曲の四重奏曲、
数曲の五重奏曲、そしてオペラを作曲しており、演奏家としても作曲家としても高く評価されていました。

このメーカーはのちに世界の重要な音楽遺産となりました。プレイエルの繊細な響きのピアノは、
極めて微妙なニュアンスを表現できたために人気を博し、「音楽があふれ出すのを感じ、自分自身の音を
鳴らす元気があるときなら、私はプレイエルのピアノを必要とする」と語ったのは、あのF・ショパンでした。

プレイエルの名は、200年近くもの間、ピアノ音楽の歴史と神髄を支えてきました。
類希な才能をもったイグナースは、優秀な作曲家、また発明家として多才ぶりを遺憾なく発揮し、
ヨーロッパから注目を浴びる人物でした。
「ピアノとは、演奏者の声としての楽器であり、そして芸術品であるべき」と主張したイグナースは、
厳選された素材、卓越した技術、豊かな感性が織りなす表現の可能性を信じ、楽器創りにその生涯を捧げました。
彼の思想は、熟練した職人によって堅く守られ、今なお南仏Alesの地で、その音色を響かせ続けています。
プレイエルは、洗練された響き、優雅なタッチ、多彩な表現を放つ名器の代名詞といえましょう。

<歴史>
有名な演奏家で、交響曲やオペラの作曲家でもあったイニャス・プレイエル(1757~1831)は、
楽器の製作に魅せられ、新しい作曲家たちのニーズに応えるピアノを作りたいという欲求に突き動かされ、
パリに会社を設立した。
1807年にプレイエルが最初に製作したピアノは、垂直に弦が張られた小型のアップライトで、
ロンドンでよく見られたコテージ・ピアノをもとに製作したものでした。
プレイエル自身は、ピアノ製作に関する専門家ではなかったが、幸いなことにピアノ事業を開始した初期に
アンリ・パープの助力を得ることが出来た。その時期は1811年からの5年間でパープがイギリスに渡って
ピアノ製造の技術を学ぶことができたのも、プレイエルの資金援助があったからである。
その後、パープは独立してピアノ製作を開始し、プレイエルピアノのライバルとなったが、プレイエルの側も
巧みな方法をとった。当時のヨーロッパに名高かった名ピアニストたちを見方につけたのである。
カルクブレンナーは自ら経営に参加したし、クラーマーやモシュレス、ジョン・フィールドといった
名ピアニスト達は、プレイエルのピアノを賞賛した。その中でも最も力があったのは言うまでもなく
フレデリック・ショパンだった。
19世紀のフランスにおいて、プレイエルはエラールと相競った。セバスチャン・エラールが自らピアノを作る
職人だったのに対して、イグナーツ・プレイエルは経営者であった。しかもこの2人は同じ年に没した。
ちなみに会社を引き継いだエラールとプレイエルの息子たちもなんと同年に没している。
その後、会社が著しく成長すると、イニャスは長男のカミーユを経営者に加えた。
1815年に会社を引き継いだピアニストとしての教育を受けたカミーユは、イギリスとフランスのピアノ製作者や
演奏家たちに接触して意見を求めたり、アイディアを交換したりでき、会社の重要な役割を担うようになった。
生産高は増大していったが、それは一部のプレイエル・ユーザーにとっては残念なことだったようで、
1839年にリストは、ロッシーニが語ったことを手紙の中でこう引用している。
「プレイエルはピアノを多く作りすぎている。彼にはもう、それらの面倒を見る暇がない」と。
1855年、会社はカミーユの義理の息子、オーギュスト・ヴォルフに引き継がれ、
ピアノはプレイエル、ヴォルフ・エ・コンパニー(Pleyel, Wolff & Cie)のブランド名で作られるようになった。
1865年までにプレイエル社は約36,000台のピアノを生産したが、これは27年も早く創業していた
エラール社の当時の生産高とほぼ同じだった。
1887年に会社はヴォルフの義理の息子のギュスターヴ・リヨンに受け継がれ、
プレイエル、リヨン・エ・コンパニーのブランド名で、ハープ、ティンパニー、チェンバロなど、
ピアノ以外の楽器の生産も行われるようになった。
一方、ピアノの生産も続けられ、プレイエラと称する自動演奏ピアノや、ひとつのケースに向かい合った
ふたつの鍵盤が付いているダブル・グランドピアノも作られた。1910年には年間約3,000台の
ピアノを生産するようになり、ピークを迎えたプレイエル社は、フランスの上質なピアノの市場を支配した。
1934年、プレイエル社はアントワーヌ・ボール社を買収する。しかし1961年には財政難に直面し、
エラールとガヴォー合併会社と合併した。この会社は1971年にシンメル社に買収され、
プレイエル・ピアノは毎年少数のみ生産された。それから1994年にラモー社がプレイエル(PLEYEL)と、
ガヴォー(GAVEAU)のブランド名を買い取り、その2年後に、プレイエルはふたたび経営権を取り戻す。
プレイエル社は、南フランスのアレスに最新式の生産および研究開発施設を建設して、
その後も、プレイエルの伝統を忠実に守る素晴らしいピアノを生産した。

<プレイエルのエピソード>
プレイエル社は、デュオクラーヴ(Duoclave)と称するグランドピアノを少数製作しました。
これは、J.ピアゾンが1850年にニューヨークで特許を取得したアイディアをもとにしたもので、
二つの交差弦がひとつの響板を共有し、長方形のケースに収められた楽器である。
プレイエルは気前のよい音楽界のパトロンで、才能ある音楽家を発掘する才に長けた彼は、
1832年にパリのフォブール・サントノーレ通りのサル・プレイエルで催された演奏会において、
あのフレデリック・ショパンをデビューさせました。フランス音楽文化の歴史に名を残したこの二人は
生涯友人であり続け、ショパンはプレイエルのピアノを弾き続けました。素敵な話ですね♪

2008年にアップライト、2013年にグランドの製造を停止しました。
Gaveau(ガヴォー)、Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造

エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<附録>
プレイエルピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1810年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
プレイエル(Pleyel et Cie)は、フランスのピアノ製作会社である。
ピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」は、イグナツ・プレイエルと
その息子カミーユ(1788年 - 1855年、ピアノの名手で1815年に父の仕事の共同経営者になった)
によって設立された。この会社はショパンに使用されたピアノを生産し、
また、ショパンがパリで最初に演奏会を(そして最後の演奏会も)行ったコンサートホール
「サル・プレイエル(Salle Pleyel)」も経営した。
19世紀末ころ、プレイエル社は最初の半音階ハープを製作した。
20世紀初頭には、ワンダ・ランドフスカの要請で、ハープシコードの復活に手助けをした。
イグナツ・プレイエルによって1807年にPLEYELを冠した最初のピアノが製造される。
1813年にイグナツは、正式にカミーユにその経営権を譲り、1829年にイグナツの健康状態の悪化を機に
プレイエル親子は財産の整理を始め、長年の友人であるカルクブレンナーが、プレイエルピアノの製造、
販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立する。
1855年にカミーユよりオーギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれ、ヴォルフは、工場をパリから
サンドニに移動させる。55000m2の広大な工場では、1866年の最盛期には年間3000台のピアノを生産した。
1887年のヴォルフの死を受け、義理の息子であるギュスターブ・リヨンが経営を引き継ぐ。
優れた音楽家でもあり、鉱山技師でもあったリヨンは、製造の近代化に成功する。
1866年には、プレイエルの経営は、パリのロシュシュアールのショールームの他に、パリ市内に2軒、
ブリュッセル、ロンドン、シドニーにそれぞれ1軒ずつ支店を持つまでに成長した。
1927年にパリにサル・プレイエルが建設される。
1930年、リヨンが経営より退く。時を同じくして、1929年のアメリカの株の大暴落を受けたプレイエルの
ピアノ部門が1933年財産管理下に陥る。翌年プレイエル破綻。
サル・プレイエルは、クレディリヨネ銀行に買収され、1998年までその管理下におかれる。
1961年、経済的苦境の中、前年に合併したばかりのガヴォー・エラールと合併し、
ガヴォー・エラール・プレイエルとなる。
この時点で、多くのピアニストの証言からプレイエルの音は消えたといわれている。
1971年に、ドイツのシンメル(Schimmel piano company)により買収され、工場をドイツの
ブラウンシュヴァイクへと移転する。このシンメルによる経営はその後25年に亘る。
この買収劇によって、プレイエルブランドのピアノはドイツ資本となったものの、
技術者たちが出資者たちの援助のもと、北フランスに工場を開き、ラモー(Rameau)の名で
フランスピアノを作り続ける。
サル・プレイエルの所有者であるクレディリヨネ銀行が、1995年に経済的なスキャンダルに見舞われ、
その財産が国の管理下におかれ、競売に掛けられる。翌年、フランス人ビジネスマンの
ユーベル・マルティニがサル・プレイエルを購入し、南仏アレスに移転していたプレイエルの
工場の再生にも着手し、名称もフランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)に変更する。
翌1998年、サル・プレイエルの実質的な売却が行われ、70年間の分裂を経て、再びプレイエルが一つになる。
サル・プレイエルは2006年9月に再開されオーケストラの公演など多くのコンサートを開いている。
2002年マルティニの要請を受け、アルノー・マリオンがサル・プレイエルと
フランス・ピアノ製造会社の経営に関る。
2006年現在、フランス・ピアノ製造会社は、アラン・ラフォンにより運営されている。
2007年業績不振により、南フランスのアレス工場から撤退し、パリ郊外にアトリエ工房として
再出発を果たす。体制としては受注生産であり、2008年度の生産台数は20台、2009年度は16台と、
零細企業としての経営を余儀なくされていた。
2013年にはついに生産中止を発表。ただし、在庫については当面販売が続けられる。
2014年9月、パリ・ドメニル通りのヴィアデュック・デザールに本社を移転した。
現在は同社ピアノの修復が中心で、グランドピアノのみ特注で製造している。
2016年には中国に販売会社がオープンしている。

プレイエルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PLEYGEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PLEYGEL プレイゲル 森技術研究所(浜松市) 詳細不明

プレイゲルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

PLUTHNER

PLUTHNER

PLUTHNER ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

プルツナー/(プルッツナー)

カールザイラーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたブランドで、
昭和20年から浜松の岡本工業所で作られてきました。
昭和29年に有限会社太洋楽器、昭和37年6月に株式会社に改組、
社名を(株)プルツナーピアノと変更。

音色はデフォルトではかなり固めな感じですね。
プルツナーピアノのまくり部分(蓋部分)のブランド銘柄 →★
機種:P-3等

<附録>
プルツナーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1970年~1988年) →★

プルツナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
POOLE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
POOLE PIANO COMPANY プーレ アメリカ

当ページの "I" の項目でも紹介した、IVERS & POND(イバース・アンド・ボンド社)の
子会社で、1893年にウィリアム・エイチ・プーレによって設立されたもの。
斬新なピアノを作っているとの情報があるが詳細は不明。

PRAMBERGER

PREMBERGER ピアノ

PREMBERGER



画像クリックでHPへ戻る

PRAMBERGER プレンバーガー

島村楽器が販売しているピアノブランド。
※読み方は「プレンバーガー」です。 ×プラムバーガー、×プランバーガーではありません。
製造:ユンチャン(Young Chang) 韓国製 →詳しくはYoung Chang(ユンチャン)の項目へ

細部にまでこだわったデザイン性や作りはなかなか良く音量も十分鳴るピアノです。
ただ、主観ではありますが音色にもっと繊細さがあると良いピアノになるかと。
三代目、ジョセフ・プレンバーガーという NYスタインウエイで設計・技術マネージャーをしていた人が設計し、
韓国のユンチャン(YOUNG CHANG)に製作してもらっているピアノとのこと。

<機種バリエーション>
アップライトピアノ:PV-118、PV-115、PV110、PV118、JP-52、JP-121、JP-125等
グランドピアノ:JP-185等 (グランドはほとんど輸入されていないとのこと)
1枚目と2枚目の写真は、プレンバーガーJP-52で、3枚目と4枚目の写真はグランドのJP-185です。
グランドの方の画像は、「Atelier Sonorite」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
UP機種バリエーションとしては、スタンダードモデル・インテリアモデル・ハイクラスモデルがある。

プレンバーガーの保証書 →★  プレンバーガーのまくり(蓋部分)銘柄マーク →★
プレンバーガーの親板内側に貼られたハングルで書かれた検査シール →★
プレンバーガーピアノ(グランド)の外観写真 →★

<島村楽器のHPに記載の紹介文から抜粋>
プレンバーガーピアノは、世界中の厳選された素材を使用して製作されています。
その歴史はさかのぼること約200年。
プレンバーガー家は、1800年代から活躍するピアノマイスターの家系でした。
1987年、ジョセフ・プレンバーガーが「PRAMBERGER」を立ち上げます。
ジョセフは、ニューヨーク・スタインウェイ社において設計・デザインを担当。
「最高のパフォーマンスは優れた設計のもとに成立する」という彼の思想に基づき、
優れた設計・デザインを有しています。
彼が長いキャリアの中で積み重ねた知識と、ピアノマイスターとしての伝統の継承、
そして技術革新がもたらしたこの高品質なピアノは、今や米国を中心に世界中で愛用されています。
芸術的な逸品に、きっとご満足頂けると思います。

プレンバーガーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PREMBERGER PREMBERGER× 正しくは、PRAMBERGERです ※すぐ上の項目

PRIMATONE

PRIMATONE

PRIMATONE ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

プリマトン (プリマトーン) ※正式な読み方としてはプリマトンの方が正しい可能性があります

合資会社大塚ピアノ商会(発売元)横浜元町
シュベスターピアノ製造KK(東京都蒲田)、協信社ピアノ製作所(製造)(東京都蒲田)

大正10年、沢山清次郎氏と大塚錠吉氏が共同でピアノ店を出したのが始まり。
その後大塚氏のみで大塚ピアノ商会を作り、横浜元町の名店の一つになりました。
国産ピアノの最高級品を目指していくつかのピアノ工場にオーダーしました。

シュベスターピアノの工場で製作した時期が長く、レンナーアクションを使用した
高級品が多いのが特徴です。
一番下のトレードマークはPRIMATONEのグランドです
画像は、H.Y.様からご提供頂きました。ありがとうございます!

プリマトンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PRINCETONE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PRINCETONE プリンストン

製造:富士楽器製造(浜松)、発売元:東京ピアノ商会(外国ピアノ輸入商会)東京銀座
外国ピアノ輸入商会、後の銀座の東京ピアノ商会のブランド。富士楽器に製作を依頼していた。
皇太子殿下の誕生を祝って特に命名されたという。三越本店に納入されていた。

プリンストンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PRINCIPAL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PRINCIPAL プリンシパル

ピオバ楽器社(製造)東京都神保町
東京神保町のピオバ楽器社は、ピアノ調律師の野口喜象氏の出店であるが、
この名前でピアノを製造販売したことがある。
野口喜象氏が没した後は野口ふみ未亡人が社長になった。

プリンシパルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PROTHNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PROTHNER プロッスナー 日本 詳細不明
PRUNIER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PRUNIER プルニエ(プロニェール?プルニール?)

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸、広田ピアノ(ヒロタピアノ)
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
その他のピアノあり。

プルニエのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
PRUSSNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
PRUSSNER プロスナー ドイツ 詳細不明

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

Q★PIANO

このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
キューピアノ 音気楽工房
製造:東洋ピアノ製造?
QUANDT, J. C
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
読み方不明 QUANDT,J.C ドイツ 詳細不明
QUEENBEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
QUEENBEL クイーンベル

共同工作所(横須賀市追浜)
森健氏が参加して横須賀で作ったピアノ。
横須賀市追浜の海軍工廠のあとでピアノを作る話となり、
森健氏や榊原清作氏が呼ばれて生産を開始したが長くは続かなかった。

クイーンベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

R.S.HOWARD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
R.S.HOWARD CO アメリカ(ニューヨーク) 詳細不明
RACHALS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RACHALS ラハール ドイツ 詳細不明
RAMEAU


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RAMEAU ラモー

フランス(プロバンス地方)1973年~2000年頃まで
小型ピアノが、プロバンス地方で作られるようになった。グランドも少し作られたとのこと。

Gaveau(ガヴォー)、Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造

ラモーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RAPHAEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RAPHAEL ラファエル

発売元:島村楽器
HPより抜粋:中古クラスの価格でお求めいただける質の高い新品ピアノを提供したい、
その思いを込めて開発したピアノです。
響板に高級材アラスカ産シトカスプルースを採用、オールウッドのアクションを採用。

ラファエルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RAVENSCROFT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RAVENSCROFT 
製造:アメリカ アリゾナ州
読み:レーベンスクロフト/レイブンスクロフト/レイヴェンスクロフト/レイベンスクロフト
(発音の仕方で表記に多少の違いあり)

フルコンサートグランドである「Model275」の価格はなんと3000万円とのこと。
実際に音色を聞いた事がないので本当に良い音なのか不明ですが、DTM音源としても使われているようです。

※とあるホームページでの紹介では、低音域がファツィオリの音色に近く、中音域ががスタインウェイで、
そして高音域がヤマハのC7に近いとの紹介あり。そのため全く新しいピアノに仕上がっているとのこと。
早く実際にこの耳で聞いてみたいです^^

実機のホームページ(英語)→★
RAZAR →LAZAR ラザール の項参照
REAS. HERMAN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
REAS. HERMAN リーズヘルマン スタインリッヒピアノ製作所(浜松)
ドイツに”リーズハルマン”RIESE HALLMANN”というピアノあり

リーズヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
REID-SOHN

画像クリックでHPへ戻る
REID SOHN レイドソン 韓国

韓国のサミック社がインドネシアで製造するピアノ
その他詳細不明
REINHOLD
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
REINHOLD ラインホルド 日本 詳細不明
REINVOLT
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
REINVOLT レインボルト 鈴木ピアノ製作所(磐田市) 詳細不明
REKEWITZ
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
読み方不明 REKEWITZ ドイツ 詳細不明 
RENN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RENN レン イギリス 詳細不明
RENNER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RENNER レンナー

喜多楽器店(発売元)、マイシュナーピアノ製作所(製造)
関西のピアノメーカーであるマイシュナーピアノ製作所が
喜多楽器店の依頼でレンナーハンマーを使用したものにつけられたブランド。 

レンナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RICHTONE


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RICHTONE リッチトーン

東和ピアノ(発売元)東京青山、松本ピアノ(製造)千葉、中島ピアノ
東京青山のピアノ店の東和ピアノが自社銘柄として特に吟味したピアノ。
松本ピアノ(千葉)製が多い。
東和ピアノの創設者中島順二郎氏は沢山清次郎氏の東京ピアノ商会の門下生で、
既に亡くなったが、未亡人により運営されていた。
ヤマハ、シュベスター、マツモトを取り扱い、リッチトーンは沢山氏の免許ブランド。 

リッチトーンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

RIEGER KLOSS

RIEGER KLOSS

RIEGER KLOSS ピアノ

画像クリックでHPへ戻る

リガークロス/リーガークロス

RIEGER KLOSS チェコスロバキア製 (イフラヴァ:都市名)1871~
販売元:東洋ピアノ販売

年間約3000台を生産、ヨーロッパの主なピアノメーカーに位置しています。
そのうちの97%を輸出が占め、日本をはじめ、カナダ・アメリカ等へ送り出されています。

アップライトピアノは9モデル、グランドは158cm~272cmまで4モデルを揃えていますが、
日本でのニーズを考えUP・GPいずれも小型の機種に絞って輸入されています。
しっかり作りこまれたピアノという印象です。
ちなみに、シュレーゲル(SCHLÖGL)というピアノも同じトレードマークです。

RIEGER KLOSS の純正キーカバー(国内メーカーにはないデザインですね) →★

リガークロスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RIESE HALLMANN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RIESE HALLMANN リーズハルマン ドイツ 詳細不明
※日本のスタインリッヒ製作所製に”リーズヘルマン”というピアノあり
RINBEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RINBEL リンベル 日本 詳細不明
RINDEN ? スペル不明 RINDEN? リンデン 中国(北京) 詳細不明
RINDNER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リンドナー 詳しいスペル不明→RINDNER? アイルランド
フィリピンで組み立てられていたらしい 詳細不明
RIPPEN



画像クリックでHPへ戻る
リッペン RIPPEN オランダ 創業1937年

創業から3年ほど経った1940年の製造台数は年間わずか50台であったが、
1950年には10倍の500台、1960年にはそのまた10倍の5000台の
製造台数になり、戦後目まぐるしい生産数増加を果たしたのは我が国のヤマハ、カワイなどの
我が国のピアノメーカーと、このリッペンぐらいであろうと思います。

リッペンは従来の殻を破った特殊なもので、その特徴としては次に挙げる点がある。

1、重量が驚くほど軽い(※当時としては)
アップライトピアノの場合、2人で簡単に持ち運べる程度の重さといいます。
従来のピアノは重いものと相場が決まっていたが、このリッペンピアノの場合、
6フィートのグランドでも500ポンド(230Kg弱)でした。
その理由は主としてフレームが特殊なスチールで作られていることによります。
また、アップライトピアノには運搬の際に便利なように、鍵盤が折り畳めるよう
工夫されたものもあり、これは廊下などの狭い場所を通り抜けて運ぶ場合に好都合です。

2、プラスチック製のアクションを採用している(これが本当に良いかは未知数)
これは当時としては革命的なことで、耐湿性のプラスチックの採用によって
湿度の高い地方でもアクションがスティックすることがなく、またどんなに乾燥しても
ガタがくることがないと言われ、当時のリッペンの広告にはアクションを水に浸し、
その横で金魚が泳いでいるという広告写真がある。

3、特殊スチールのフレームを使っている
ピアノが重いのはフレーム(鉄骨)に鋳造鉄を使用するからで、これをリッペンでは
特殊スチール、しかも中空のパイプ式を使用しているからであります。
これはまったく斬新な考え方で、軽量にあるにも関わらず3万5千ポンド(15.8t)
にもなる弦の張力にも十分耐えるといいます。

この他、リッペンには弦が緩む危険性が少ないチューニングピン、アルミニウムのレール、
特殊な構造で絶対にひび割れしない(?)というスプルースの響板、プラスチックと
アルミニウムのキー、また、キーのバランスを取る鉛の代わりのスプリングなどの
考案が加えられています。これらの画期的な構造は1961年から採用されているようです。

音色は小型ながら極めて優れているといい、高音の抜けも良く、また低音のボリュームも
十分であるが、徹底的な構造の合理化設計により、しゃがんでピアノを見ると、
下前板(下パネ)上部の大きな隙間から弦が見えたり、底板がないため鍵盤の隙間から
ペダルが見えたりと、あまり体裁の良いものではない。
価格はヨーロッパのピアノとしては最も廉価で、アメリカをはじめ世界各国へ輸出されている。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
リッペン(Rippen)は、オランダ生まれのピアノブランド (1937-2007) である。
リッペン(あるいは、リンドナー)は、運搬が容易なピアノとして、最もよく知られている。
1991年に一旦破綻した後、ブランドは新たなオーナーに買収され、中国煙台市で2007年まで製造された。
リッペンはオランダで生まれたピアノメーカーである。
1937年に設立され、1950年までハーグでピアノを
1950年頃、リッペンはアルミニウムとプラスチックを多用した「マエストロ」という名の
軽量で廉価なピアノを開発し、第二次世界大戦後の人々の経済状況と相まって、大きな成功を得た。
80%が英国、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国に輸出された。
さらに、1964年ごろアイルランドのシャノンにも工場を設立し、
「リンドナー」ブランドの軽量で廉価なピアノを製造した。
軽量という特徴を生かし、航空機での輸送が活用された。
1970年代に入って、ピアノの市場は大きく変化した。
電子ピアノの登場によって、廉価ピアノの需要は減少し、1972年にシャノンの工場は閉鎖された。
いくつかの買収や再生の試みがなされたが、1991年2月にリッペンは解体された。
その後、オランダの楽器商、ミュージック・ブローカーズ・インターナショナル
(Music Brokers International)がリッペンブランドのピアノの製造権を取得した。
1991年から1998年まで、ロシアのサンクトペテルブルクで製造された。
部品のいくつかは、中国の煙台市から供給された。
1998年から2003年までは、煙台市のYantai Longfeng Pianoで製造された。
2004年から2007年まで、煙台市のペレツィーナ
(Yantai Perzina Piano Manufacturing.Co.,Ltd.)で製造された。
この工場では、同じオーナーのペレツィーナブランドのピアノが今日も製造されている。
また、オーナー会社のホームページには、リッペンピアノのラインナップが、
この会社が製造権をもつ他のブランド(EAVESTAFF, Gehr.Steinbergなど)とともに現在も掲載されている。
ここではエーデとシャノンで製造されたピアノの特徴について述べる。
アルミニウムとプラスチックを多用した「マエストロ」は、交差配弦ではなく、
平行配弦の構成をとっていた。このため、ハープ形状のようなデザインとすることも可能であった。
あるピアノの重量は、僅か34Kg(75ポンド)であった。
これは、通常鋳鉄を使用するフレームにアルミ材を用い、ケースなど木製の部品を可能な限り
プラスチックで置き換えた成果である。シャノンで製造されたリンドナーは、交差配弦であったが、
フレームはアルミニウムの管材を溶接した構成で、鍵盤にもプラスチックを使った設計となっていた。
ピン板はブッシング付きフレームタイプではなく、むき出しであった。
また、アップライトピアノは鍵盤部分を、グランドピアノはケース全体を折りたたみ可能という
特徴をもっていた。これにより、同じスペース中により多くのピアノを並べて輸送することができた。
軽量で折りたたみ可能という特徴は、ピアノの運搬の問題を解決する、一つの革新とも言えた。
特に航空機による輸送に適していた。
アルミニウムフレームの技術を生かして、薄型のアルミニウムグランドピアノなど、
デザイン性の高いピアノも製造した。
しかし、これらの軽量廉価ピアノは、長期耐久性に難点があった。
特に空洞三面構造の鍵盤はスナップインタイプとなっており、ロックを解除せずに取り外そうとすると
破損することがままあった。製造元が消滅した今、プラスチック製の特殊なスペアパーツは入手不可能であり、
一般的なパーツでの代替はできない。一旦破損すると修理は困難となる。
このため、中古品市場で見かけるリッペンまたはリンドナーの軽量ピアノは、
その時点で正常に動作していても決して手をだしてはならないピアノとされている。
他の珍しい特徴としては、逆クラウン響板がある。
3層合板製の響板と響棒はそれ自体平らな形状であり、弦圧がかかることによって、
逆クラウン形状になった。クラウン形状をもつ響板には、各ピアノメーカー独自の設計と
ノウハウが注ぎ込まれており、製造には手間もかかる。
平板合板の響板は、ピアノの低コスト化に大いに貢献したと考えられている。

リッペンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RIPPEN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リッペン アイルランド?オランダ? 詳細不明
RITMULLER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
リットミューラー RITMÜLLER
ドイツ、ゲッティンゲン(Göttingen)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
W. リットミュラー&ゾーン(W. Ritmüller & Sohn)AGは、
ドイツ・ゲッティンゲンに起源を持つかつて存在したピアノ製造業者である。
18世紀末、アンドレアス・ゲオルク・リットミュラー(Andreas Georg Ritmüller)と
息子のゴットリーブ・ヴィルヘルム・リットミュラー(Gottlieb Wilhelm Ritmüller、1770/1772-1828/1829)は
ゲッティンゲンでリュート、ギター、ハープの製作を始めた。
ゴットリーブ・ヴィルヘルム・リットミュラーは1794年11月17日に市民権を取得し、
1795年8月5日に市民宣誓を行った[3]。後者がスピネット、クラヴィコード、リュート、ギター、
ハープの工房を構えた日付と見なされている。
1800年頃に父が死去した後、工房は正式に「G. W. Ritmüller」と名付けられた。
ゴットリーブ・ヴィルヘルム・リットミュラーの2人の息子ヨハン・ヴィルヘルム(1802年生)と
ヨハン・マルティン(1803年生)が会社に加わった。
ゴットリーブ・ヴィルヘルム・リットミュラーは1829年に死去し、
会社は「W. Ritmüller & Sohn」に改名された。
会社は1890年に破産し、売却された。
所有者や共同経営者を変えながら、ピアノ生産はゲッティンゲンと後にはベルリンで続けられた。
会社は1901年に有限会社(GmbH)に、1920年に株式会社(AG)に移行した。
財政問題によって生産施設はGebr. ニーンドルフ・ピアノフォルテファブリックAGに貸された。
1933年、W. Ritmüller & Sohn社は清算された。

1990年から、中国のパールリバー・ピアノ・グループがドイツと世界中で「Ritmüller」の商標を登録し、
1997年以降「Ritmüller」ブランドのピアノを製造・販売している。
現在流通しているリットミュラーのほとんどは中国製造のパールリバー社製です。

リットミューラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RIVIER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RIVIER リビエール

森技術研究所(浜松)、河合楽器(京橋カワイ)
河合楽器(京橋カワイ)が東京の百貨店に売り場を持つとき当ブランドを売り出していた。

リビエールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ROADRICH


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ロードリッヒ ROADRICH (ROUDLISH?)
浜名楽器製造株式会社(浜松)、ロードリッヒピアノ製作所(浜松) 詳細不明

ロードリッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
RODESTEIN
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
RODESTEIN (S.RODESTEIN) ローデスタイン (S・ローデスタイン)
松本ピアノ 詳細不明

ローデスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ROGERS

画像クリックでHPへ戻る
ロジャース フクヤマピアノ製造? 詳細不明

トレードマーク画像はなし(確認済み)
ROGERS
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ロジャース LONDON(ロンドン) 詳細不明

ROLEX

ROLEX ピアノ

ROLEX RX-

ROLEX KR

ROLEX 嵯峨野

画像クリックでHPへ戻る

ローレックス(ロレックス)ピアノ ROLEX

大成ピアノ製造(株)(製造)、東日本ピアノ製造(株)、
のちに、浜松ピアノ製造株式会社(浜松市和田町552番の3)(※実体なし)
発売元:協立楽器(株)=全日本ピアノ卸センター株式会社(神戸市中央区元町通4丁目)

大成ピアノ製造(株)において製造されていた協立楽器のブランドでした。
お客様から、時計メーカーのロレックスと同じですか?とよく聞かれましたが、
まったく関係ありません(笑)

■機種バリエーション
KR22、KR27、KR30、KR31、KR33、
RX230、RX300、RX380、RX500、RX600、嵯峨野、孔雀、飛鳥、王朝など
孔雀、飛鳥、王朝はとりわけ高く、当時標準小売価格は孔雀 1,094,000円、
飛鳥と王朝の標準小売価格が1,267,000円でした。(付属品含む)

協立楽器株式会社(神戸市)がブランド販売を始めた頃は頭文字のKをとってK