ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング

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メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他
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C. BECHSTEIN |
BECHSTEIN(→ベヒシュタインの項を参照) |
C. HARMAN
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シー・ハーマン (シー・ヘルマンという発音表記する資料もあり)
井ヅツ楽器(株)大阪
U-110W、U-110M、U-5C、U-7C の四機種があった。
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C. THWAITES
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シー・スウェイツ (シー・ツワイスという発音表記する資料もあり)
スウェイツ商会 |
CABLE


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ケーブル CABLE PIANO CO. エオリアン・アメリカン・コーポレーションの子会社
工場:オレゴン州 販売店:シカゴ
詳しくはAEOLIAN(エオリアン)の項を参照
ケーブルピアノの美しい木目調の外観 →★ ケーブルのまくり(フタ)部分の銘柄マーク →★
ケーブルピアノに貼られた各シール類 →★ →★ |
CABLE-NELSON

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CABLE-NELSON PIANO CO. ケーブル・ネルソン
1903年シカゴで創業。その後ミシガン州に移り、
1926年にボストンのエベレットピアノ(EVERET PIANO)と合併。
ケーブル・ネルソンのブランドによるピアノは、創業以来合計40万台作られたといい
エベレットピアノの廉価版として広く販売された。
尚、この会社ではKINGSBURY(キングスブリー)、WELLINGTON(ウエリントン)、
SCHILLER(シーラー)というブランドも作っていました。
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CALACE
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カラチ 佐藤商会(名古屋)が戦前に取り扱ったもの。
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CALISIA |
カリシア(ガルシア?) ポーランド Since 1878 その他詳細不明 |
CALISIA |
シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明 |
CANARIA |
カナリア 豊楽器製造株式会社(ユタカ楽器)
卓上ピアノを製造 |
CAPMAN
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キャップマン イタリア 詳細不明
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CARL & SONS |
カール・アンド・サンズ 東洋ピアノ製造株式会社
機種バリエーション:CS130等 |
CARL HARDT
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カール・ハルト
販売:福山ピアノ社(東京) |
CARL HERT

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カール・ヘルト/カールヘルト
大成ピアノ製造株式会社
東洋ピアノ製造株式会社 |
CARL SEILER


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カール・ザイラー/カールザイラー
製造:株式会社 プルツナーピアノ(浜松)
発売元:三協ピアノ株式会社(浜松)
プルツナーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたピアノ。
発売は三協ピアノ株式会社。
フレームのメーカーロゴは持ち合わせておりませんが、調律師の心をくすぐるトレードマーク。
音叉の後ろにチューニングハンマー2本を交差させたデザインです。
回りの星形はチューニングハンマーのチップ(差し込み部分)をイメージしています。
カールザイラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
CARL STEINBERG
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宜昌金宝楽器製造(中国湖北省宜昌市)/Yichang Jinbao Musical Instrument Manufacturing Company
シンガポールに販売店があるようですが詳細不明 |
CARL STEINMANN
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カール・スタインマン ドイツ(ドレスデン) 詳細不明 |
CARLBEKE
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カールベッケ ドイツ 詳細不明
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CARL MAND
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<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
カール・マント(Carl Mand、1811年10月27日 - 1892年8月28日)は、
ドイツのピアノ製作者であった。
カール・マントの経歴に関する情報はわずかである。
彼の父はコブレンツ近郊のホルヒハイムの指物師・ワイン醸造家であった。
彼の邸宅の近くにベルリンの銀行家メンデルスゾーンの別荘があり、
時折フェリックス・メンデルスゾーンが訪れていた。
メンデルスゾーン家は最初にカール・マントの兄弟ニコラウス(Nikoraus)に
ウィーンで音楽とピアノ製作の知識を深めるよう働き掛けた。
しかしながら、ニコラウスが病気になると、カールがウィーンへの旅を始めた。
カールは1827年か1835年までウィーンでピアノ製作者として働いた。
帰郷後、カールはコブレンツで自身のピアノ製造会社を設立し、
この会社はその後数十年もの間大きな成功を収めた荒るそのため、
マントは宮廷御用達称号を得て、彼の会社を自信を込めて「19年間最高賞のみ
(国際博覧会での11の賞を含む)を受賞している世界唯一の工場」と呼んだ。
1909年、マントの会社はコブレンツを拠点とするピアノ製作者ハインリッヒ・クラウス
(Heinrich Knauß)によって買収され、同年にRheinische Pianofortefabrik AG
(ライン・ピアノ工場株式会社)となった。
会社は1911年にKapplerによって買収され、1928年に生産が終わった。
カール・マントの現存する楽器の大半は個人によって所有されている。
コレクションはエーレンブライトシュタイン城塞にあるコブレンツ州立博物館で維持されている。
1900年頃に建築家・デザイナーのヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された
独特なデザインのグランドピアノは、ベルリン楽器博物館に展示されている。
この八角形のマント=オルブリッヒ・グランドピアノには他のモデルも存在し、
入り組んだ装飾を持つ黒色モデルはダルムシュタットのMathildenhöheにある。
カール・マントが特許を取得したベル・グランドピアノ(Glockenflügel)および
Eckflügelはとりわけ特殊である。
これらの特に小型のグランドピアノは場所を節約するために部屋の角に置くことができる。 |
CARLZEILER
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カールザイラー 大洋楽器(浜松) 詳細不明(プルツナーピアノのカールザイラーとは違うのか??)
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CAROD
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キャロッド 中国(湖南省長沙市) 2014年~ 詳細不明
HP:http://www.carodpiano.net/ |
CAROL OTTO

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C.OTTO
販売:ドーリング商会(デーリング商会)(横浜)※
J.G.DOERING'S PIANOS ORGANS
キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。
※ドーリング商会(デーリング商会)は1874年横浜で創業 |
CASTELLO
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カステロ イタリア 詳細不明
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CASTLE



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キャッスル
六郷ピアノ(大田区六郷 →後に茨城県土浦)、キャッスルピアノ製作所
田中貞三氏が田口氏の協力を得て、初め六郷で、後に茨城県土浦で製造した。
2種類あって音は良かったが、外装に厚い材料を使用していたため温度に弱かったとのこと。
当時としては大変珍しく曲線を意識した脚が特徴的です。
キャッスルまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄 →★ キャッスル全体写真
→★
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CASTLE


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キャッスル
鈴木ピアノ製作所
このキャッスルは上記の郷ピアノとは別ブランドで、
トレードマークは星形(チューニングハンマーのチップ部形状)の中に”S”の文字が入ったマークになります。
トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます! |
CHAIKA |
→TCHAIKAの項目へ |
CHAIKOVSKY |
CHAIKOVSKY チャイコフスキー
チャイコフスキーというブランド名で日本国内でも製造販売していたようですが、詳細不明
ソ連製のチャイコフスキーはCIAIKOVSKYの項目へ |
H, CHALLEN


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チャーレン イギリス/ロンドン
1986年からはマレーシア西部で作れれている
チャールズ・H・チャーレンは1804年にすでに最初のピアノを製作していたと考えられているが、
イギリスのピアノメーカー、チャーレン・アンド・サンズは1830年に設立された。
チャーレンといえば信頼性と耐久性であり、そのピアノの音質は高く評価されている。
チャーレン・ピアノは英国放送協会(BBC)で頻繁に使用されている。
チャーレン社は小型のグランドピアノでよく知られているが、1935年の英国王ジョージ5世即位25周年には、
世界最大のグランドピアノを製作したというエピソードがある。
全長355センチ、弦の総張力は30トンあったそう。
19世紀の最後の四半世紀から20世紀の最初の四半世紀にかけて、チャーレン社は年問約500台の
高品質のピアノを生産していた。この会杜に好機をもたらしたのは、1926年に新社長に就任した元チャペル社の
ウィリアム・エヴァンスだった。
エヴァンスは、チャーレン社が20世紀の初めに開発した全長152cmのベビーグランドピアノを再開発する。
大量生産技術の導入により、チャーレン社はこの楽器の価格を125ポンドから65ポンドに下げることに成功し、
その結果、ベビーグランドはイギリスの家庭からアップライトを追い出すほどの人気となった。
ほとんどのピアノ製造業者に打撃を与えた1930年代の大恐慌も、チャーレン社には影響を及ぼさなかったといい、
ピアノの生産高は1925年の500台から、1935年の2,500台にまで跳ね上がった。
チャーレン社は1932年にブロ―ドウッド社のピアノの生産を引き受け、また1936年には、
スタインウェイ社、ベーゼンドルファー社とともに、BBC(英国放送協会)にピアノを供給する契約を取り付けた。
これによりチャーレンピアノの音がイギリス中の家庭で聞かれるようになった。
1959年のウィリアム・エヴァンスの引退に伴い、チャーレンのブランド名はブラステッド・ブラザー社に売却され、
その後1970年に同社が消滅した際に、バラット・アンド・ロビンソン社へ移った。
1986年からチャーレンピアノは、ヴィエナ・ミュージック・Sdn・Bhd社の工場部門であるミュージカル・
プロダクツ・Sdn・Bhd社によって、マレーシア西部で組み立てられている。
<附録>
チャーレン・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~2000年) →★ |
CHAPPELL



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THE CHAPPELL PIANO CO.,LTD.
/Chappell & Company チャペル・アンド・カンパニー
イギリス チャペル社 ※所有:ワーナー・ブラザーズ
※ちなみに教会や礼拝堂に近い言葉である”チャペル”のスペルは”CHAPEL”です(PとLが1つです)
チャペル社といえば、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている風変わりな
スクエア・グラス・ピアノで有名。この楽器には弦の代わりにガラスの棒が取り付けられており、
ダウンストライキング方式のハンマーで叩く仕組みになっている。
チャペル製のコンサートグランドは非常に変わっていて、最高音部に3本ではなく 4本の弦が張られている。
リヒャルト・シュトラウスはチャペル・ピアノについてこう書いている。
「音色は極めて甘く、共鳴しやすい音質。タッチはとても反応が良く、軽い。
英国のメーカーのこのような完璧な楽器に出会えたことは、私にとって素晴らしく快い驚きだった」と。
すでに楽譜出版社を始めていたサミュエル・チャペルと、ヨハン・クラーマーと、フランシス・ラトゥールは、
1811年にチャペル・アンド・カンパニー社をロンドンに設立した。
その後、彼らの会社は1840年代にようやくピアノの製造を開始し、「ウェア・ルーム』と称する
特別なショールームで展示販売を始めた。
クラーマーはロンドンで人気の作曲家、音楽教師であったため、彼自身が店にあるすべてのピアノを
選んだということは、ライバル会社に差をつける良い宣伝になった。
楽譜やピアノの販売の他に、チャペル社はロンドン内のコンサートのプロデュースも行うようになり、
フィルハーモニック協会と密接な関係を築いた。
1840年にチャペル社はロンドンのソーホーでピアノを製造するようになるが、生産量が増えると、
チョークファームの工場へ移転した。
1901年にチャペル・ピアノ・カンパニーとパブリッシング・カンパニーが分離すると
ピアノの生産高は増大し、1920年代と30年代は年間1,000台も生産された。
1929年にチャペル社はアリソン・ピアノ社とカラード・アンド・カラード社を買収し、さらに1938年には
ジョン・ストローメンガー・アンド・サンズ社を買収して規模を拡大した。
1968年、フィリップス・レコード・カンパニーがチャペル・カンパニーを1750万ポンド
(2550万米ドル)で購入する。
そしてワーナー・チャペル社が所有するケンブル社がライセンスのもと、
2000年までチャペル・ピアノを製造した(ワーナー社は独占権を保有し続けている)
今もボンド通りにはチャペルの店があり、楽譜や楽器を販売している。
チャペルピアノのまくり(フタ部分)にある銘柄ブランドマーク →★ →★
チャペルのアクションレールに貼られているシール →★ MADE IN ENGLANDのプレート →★
<附録>
チャペル・アンド・カンパニー 製造番号/製造年代 対照表(1840年~1969年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チャペル& Co.(Chappell & Co.)は、かつて存在したイングランドの企業である。
音楽出版とピアノ製造を行っていた。
1810年にサミュエル・チャペル(c.1782年–1834年)によって音楽教授Francis Tatton Latourと
ヨハン・バプティスト・クラーマーと協力して創業された。
クラーマーは有名なロンドンの作曲家、教師、ピアニストでもあった。
会社の店舗には複数のフロアにピアノやその他の楽器(販売または貸し出し)、楽譜のための広い展示室があり、
ボンド・ストリートの目立つ目印となった。チャペルはロイヤル・フィルハーモニック協会の創設にも取り組んだ。
チャペル社の評判は急成長し 、1819年にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが出版したいと
思っている作品に関して仲間に手紙を書いている;
「ポッターは、ボンド・ストリートにあるチャペルが現在最良の出版社に一つだと言っている」。
サミュエル・チャペルは1834年に死去し、長男のウィリアム・チャペル(1809年–1888年)が会社を引き継ぎ、
母のエミリー・チャペル(旧姓Patey)の代理として会社を経営した。
1843年頃、ウィリアムはクラーマー& Co. に加わり、その後パーシー協会と音楽古物研究協会
(Musical Antiquarian Society)を設立した。
弟のトーマス・ペティー・チャペル(1819年–1902年)が次に経営を引き継いだ。
最初は音楽出版と演奏会の主催に専念していたチャペル社は1840年代にピアノ製造を始めた。
トーマスはチャペル& Co. の出版事業を拡大し、ミュージカルに関する出版に重点的に取り組んだ。
これは今日もチャペルの成功にとって重要である特異分野である。
チャペル社は楽譜販売のための市場を作ることになるかもしれないコンサートやオペラ、その他の催しを主催した。
トーマスはチャペル家が部分的に所有していたセント・ジェームズ・ホールにおける月曜から土曜までの
ポピュラーコンサートを思い付き、出資した(1859年)。
このコンサートは弟のサミュエル・アーサー・チャペルによってうまく運営され、1901年まで続いた。
トム・チャペルの成功の一つはギルバート・アンド・サリヴァンのオペラとアーサー・サリヴァンのその他の楽曲、
古いグノーのオペラ『ファウスト』、バルフのオペラ『ボヘミアの少女』の出版であった。
トーマスは王立音楽大学の最初のDirectorの一人やロイヤル・アルバート・ホールの最初の
支配人の一人でもあった。トーマスは1902年に死去した。
トーマスは音楽出版社協会の創設メンバーであり、協会の初代会長となり、
1881年から1900年まで会長職を務めた。
20世紀の間、チャペル社はイギリスで一流の音楽出版社・ピアノ製造業者となった。
1964年、建物が火災で破壊されたが、その後に再建された。
1970年代末までに、チャペル社はミュージカル作品(ロジャース&ハマースタインなど)の出版で有名な
世界的一流音楽出版社となった。1980年、チャペルは小売事業を売却し、音楽出版のみに専念した。
ロンドンのボンド・ストリートの店舗はヤマハピアノの大流通業者であったケンブル& Co.によって購入され、
ケンブル社はチャペル・オブ・ボンド・ストリートの名称でこの楽器店を経営した。
チャペル& Co. の出版事業は後にポリグラムによって、1987年にはワーナー・ミュージック・グループによって
2億米ドルで買収され、ワーナーの音楽出版部門と合併してワーナー/チャペル・ミュージックが設立された。
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CHAPPELL |
チャペル
国内でもCHAPPELL(チャペル)というブランド名で製造販売していたピアノもあったようですが詳細不明 |
CHARIS

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カリス CHARIS ※読みはチャリスではない
東洋ピアノ販売 韓国製造 その他詳細不明
※東洋ピアノが扱っていたBÖCKLER(BOCKLER)/ベックラーというピアノのトレードマークと
まったく同じマークということが分かります(文字の部分を除いて)
ちなみに、ドイツ製の「グロトリアン・チャリス」とはまったく別のピアノです |
CHAS. THWAITES |
CHAS.スウェイツ スウェイツ商会 |
CHERNY
 
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CHERNY チェルニー
製造:東洋楽器製造株式会社(広島市)
広島の東洋楽器製造のワグナー、ヒロタに次ぐ第三のブランドでした。
<参考>
あのピアノ練習曲を数多く残したことで有名なカール・チェルニーの正しいスペルは”CZERNY”ですが、
東洋楽器製造株式会社が作っていたピアノ、ツェルニーのスペルは”CHERNY”です。 |
CHEW
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→S. CHEW(周ピアノ)の項目を参照
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CHIKERING & SONS

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チッカリング・アンド・サンズ アメリカ(ニューヨーク)
CHICKERING & SONS
創業1823年。エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品。
※エオリアン(AEOLIAN)の項目も参照
チッカリングは19世紀中盤は一流のメーカーとして君臨していたのは皆様ご存知だと思います。
なんといってもチッカリングを有名にしたのは、現代のピアノを決定づけたといってもよい、
鉄のフレームの特許をとっていることです。
1867年にはパリの世界博覧会で金メダルもとっています。
この金メダルをとったピアノもリストに献呈され、リスト・アカデミーの院長室にあるようです。
リストは贈呈されたチッカリングのピアノが運ばれてきたとき、大感激して2時間も弾きつづけたという。
<歴史>
1823年、ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトを製作。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念する。
1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおけるピアノ製造の基礎を築いた。
<附録>
チッカリングピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チッカリング&サンズ(Chickering & Sons)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに所在した
ピアノ製造会社であり、優れた品質と設計の楽器の生産で知られていた。
1823年にジョナス・チッカリングとJames Stewartによって「Stewart & Chickering」が創業されたが、
4年後にこの協力関係は解消した。1830年までにジョナス・チッカリングはジョン・マッケイと共同経営者となり、
「Chickering & Company」、後には「Chickering & Mackays」としてピアノを製造した。
1841年に老Mackayが死去し、1853年に会社は「チッカリング&サンズ」として再編された。
チッカリングブランドのピアノは1983年まで作られ続けた。
ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが1823年、
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始した。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトピアノを完成した。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念した。1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおける
ピアノ製造の基礎を築いたといわれている。
1841年に事業を担当していたジョン・マッケイが船で遭難し行方不明となってしまい、このためチッカリングは
経営事業にも直接携わるようになった。ロンドンでピアノメーカーの最高の栄誉賞を受けるなど
ピアノ事業は順調だったが1852年、不幸にもピアノ工場が火災に遭い全焼してしまった。
新工場の再建に着手するも、創業者のジョナス・チッカリングは
1853年でこの世を去った。その頃、工場はチッカリング・アンド・サンズと名称を改めており、
チッカリング社のピアノ製造事業は、ジョナスの長男であるトーマス・E・チッカリングが引き継いだ。
トーマスは商才にたけた人物で、将来を期待されていたが若くして死去した。
トーマスの死後はジョナスの次男であるC・フランク・チッカリングが事業を引き継いだ。
1867年、パリ万博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得したが、その数日後、フランク・チッカリングは
当時のフランスの皇帝であったナポレオン3世に拝謁を仰せつかるという栄誉を受け、
音楽芸術に対する貢献として十字勲章を授けられた。
この頃、ヨーロッパにはピアニストとして名をはせていたフランツ・リストがおり、
チッカリングはリストが滞在していたローマまでピアノを届けている。
チッカリングが製作したピアノが運ばれてきたときリストは感激して2時間弾き続けたという。
また「今日、私はリストの壮麗な音のチッカリングを弾いた」と手紙に記している。
1891年にフランク・チッカリングはニューヨークで死去したが、チッカリング社は1904年に
クォーターグランドピアノと呼ばれる当時世界最小のピアノを製作した。
1909年以降チッカリング社はエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収され、
チッカリング一族は経営から姿を消した。
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CHIYODA
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チヨダ 千代田楽器製造所 戦前にあったブランド |
CHOPIN

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ショパン
製造元:三高アクション製作所(浜松市薬師町763番地)、及川ピアノ製作所(浜松市)
発売元:三浦ピアノ店(文京区東大前)
WALDSTEIN ワールドシュタイン(バルトシュタイン)の項目も参照。
戦前から東京文京区東大前の三浦ピアノ店を代理店として売り出された。
ワールドシュタイン(バルトシュタイン)も同様に売り出されていた。
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CIAIKOVSKY



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CIAIKOVSKY
チャイコフスキー ロシア(ソ連製USSR) RAZNO製造
フレームのロゴにはRazno(ラズノ)と書いてあります。いろいろな楽器を作っていた会社のようです。
(ベリョースカやウラジミールなど)
このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。
何台か調律したことがありますが、外装、アクション、音色含めかなり酷い作りのピアノで苦労しました。。
※ちなみにあの有名な音楽家であるチャイコフスキーの正しいスペルは、TCHAIKOVSKYです。
スペルは、「CHAIKOVSKY」や「TCHAIKOVSKY」ではないので注意。
※CHAIKOVSKY(チャイコフスキー)というブランド名で日本国内でも
製造販売されていたピアノが存在するようですが、詳細不明。
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CITY LIFE


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CITY LIFE シティー・ライフ 株式会社河合楽器製造所
カワイが作った廉価版ピアノ。
鍵盤が1枚板からではなく、中央部分で継いである2枚の接ぎ合わせ板を使用したり、
フェルトブッシングの代わりに段ボールのような硬い紙を使っていたり、
アクション部品を新たに開発した新素材(プラスチック等)に変更したりしています。
都会の団地向けの小型軽量ピアノということで開発したとも言われています。
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CLAIR

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クレール 有限会社クレールピアノ製作所
東京蒲田楽器製作所の創始者である斉藤喜一郎氏が戦後、
横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立して製作したピアノ。
現在のウイスタリア・ピアノ製作所
<ウィスタリア・ピアノ歴史(抜粋)>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッホルツ」および「ホルーゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。 |
CLEA |
クリア 有限会社クリア商会 |
CLEAR |
クリアー 株式会社 井上楽器製作所 |
COBLENZ
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Königl. Hof-Pianofabrik 詳細不明 |
COLLARD & COLLARD

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コラード・アンド・コラード イギリス(ロンドン) 詳細不明
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
コラード&コラード(Collard & Collard)は、かつて存在したロンドンに拠点とする
有名なアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
社名は2人の兄弟フレデリック・ウィリアム・コラードとウィリアム・フレデリック・コラードに由来する。
1767年、ロンドン・チープサイド通り26番地に音楽販売および製造業者である
Longman & Broderipが設立された。
Longman & Broderipが販売する楽器は、ピアノメーカーのGeib and Guilfordが製造した。
現在知られている最も古いLongman & Broderipの楽器は1770年製の5オクターブの
スクエア・ピアノであり、ボストンの博物館に展示されている。
Longmanの共同経営者は何度か変わり、社名は1771年にはLongman & Lukey、
1774年にはLongman, Lukey & Comp. と呼ばれていた。
1778年に作曲家でピアノ教師のムツィオ・クレメンティが会社に加わり、
会社はLongman & Clementiとなった。
クレメンティの後の共同経営者の一人が木製家具職人のフレデリック・コラードであった。
コラードは楽器製作者として、特に響板の専門家として需要があった。
クレメンティが販売を担当したのに対して、コラードはピアノ生産に責任を持つようになった。
クレメンティは非常に保守的であり、ピアノ製造における革新に反対していた。
ウィリアムとサモシン・コラードの息子フレデリック・ウィリアム・コラードは、
1772年6月21日にサマセット州ウィベリスクームで洗礼を受けた。
14歳の時にロンドンへ移り、Longman, Lukey & Broderipに雇われた。
弟で共同経営者のウィリアム・フレデリック・コラードは、1776年8月25日にウィベリスクームで
洗礼を受けた。ピアノ製造技師および発明家としての才能に加えて、彼は詩や文学にも情熱を持っていた。
1799年、Longman & Co. は経営難に陥り、John Longman、ムツィオ・クレメンティ、
Frederick Augustus Hyde、フレデリック・W・コラード、Josiah Banger、
およびDavid Davisの新会社が事業を引き継いだ。
1800年6月28日、LongmanとHydeが引退し、会社はMuzio Clementi & Co. となった。
しばらくした後、弟のウィリアム・F・コラードが共同経営者として加わった。
1817年6月24日、Bangerが共同経営を下りた。
1831年6月24日、F・W・コラード、W・F・コラード、クレメンティの間の共同経営が終了した。
コラード兄弟は弟のW・F・コラードが引退する1842年6月24日まで事業を継続し、
F・W・コラードが単独の経営者となり、彼の2人の甥フレデリック・ウィリアム・コラードJr. と
チャールズ・ルーキー・コラードが共同経営に加わった。
1832年の後、長年クレメンティの名前で販売されていたピアノのブランドが
「コラード&コラード」と命名された。
多くの特許が取られ、主に演奏機構とフレームシステムの改良が含まれた。
会社はすぐに音楽出版を中止し、ピアノ製造に集中した。
例外として、彼らは1858年までイギリス東インド会社向けのラッパ、横笛、太鼓の製造も行なった
(1858年にインドの統治権がヴィクトリア女王に譲渡され、東インド会社は解散した)
コラードは1851年のロンドン万国博覧会にグランドピアノを出品した。
会社は2度の大火にあった。1807年3月20日、トテナム・コート・ロードにあった工場が全焼した。
1851年12月10日、カムデン・タウン、オーバル・ロードに新たに建設された工場が全壊した。
弟のウィリアム・フレデリック・コラードは1842年にピアノ製造業から引退し、
1866年10月11日にフォークストーンで死去した。
兄のフレデリック・ウィリアム・コラードは1860年1月31日にチープサイド通り26の自宅で88歳で死去した。
彼は1786年にロンドンに着いてからずっと同じ住所に居住した。
より多くのドイツのピアノメーカーがイギリスの市場で成功し始めたため、コラード&コラードは
1900年からイングランドにおけるピアノ製造の落ち込みに巻き込まれた。
1929年、コラード社はチャペル& Co.に買収された。
1963年の火災でコラードとクレメンティの全ての記録が失われた。
1980年、チャペルのピアノ製造および小売事業はケンブル&カンパニー(Kemble & Company)に売却された。 |
COLORATURA


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コロラトゥーラ
製造元:HAILUN楽器(中国) 出荷最終調整:アサヒピアノ(中国人社長、浜松)
ピアノ線(ミュージックワイヤー)は、レスロー弦を使用しているとのこと。
ピアノ自体のの雰囲気や作り、製造&販売背景が私がよく調律する
「ウエンドル・アンド・ラング」というピアノによく似ています。
ピアノの音色はまだ実際に聴いたことがないので感想はまだ書けませんが、
今後、調律する機会があればここに感想をアップさせていただきます。
<参考>
コロラトゥーラとは、クラシック音楽の歌曲やオペラにおいて、速いフレーズの中に装飾を施し、
華やかにしている音節のこと。具体的にはトリルが多用される。
これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルトの歌劇『魔笛』における
第2幕の夜の女王によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。
<ハイルンピアノ詳細:Wikipediaより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、
FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。
ハイルンピアノ公式HP:http://www.hailunpiano.com/ |
COLTOT
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コルトー 販売:内外ピアノ社(東京千代田区神田神保町1-1) 詳細不明 |
CONCERT
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コンサート 羽衣楽器製造(株)浜松市 詳細不明
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CONN |
キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ |
CONOVER
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コノーバー ケーブルピアノ社製(アメリカ・オレゴン州)
生涯をかけて音の研究に没頭したJ.フランク・コノーバーが作り出した最高級品質のピアノとのこと |
CONSERVATOIRE
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コンセルバトワール Conservatoire アトラスピアノが国立音大の研究室で作っていたブランド
※詳しくはアトラスの項を参照
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CONSOLE
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コンソール 日本 村瀬克己氏 詳細不明
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CORBERT
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コルベール 日本 小出一三氏 詳細不明
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COSMOPOLITAN
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コスモポリタン 日本 詳細不明
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COSMOS

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コスモス
大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
その他にも違うブランドでピアノを製造していたとの記録あり。
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COSMOS HARVARD |
コスモス・ハーバード 大倉楽器工業株式会社 |
COSMOS NOBEL |
コスモス・ノーベル 大倉楽器工業株式会社 |
COSMOS PRINCETON |
コスモス・プリンストン 大倉楽器工業株式会社 |
COSMOS ROYAL |
コスモス・ロイヤル 大倉楽器工業株式会社 |
CRAMER

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J.B.Cramer クラーマー/(クラマー)
イギリス(ロンドン)
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J・B・クラーマー& Co.(J. B. Cramer & Co.)はロンドンにかつて存在した楽器製造、楽譜出版、
音楽販売業者である。1824年にヨハン・バプティスト・クラーマーによって創業された。
ボンド・ストリートにあった建物は1964年に会社がケンブル& Co.に買収された時に閉鎖された。
1824年に音楽家のヨハン・バプティスト・クラーマーとRobert Addison、Thomas Frederick Bealeによって
共同で創業され、「Cramer, Addison & Beale」と呼ばれていた。
ヨハン・バプティスト・クラーマーは1833年末に事業への関与をやめ、
1844年にAddisonはBealeとの協力関係を解消してRobert Hodsonとの事業を始めた。
Robert Hodsonは以前ルイス・ヘンリー・ラベニューと協力関係にあった人物で、
AddisonとHodsonはコンデュイット・ストリートの反対側のリージェント・ストリート210番地にあった
Cramer & Co.の道路の向こう側に「Addison & Hodson」を設立した。
Cramer & Co. 社はその後Cramer, Beale & Co. と呼ばれた。
次にウィリアム・チャペルがBaeleの事業に加わったが、1847年に関係を解消し、
事業はThomas Bealeによって行った。
チャペルは再び事業に加わったが、最終的に1861年に引退した。
当時「Cramer, Beale & Chappell」という名称が出版物上で使用された。
1862年、George WoodがBaeleとの事業に加わり、その期間は「Cramer, Beale & Wood」という
名称が使われた。1864年までに、Baeleは会社を離れ、名称は「Cramer, Wood, & Co.」に変わった。
主な店舗はリージェント・ストリート201番地、コンデュイット・ストリート67番地、
コンデュイット・ストリートとリージェント・ストリートの角にあった。
この住所は1820年代から1890年代までこの会社との結び付きがあった。1873年に会社は
「Cramer's Great City Warehouse」または「Cramer's City Warerooms」と呼ばれた展示場を開業した。
(最初はムーアゲート・ストリート43から46番地、後に40から42番地にも拡大した)
1896年から1901年に主要な店舗はリージェント・ストリート207および209番地に移転し、
その後1902年までにオックスフォード・ストリート126番地に移った。
1912年、主要店舗はニューボンド・ストリート139番地に移され、
1964年にピアノ製造会社ケンブル& Co.に買収されるまでここで営業を続けた。
ケンブルは限られた期間「J. B. Cramer & Co.」ブランドを使い続けた。 |
CRANE & SON |
イギリス 詳細不明 |
CRANES |
鍵盤蓋にEst 1851とあるので、1851年設立?
トレードマークは2種類あるようですが、その中の1つがREID-SOHN、KAFMANN、SAMICK、
SCHNABEL、WEINBURGなどと同じマークなので商標権を獲得した韓国メーカーが現在製造?
詳細不明 |
CREABEL |
クリーベル 協立楽器 詳細不明 ※注:他にもクリーベルという名称のピアノあり
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CRISTOFORI
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クリストフォーリー(クリストフォリ) 発売元:三協ピアノ株式会社(浜松市) 詳細不明
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CRISTOFORI


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クリストフォリ
東洋ピアノ製造株式会社
18世紀にピアノを発明したとされるイタリアのBartolomeo Cristoforiにちなんで
命名されたクリストフォリシリーズ。
家具調のRU-118と木目調ピアノのスタンダードなデザインのRU-121があった。
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CRISTOFORI


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クリストフォリ
製造元:大成ピアノ製造株式会社
発売元:株式会社 渡辺商店
トレードマークは細部を除き、”エルスナー”や”クラウス”とほぼ同じワシのマークです。 |
CROWN |
クラウン 1870年設立 ジョージ・P・ベントピアノカンパニー
4本ペダルが特徴でチェンバロ風に音色を変えられるとのこと。その他詳細不明 |
CURRIER

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キュリエール CURRIER アメリカ
インターナショナル・ミュージカル・インストゥルメント社
会社名はやや大げさな名前ですが、大衆的なピアノを作る会社で、
工場はノースカロライナにあり、アメリカのピアノ工場としては
10本の指に数えられるほどの大規模な工場です。
ハワイ州、アラスカ州を含むアメリカ50州すべてに代理店を持ち、
ヨーロッパ、南米、カナダ、カリブ海諸島などにも輸出されています。
この会社は歴史こそありませんが、スピネットの小型のものから
一般的なアップライト、そしてグランドにいたるまでその種類は
極めて多く、さらに会社の中に独自の配送部門も持ち。全米各地へ
工場から自社のトラックで輸送が可能だそう。
伝統的な品質を誇るというよりは、販売力で勝負しようとする会社といえよう。
ボストンで同じ名前のキュリエール(CURRIER)というピアノが
作られているが、これとは全く無関係です。
こちらのキュリエール社は100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。
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CURRIER

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アメリカ ボストン
100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。上記キュリエールとはまったく別の会社です。
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CZERNY |
あのピアノ練習曲を数多く残したことで有名なチェルニーの正しいスペルは”CZERNY”ですが、
東洋楽器製造株式会社が作っていたピアノ、ツェルニーのスペルは”CHERNY”です。
→この上方、CHERNYの項目へ |
CZERNY |
チェルニー ロシア(ソ連) 詳細不明 |
ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング

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メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他
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G & GRAND
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ジー・アンド・グランド 東日本ピアノ製造(株)、株式会社バロック 1953年創業の東日本ピアノ製造。 |
GALNER
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ガルナー 遠州ピアノ製造(株)浜松 昭和31年より昭和36年まで生産されていた。
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GAVEAU


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ガヴォ― フランス(パリ) 創業1847年 プレイエル社が製造
ジョセフ・ガブリエル・ガヴォー(Joseph Gabriel GAVEAU)は、
1824年ロモランタン(Romorantin)生まれ。
ガヴォーはいくつかの工房で修業と経験を積んだ後、1847年にパリに自身の工房を作る。
当初からガボーは丈夫で良いアップライトピアノを作ることに拘り、エラールの設計を真似て
アップライトピアノアクションで、特にジャックの角度についての改良に取り組みました。
そして、「ガヴォ―アクション」と呼ばれる独自の特色を持つアクションを作り上げました。
ガヴォーは高い品質のチェンバロと、特に小型のアップライトピアノで素晴らしい名声を獲得しました。
彼のピアノに対する評判は高まり、セルヴァン通りに工場を構えます。
1890年頃には200人の職人を雇い年間1500台を生産するほどまでに大きくなりました。
1893年、70歳になった彼は会社を息子のガブリエル・ウジェーヌとエチエンに譲り、
会社名は"Société GAVEAU"となりました。
1896年からはパリ近郊のフォントネー・スー・ボワ(Fontenay sous bois)にモダンな新工場を建て、
約300人の職人を雇い生産量は年間2000台にのぼりました。
この工場では多くのパリの有能な職人たちが育てられました。
エティエンヌ・ガヴォー(Etienne Gaveau)は経営を担当し、パリ中心部に本社を構え、
1908には自社のピアノを宣伝するためにコンサートホール「サル・ガヴォ―」を建設しました。
1911年、兄弟は仲違いし、ガブリエルは独自の会社を興し、グランドピアノ製作で新しいアイデアを取り入れ、
木材にこだわって作られたおしゃれな外装の小さなグランドピアノを製作することで独自のスタイルを構築。
1930年頃、子会社のM.A.G. (Marcel と André Gaveau)が設立され、丈夫で小さくてしかも安価な
アップライトピアノの製造を担当。
1939年に戦争が始まった時、ガヴォ―社は95,000台目のピアノを製造したところでした。
エチエンは1943年に死去し、息子のマルセルとアンドレは困難の中でも経営を続けました。
1960年、エラール社と合併し、"Société Gaveau-Erard"と名付けられました。
その後プレイエルも加わり、"LES GRANDES MARQUES REUNIES"(大メーカーの集合)となりましたが、
1965年に倒産、工場は閉鎖。
しかし、不安定な財政状況は続き、この複合企業はドイツのシンメル・カンパニーに買収された。
シンメルとの契約が1994年に切れると、この人気のあるフランスのメーカーは再びフランスへ戻った。
1996年以降、ガヴォーのピアノは、フランス南部のプレイエル社の工場で生産されている。
※Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造
<附録>
ガヴォー・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1855年~1988年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ガヴォー(Gaveau)はかつて存在したフランスのピアノ製造会社である。
1847年にパリでジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーによって創業され、エラールとプレイエルに次ぐ
フランスで第三のピアノメーカーであった。大工場はフォントネー・スー・ボワにあった。
一部のガヴォー製ピアノは芸術的なキャビネットを持っていた。
多くのピアノは空圧システムを備えている(Odeola、Ampico、ミニョン)
1960年、ガヴォーはエラールと合併した。
1971年から1994年まで、ガヴォーピアノはピアノ製造会社のヴィルヘルム・シンメルによって作られた。
ガヴォーブランドは現在フランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)によって所有されている
(プレイエルおよびエラールブランドもこの企業によって所有されている)
今日、フランス・ピアノ製造会社はガヴォーブランド名で幾つかのモデルを製造している。
ジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーには6人の子供がおり、エティエンヌ・ガヴォーが継いだ。
ガブリエル・ガヴォーは1911年に設立された。
ガブリエル・ガヴォーはペダルまたはデュオ・アート(自動演奏)システムを持つ幾つかのピアノを作り、
1919, 55-57 Av. Malakoff, 75016(現トロカデロ)に近いAv. Raymond Poincaré)にあった。
この工場は1939年にドイツによって徴発された。
また1911年には、オーギュスタン・ガヴォーが独自のアップライトピアノを作る自身のピアノ会社を設立]
自伝『My Young Years』において、アルトゥール・ルービンシュタイン はコンサートで
ガヴォー製ピアノを演奏する契約をいかに結んだかについて詳しく述べている。
ルービンシュタインはガヴォー製ピアノの「堅く応答がないアクション」と「音色の冷たさ」について書いている。
またカミーユ・サン=サーンスやアルフレッド・コルトーのような音楽家も
自身のガヴォーピアノの演奏を楽しんだ。 |
GEBR. PERZINA

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GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製
ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、
現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。
1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、
北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。
現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に
こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある
ピアノのひとつとなりました。
また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、
ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。
しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は
東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、
大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。
2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。→★
※ 第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。
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GEBRÜDER STINGL
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Gebrüder Stingl ドイツ(ウィーン) 詳細不明
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ゲブルーダー・シュティングル(独: Gebrüder Stingl、ゲブリューダー・シュティングル、シュティングル兄弟)は、
ピアノを製造するウィーンの同族経営事業であった。
住所はウィーンの3区ラントシュトラーセ、Ungargasse 27であった。
創業者アントン・シュティングル(Anton Stingl、1808年9月11日ラーズニェ・キンジュヴァルト生、
1895年ピッテン没)は1840年におじの家具職人イグナーツ・シュティングルと共にウィーンへ移住した。
アントンは1853年からピアノ木工職人として働き、1860年に独立した。
作業場は4区のStarhemberggasse 28に位置していた。当初は、工芸ピアノ製造業者に供給した。
会社は1887年に拡張・再編された。3人の息子ヴィルヘルム(1860年-1908年)、イグナーツ(1861年-1915年)、
グスタフ(1868年9月7日–1906年11月27日)が会社に加わった。
ヴィルヘルムは商工会議所会員、イグナーツは名誉称号Kaiserlicher Rat(帝国顧問)を授与され、
グスタフは1900年から1904年までキリスト教社会同盟評議員であった。
父の死後、彼らはオーナーとなり、会社は「ゲブルーダー・シュティングル」(シュティングル兄弟)と呼ばれた。
会社は急成長し、10区のLaxenburger Strasse 32に新たな工場が建設された。
1895/1896年、古い伝統企業Johann Baptist Streicherがゲブルーダー・シュティングルに売却された。
シュティングルの生産はNeuer Streicherhofに移転した。
ゲブルーダー・シュティングルはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達ピアノフォルテ製造業者に
指名され、1900年4月14日から宮廷ピアノ製造業者となった。ペルシアやセルビア、ブルガリア王室の御用達の
称号もゲブルーダー・シュティングルに贈られた。
会社はウィーン式とイングランド式のレペティション機構(ダブルエスケープメント)を備えたグランドピアノを
製造したが、高品質のコンサートピアノも開発した。
特色はハーフペダルと世界最小のピアノ「Piccolo-Mignon」であった。
第一次世界大戦まで、シュティングルオーストリア=ハンガリー帝国で最大のピアノフォルテ工房へと発展し、
約400人の従業員を雇用した。ブダペストにも支店を開いた。
帝国の崩壊によって会社は大きな打撃を受け、1918年に「シュティングル・オリジナル」(Stingl-Original)
として再編され、次に有限会社、1922年に株式会社となった。住所はTroststraße 10であった。
1935年、シュティングルはLauberger & Glossによって買収され、 Lauberger & Glossは
「Stingl-Original」のブランド名で楽器の製造を続けた。
Lauberger & Glossは1960年代初頭にウィーンのその他のピアノ工房と同様に製造をやめた。
もう一つの「シュティングル」がグスタフ・シュティングルの息子グスタフ・イグナーツ(1900年-1960年)の
会社であった。1921年、彼は4区Favoritenstraße 17に会社を設立した。
1923年、Robert Rellaが会社に加わった。この会社「グスタフ・イグナーツ・シュティングル」は
1920年代以降輸出に重きを置いた。
グスタフ・イグナーツ・シュティングルは1932年からピアノおよびオルガン製造業者のギルドの会員であり、
後にはその役員であった。会社の本店は後に4区のWiedner Hauptstraße 18に移転し、
作業場は12区のWolfganggasse 38に位置した。1948年、ファミリーの合名会社が設立された。
これは後にシュティングル家の最後の人物の甥のグスタフ・イグナーツ・スィーヒ(Gustav Ignaz Sych)の
単独所有となった。第二次世界大戦後、ウィーン国立音楽大学やウィーン音楽院、ザルツブルク音楽祭への
納入が始まった。
カール・ミヒャエル・ツィーラーやフランツ・レハール、ロベルト・シュトルツ、ウド・ユルゲンス、
オペラ歌手らなど数多くの音楽家がシュティングルの製品を購入した。
シュティングルは日本のピアノ製造業者KAWAIの欧州代表部でもある。
HP:https://stingl-klavier.at/ |
GEISSLER
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ガイスラー フランス 詳細不明 |
GEISTREICH
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GEISTREICH ガイストライヒ
大倉楽器工業(株) 東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
トレードマーク内の文字には”CERTIFIED MERCHANDISE”と入っています。
CERTIFIED=保証された、公認の
MERCHANDISE=商品、製品 |
GELTHNER

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GELTHNER ゲルツナー/(ゲルッツナー) ※発音はゲルトナーではない
発売元:音調社楽器店、製造:広田ピアノ株式会社
広田ピアノで作っていたピアノ。
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GEMEN |
ゲーメン ※下記のゲーメンスタインと同じピアノ? |
GEMENSTEIN
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ゲーメンスタイン 日本 詳細不明 |
GEOGE ROGERS & SONS


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ジョージ ロジャーズ アンド サンズ
イギリス(ロンドン) 詳細不明 |
GEORG SCHWECHTEN
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GEORG SCHWECHTEN ゲオルク・シュヴェヒテン(シュベヒテン)
1853年創業 ドイツ(ベルリン)
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ゲオルク・シュヴェヒテン(Georg Schwechten、1827年2月4日シュトルツェナウ生、
1902年8月19日ベルリン没)は、19世紀後半のベルリンの卓越したピアノ製作者の一人である。
オリジナルの保存状態のよい、または修復されたシュヴェヒテンのアップライトピアノおよび
グランドピアノは今でも称賛に値すると見なされており、珍しい。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年に兄のハインリッヒ・シュヴェヒテン(1812年-1871年)によって
1841年にベルリンKoch通り11番地で開業されたスクエア・ピアノの工房を引き継ぎ、
弟のヴィルヘルム(1833年-1900年)と共に1853年にG. シュヴェヒテン社を創業した。
1861年、ゲオルクはKoch通り60番地に工場を建設し、その後隣の不動産も取得した。
G. シュヴェヒテン社のピアノはすぐに大きな名声を得た。
ゲオルクの死後、娘のAnna Maria Clara Fiebelkornが会社を引き継いだ。
彼女はSchwechtenhausを建設した。
ヴィルヘルムの息子フリードリッヒとヴィルヘルム(1880年-1954年)は1910年に
Pianofabrik Schwechten & Boesを設立した。
(1911年からGebr, Schwechten、1912年からFriedrich Schwechten、ヴィルヘルム通り118番地)
1918年、2人とも親会社に戻った。ピアノ生産は1854年に始まり、1925年まで続いた。
シュヴェヒテンピアノは1839年にゲオルク・シュヴェヒテンの兄ハインリッヒの店で始まった。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年にベルリンで店を構え、優美な手作りピアノを専門とした。
この素晴らしいピアノはゲオルクが死去した1902年に終わった。
「Schwechten」のブランド名は中国の上海鋼琴有限公司(Shanghai Piano Co. Ltd.、1895年創業)
によっても使用されていたが、ドイツのSchwechtenとの関係は不明である。 |
GEORGE STECK & CO.
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ジョージ・ステック エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品 ニューヨーク
現所有:ピアノディスク社
※MASON & HAMLINの項目も参照 |
GERHARDADAM
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ゲルハルドアダム ドイツ 詳細不明
ADAM GERHARD アダム・ゲルハルド |
Ger. APOLLO
※下記は参考画像
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ゲール・アポロ 東洋ピアノ製造株式会社
※左記トレードマークは参考画像です
実際のGer. APOLLOのトレードマークは、この”TOYO”の部分が”HAND MADE”になっています。 |
GEROG JACOBI |
ドイツ シュトゥットガルト(STUTTGART) 詳細不明 |
GERSHWIN



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ガーシュイン/ガーシュウィン GERSHWIN
大岡楽器製作所
白鳥楽器製作所
スワン楽器製造KK(スワン楽器製造株式会社)
ガーシュインピアノ株式会社
東日本ピアノ製造(株)
株式会社 バロック
フローラピアノ製造(株)
大成ピアノ製造株式会社
昭和28年に大岡郁平氏によって大岡楽器製作所が発足し、
ガーシュインのブランドでアップライトピアノが作られました。
その後、稲葉ピアノの後援で白鳥楽器となり、さらにスワン楽器KKと改称され、
昭和42年に東日本ピアノ製造株式会社に改組。
グランドピアノの裏側には国産初のテンション・レギュレーター装置を採用。
アップライトではペダルの重さを調整できる装置も採用。昭和を感じるピアノですね♪
機種:No500、GA-50等
上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
ガーシュインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
G.E. RUSSELL & SON |
詳細不明 |
GEYER
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ガイヤー ドイツ(旧東ドイツ) 詳細不明
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GLASER
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ドイツ 読み方不明、詳細不明
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GLORIA
※下記は参考画像です

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グロリア 発売元:クニユキピアノ株式会社 製造元:不明
※トレードマークは参考画像です
このトレードマークはKREUTZER(クロイツェル)のものですが、
この文字部分が”GLORIA”になっている以外はほぼ同じです。何故同じかは不明。 |
GLORIOUS

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グロリアス/(グローリアス)
第一楽器工芸株式会社(浜松)
新東海楽器製造株式会社(浜松)
アトラスピアノ製造株式会社
新東海楽器(浜松)だが、第一楽器(浜松)で作ったこともある。
|
GOLD STAR
 
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GOLDSTAR/GOLD STAR ゴールドスター 東海楽器製造(株)
ピアノを製造していた頃の東海楽器株式会社についての詳しい解説は「TOKAI」の項目へ
機種:120-G等
<東海楽器が製造したブランドを列挙いたします>
■ TOKAI(トーカイ)
■ BOLERO(ボレロ)
■ SILBER STEIN(シルバースタイン)
■ HUTTNER(ヒュッツナー)
■ GOLD STAR(ゴールドスター)
ゴールドスターのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
GOODWAY
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グッドウェイ 詳細不明
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GORDON LAUGHED

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GORDON LAUGHEAD ゴードン・ローヘッド製造(ミシガン州グランドヘブン)
三代続いた個人企業のピアノメーカーです。
ミシガン州のグランドヘブンにあり、アップライトピアノと学校用の楽器を主として製作。
このメーカーのブランドには、社名と同じゴードン・ローヘッドの他に、
クールツマン(KURTZMANN)と呼ばれるブランドがあります。
ピアノ業界では一般的にそのピアノの創始者の名称が用いられることが多い中、
このピアノメーカーは例外で、社内のマネージャーの名前が使われています。
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GORS & KALLMANN
GÖRS & KALLMANN



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ゲルスカルマン/ゲルス・カルマン/ゲルス・アンド・カルマン/(グロスカールマン)
GÖRS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
製造:大成ピアノ製造株式会社
販売:昭和楽器OEM
機種バリエーション GK2000、GK3000など
ドイツ(旧西ドイツ)製にも同じ名前(R.GÖRS & KALLMANN)がありますがまったく違います。
音色・作りは同じ大成ピアノで作っていたローレックスKR27等に近い感じです。その他詳細不明。
ピアノ天板をあけると裏に貼ってある昭和楽器の品質保証シール
(作ったピアノすべてに貼ってるとは思いますがね) →★
<参考>
H. GÖRS & KALMANというアトラスピアノ製造が作っていたピアノもあり(→スペル内のLとNが1個)
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GORS & KALLMANN
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ゲルス ウント カールマン
R. GORS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
ドイツ(旧西ドイツ)ベルリン 詳細不明
※大成ピアノ製造の”GÖRS & KALLMANN”とは違うピアノです |
GRANFEEL
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グランフィール 有限会社 藤井ピアノサービス |
GRATIAE


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パコピアノ/グラチアピアノ
PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO
この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い
北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内で行い出荷。
日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて
日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。
ブランドはGRATIAE(グラチア)という低価格のアップライトのみ。
当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、
アジア・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。
1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、
ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。
その他詳細不明。
グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク
→★
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GREIFEN



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GREIFEN (J.S.GREIFEN) グライフェン/グライフン
詳細不明 GREIFENとはドイツ語で「~をつかむ」、「~をつかまえる」という意味
GREIFENピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★ GREIFENピアノ外観写真 →★
※これらの画像はすべて nosuke様からご提供頂きました |
GREIG
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グリーグ (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。
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GROLIA
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グロリア (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。
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GROSS STEIN

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GROSS STEIN グロス・スタイン (グロススタイン)
発売元:青池楽器店(青池ピアノ店) 当時の住所:千代田区神田一ツ橋2-3
製造元:シュベスターピアノ製造株式会社(協信社ピアノ製作所と渡辺塗装が共同で製作開始)
昭和11年、銀座伊東屋七階の全国ピアノ技術者協会主催の「躍進 国産ピアノ展覧会」に出品された。
グロススタインピアノは一度解散していた協信社ピアノ製作所の松崎妙氏(読み:まつざき かのお)氏と
渡辺塗装社が昭和8年に共同でピアノ製造を始めた時に、青池楽器店の依頼で作られたもの。
松崎氏は終戦の年である昭和20年、協信社ピアノ製作所から株式会社 協信社ピアノ製作所に改組設立。
その際、販売部門としてシュベスターピアノ販売株式会社を設立し、青池楽器店との取引を終了した。
当時のシュベスターピアノ販売株式会社の住所:港区新橋4-24 |
GROTRIAN


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GROTRIAN (GROTRIAN-STEINWEG)
グロトリアン (グロトリアン・スタインウィッヒ/グロトリアン・シュタインヴェーク)
ドイツ(旧西ドイツ) ボルフェンヴュッテル 創業1835年。
ヨーロッパの王室でも使われ、あのクララ・シューマンが、「今日からはこのピアノしか弾かない」と
言ったことでも知られており、愛用していたと伝えられている。
今も変わらずドイツ最高のピアノブランドのひとつであるグロトリアン・シュタインヴェーク社は、
ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンと、スタインウェイ王朝の創始者ハインリヒ・
シュタインヴェークとの協力から始まった。ふたりはグロトリアンのデザインをもとに、1835年に
最初のピアノを共同で製作したと伝えられている。
グロトリアン・シュタインヴェーク社の現従業員の約半数がピアノ製造技師であり、
その特別な見習いプログラムによって、この会社の高い技術水準は将来へと受け継がれている。
独創的な『デュオ・コンサートグランド』は、二台のピアノを1枚の大屋根で結合したピアノで、
二台のグランドは取り外し可能なリム(側板)と、間の隙間を埋めるブリッジ状の響板で接続される。
二台のグランドは簡单に切り離すことができ、一台一台個別の屋根にして独奏楽器としても演奏できる。
アップライトピアノの背面構造の設計はアスタリスク形状になっており、弦張力に対抗する力がすべて
中心の一点に集まることにより、調律の安定性を高めている。
そしてその歌うような音色から、「シンギングトーン」と称されてている。
<歴史>
ビジネスに関心を持ったグロトリアンはモスクワに小売店を開いて成功した。
10年後に母国ドイツへ帰ったグロトリアンは、ハインリヒ・シュタインヴェークの息子、
カール・フリードリヒ・テオドール・シュタインヴェークとピアノ製作の共同契約を結ぶ。
ふたりはブラウンシュヴァイクへ生産拠点を置き、高品質のピアノを製作する優れた会社を設立した。
一方、ハインリヒ・シュタインヴェークはそのころアメリカへ移住して名前をスタインウェイに改め、
自身の会社を設立していた。1865年にふたりの弟が病死すると、テオドール・シュタインヴェークは
自社の株を売って、アメリカへ渡り、繁盛していたスタインウェイ社の経営に就いた。
フリードリヒ・グロトリアンはその2年後に亡くなり、会社は息子のヴィルヘルムに委ねられた。
ヴィルヘルムは株主A.ヘルフェリヒ、H.シュルツとともに、シュタインヴェークを含む
さまざまなブランド名でピアノを生産した。
会社は着実に成長していき、1920年には、1,000人の従業員が年間1,600台の楽器を生産するまでになった。
1917年にヴィルヘルム・グロ卜リアンが亡くなると、息子のヴィリとクルトが会社の経営を引き継いだ。
兄弟は、「良いピアノを作ってさえいれば、後のことは何とかなる」 という父の教えを肝に銘じ、
良質の職人技を守り抜いた。1919年に社名が正式にグロトリアン・シュタインヴェークとなり、
その社名をめぐってスタインウェイ社と法的に争ったりはしたが、1927年には生産高が3,000台にまで増大した。
それから1931年に大恐慌による打撃を受け、年間700台まで生産高は落ち込んだ。
戦時中はやむなく閉業し、戦後グロトリアン・シュタインヴェーク社がピアノの生産を再開できたのは
1948年になってからだった。
爆撃された工場を再建し、伝統のピアノ製法を復活させるにはそれなりの時間を必要とした。
1954年には良質のピアノメーカーとしての地位が回復し、会社は若いピアニストを支援するために、
グロトリアン・シュタインヴェーク・コンクールを設立した。
そして1974年、グロトリアン・シュターンヴェーク通りに最先端の設備を誇る新工場が完成した。
グロトリアン社の6代目クヌートは息子ヨプストの協力のもと、現在この場所で会社を指揮している。
※スタインウェイ・アンド・サンズとの「Steinweg」に対する商標権問題で、ドイツ以外への輸出に於いては、
GROTLIANのブランド名を使用している。
グロトリアンはスタインウェイの血縁とも言えるが、楽器の構造はかなり異なる。
グロトリアンピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら
→★)
<附録>
グロトリアン・シュタインヴェークピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1865年~2001年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
グロトリアン=シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)は、ドイツの高級ピアノ製造会社である。
欧州外ではグロトリアンと呼ばれる。ドイツ・ブラウンシュヴァイクに本社がある。
グロトリアン=シュタインヴェークは高級グランドピアノとアップライトピアノを製造している。
同社の起源は1835年にゼーゼンのハインリッヒ・シュタインヴェーク(後のヘンリー・スタインウェイ)
が設立したピアノ工房にある。したがって、世界で最も古いピアノ製造会社の一つであり、
2015年に香港の柏斯琴行(Parsons Music Group)によって買収されるまでは
グロトリアン=シュタインヴェーク家が所有していた。
グロトリアン=シュタインヴェークの歴史は、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク
(米国への移住後にヘンリー・スタインウェイと改名し、スタインウェイ・アンド・サンズを創業した)
によって最初のシュタインヴェークのピアノ工場が建設された1835年に遡る。
1856年、フリードリヒ・グロトリアンがパートナーとなった。
1865年、フリードリヒの息子ヴィルヘルム・グロトリアンと2人の共同出資者が工場と
シュタインヴェークブランドの後継としてピアノを販売する権利を買い取った。
グロトリアン家のその後の世代が会社をドイツで最高級のピアノ製造会社にした。
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノは一部の高名なピアニストによって好まれ、
シカゴ・コロンブス万国博覧会(1893年)にて称賛を得た。
グロトリアン=シュタインヴェークはオーケストラとコンサートホールを運営し、ドイツの6都市、
そして1920年までにロンドンに販売店を設立した。
1920年代末の最盛期には、グロトリアン=シュタインヴェークは1000人の従業員を雇用し、
年間3千台のピアノを製造した。
1930年代の不景気と1940年代の戦争によって、グロトリアン=シュタインヴェークはひどく衰退し、
その後工場を完全に失った。グロトリアン家は工場を再建し、高品質な仕事でその評判を取り戻した。
1950年代には、有望な若いピアニストを見つけるために年1回のピアノ演奏コンクールを創設した。
グロトリアン=シュタインヴェークは1960年代中頃に米国で事業を拡大しようとした。
スタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)はシュタインヴェーク(Steinweg)の
名称の使用を差し止める訴えを起こし、その結果合衆国第2巡回区控訴裁判所にて1975年に判決が下された。
この訴訟は、グロトリアン=シュタインヴェークというブランドはピアノ購買者がそのブランド名と
スタインウェイ・アンド・サンズのブランドを一時的に混同する原因となる、という「購買前の混同」を
説明する先例となった。裁判所はグロトリアン=シュタインヴェークに米国での「シュタインヴェーク」という
名称でのピアノの販売を差し止める命令を下した。
その後、グロトリアン=シュタインヴェーク社は北米でピアノを販売するために
グロトリアン・ピアノ・カンパニーと命名した企業を設立した。
■19世紀
1803年1月13日、ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンはドイツ・シェーニンゲンで生まれた。
フリードリヒは1830年頃に始めたピアノの販売のためにモスクワに居を定めた。
その後、サンクトペテルブルクに拠点を置いた小さなピアノ製造会社との共同経営会社に参加し、
これらのピアノをモスクワで成功した楽器店で販売していた様々な楽器に加えた。
ドイツでは、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(1797年-1871年)が1835年に
ハルツ山地の端のゼーセンにある自宅からピアノの製造を始めた。
ハルツ山地はピアノに使われる上質なブナノキとトウヒの産地であった。
最初の年に生産したピアノの中に、フリードリヒ・グロトリアンによって設計され、
シュタインヴェークが作ったスクエア・ピアノがあった(この楽器は現在ブラウンシュヴァイク博物館にある)
シュタインヴェークは1839年のステート・フェアに3台のピアノを出品した。
その内2台はスクエア・ピアノだったが、グランドピアノが広い注目を集めた。
1850年、シュタインヴェークは大家族のほぼ全員と共にニューヨークへ移住した。
ピアノ工場は長男のC・F・テオドール・シュタインヴェーク(1825年-1889年)に残され、
テオドールは自身の名前で経営を続けた。
その頃、ニューヨークでは、シュタインヴェーク家は米国風に姓をスタインウェイと改め、
1853年にピアノ製造会社スタインウェイ・アンド・サンズを創業した。
父の古い工場の経営権を引き継いでから間も無く、C・F・テオドール・シュタインヴェークは
ブラウンシュヴァイク近くのヴォルフェンビュッテルに移った。
ここで、テオドールは商売のために旅行していたフリードリヒ・グロトリアンと出会った。
1854年、フリードリヒ・グロトリアンは叔父からの遺産としてMüller-Mühlenbein pharmacyを受け取り、
その経営のためにドイツへ戻った。
グロトリアンは1856年にC・F・テオドール・シュタインヴェークのピアノ会社に共同経営者として加わった。
1857年、C・F・テオドール・シュタインヴェークとグロトリアンはピアノ工場をブラウンシュヴァイクへ移し、
街の中世部のBohlwe通り48にある元市長の屋敷に店を構えた。
会社は当時約25人の従業員を雇った。フリードリヒ・グロトリアンは1860年12月11日に死去し、
会社の株式は息子のヴィルヘルム(1843年)に残された。
1865年、C・F・テオドール・シュタインヴェークは兄弟のヘンリーとチャールズの死後に
スタインウェイ・アンド・サンズの経営を助けるためにニューヨークの家族に必要とされた。
ヴィルヘルム・グロトリアンはC・F・テオドールの工場の株式を買い取るために2人のピアノ職人
Adolph HelfferichとH.D.W. Schulzと手を組んだ。
新たな共同経営会社は「テオドール・シュタインヴェークの後継者」を意味する商標
「C.F. Th. Steinweg Nachf.」を使用するための権利の代金を支払った。
(Nachf. はドイツ語で後継者を意味する "Nachfolger" の省略形)
会社名は「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf.」となった。
ヴィルヘルム・グロトリアンは1870年代に2人の息子ヴィルヘルム・"ヴィリ"・グロトリアンJr
(1868年-1931年)とクルト・グロトリアン(1870年-1929年)を育てた。
ニューヨークでは、C・F・テオドール・シュタインヴェークはC・F・セオドア・スタインウェイに改名し、
スタインウェイ・アンド・サンズに15年間トップおよびチーフ・テクニシャンとして働いた。
セオドアは米国での生活を好きではなく、ブラウンシュヴァイクの自宅を持ち続けており、
随時行ったり来たりしていた。1880年、セオドアは海を超えた渡航を止め、父親の古い会社
(現在のグロトリアン=シュタインヴェーク)と対抗して、欧州の顧客のためにピアノ製造する
新しいスタインウェイ・アンド・サンズのピアノ工場をハンブルクで始めた。
事業を立ち上げ後、セオドアは引退して晩年をブラウンシュヴァイクで過ごした。
セオドアは1889年に死去し、彼のピアノコレクションは市の博物館へ寄贈された。
ハンブルク工場はグロトリアン=シュタインヴェークと競い合って成功を収めた。
どちらの会社も高級ピアノを生産することで知られていた。
1880年代、ヴィリ・グロトリアンは米国メリーランド州ボルチモアのWm. クナーベ& Co.と
フランス・パリのプレイエル, ヴォルフ et Cieでピアノ製造を学んだ。
クルト・グロトリアンもまたその他の国々のピアノ製造会社で学んだ。
彼らの父ヴィルヘルム・グロトリアンSr. は1893年にヴィリをシカゴへ連れていった。
シカゴで開催されたコロンブス万国博覧会でグロトリアン=シュタインヴェーク社のピアノは
メダルを授与された。ピアニストのオイゲン・ダルベール、イグナツィ・パデレフスキ、
クララ・シューマンはグロトリアン=シュタインヴェークのピアノを好むと表明した。
グロトリアン=シュタインヴェークはベヒシュタイン、ブリュートナー、フォイリッヒ、
イバッハ、リップ、スタインウェイのハンブルク工場と共にドイツのトップピアノ製造会社に数えられた。
1895年、ヴィルヘルム・グロトリアンSr は2人の息子を共同経営者とした。
父は息子達に「いいピアノを作りなさい、残りはすべて後からついてくる」という社訓を残した。
ヴィリ・グロトリアンは、グロトリアン=シュタインヴェークがピアノ生産に使うシステムと
スタンダードの改善を系統的に始めた。
グロトリアン=シュタインヴェーク・ブランドは最高品質のものとしてよく知られた。
会社は30の帝室・王室の御用達の称号を得た。
所有者のヴィルヘルム・グロトリアン、ヴィリ・グロトリアン、クルト・グロトリアンは
オーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達を授与された。
■20世紀
ブラウンシュヴァイクにおいて、グロトリアン=シュタインヴェークは1913年までに
500人の従業員を抱えるまで成長し、毎年約1600台のピアノを生産した。
グロトリアン=シュタインヴェークオーケストラは若い指揮者ヘルマン・シェルヘンの指揮の下
ライプツィヒで活動した。グロトリアン専門店がライプツィヒ、ハノーファー、ケーニヒスベルク、
デュッセルドルフ、ベルリンで営業していた。
第一次世界大戦中、クルト・グロトリアンはドイツ陸軍の軍務に服するため工場を離れた。
クルトは程なくして負傷し、捕虜となった。ヴィルヘルム・グロトリアンは1917年に死去した。
息子のヴィリ・グロトリアンが会社を率いたが、労働力とピアノの注文は大幅に減少した。
戦後、会社は以前のように回復し、グロトリアン=シュタインヴェークのブランド名の下で
ロンドン店を立ち上げることによって1920年に売り上げを延ばした。従業員は1000人に増えた。
1924年、グロトリアン=シュタインヴェークは微分音音楽作曲家イワン・ヴィシネグラツキーのために
特殊なピアノを製造した。このピアノは3段の手鍵盤と四分音離れて調律された弦を持っていた。
1927年まで、グロトリアン=シュタインヴェークは毎年約3000台のピアノを作っていた。
この数字は世界恐慌の間の1930年代に著しく落ち込んだ。1931年には500台未満のピアノしか作られず、
従業員は200人未満に減った。
クルト・グロトリアンは1920年代末に重病を患らい、1928年に2人の息子エルヴィン(1899年-1990年)と
ヘルムート(1900年-1977年)を株主にした。
1929年、クルト・グロトリアンは古い戦傷の合併症により死去した。
ヴィリ・グロトリアンは1931年に死去した。
第二次世界大戦中、グロトリアン=シュタインヴェークの工場は(ドイツの多くの他社と同様に)
航空機の組立部品に転向するよう命令された。工場は1944年のブラウンシュヴァイク爆撃によって破壊された。
街の中心部にあった創業者の屋敷も同様に破壊された。
その後、エルヴィンとヘルムートは工場を再建した。1948年までに生産は再開した。
作曲家でピアニストのヴィルヘルム・ケンプは戦後に製作されたピアノの「響きと精緻な出来栄え」の
称賛者として録音を続けた。
■商標争い
商標に関する2つのピアノ製造会社間の最初の摩擦は1895年に起こった。
1895年、スタインウェイ・アンド・サンズはグロトリアン=シュタインヴェークがピアノに関して
「シュタインヴェーク」という名称の使用を止めるよう提訴した。スタインウェイは裁判に破れたが、
1919年1月、ヴィリとクルト・グロトリアンはさらなる訴訟を防ぐことを期待して、家業の商標を守るために
姓をグロトリアン=シュタインヴェークに変更する決断をした。
1925年、会社はグロトリアン=シュタインヴェークカンパニーと呼ばれるデラウェア州法人として
米国での販売事業を立ち上げた。
続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークが米国で販売したピアノはわずか15台であった。
1928年にピアノの販売を発見すると、スタインウェイ・アンド・サンズは販売代理店と
グロトリアン=シュタインヴェークに抗議したが、1929年にグロトリアン=シュタインヴェークは47台の
ピアノを米国へ送った。スタインウェイ家の代表者はグロトリアン=シュタインヴェーク家と
この問題について直接話し合うためにドイツへ赴いた。
秘密協定が合意に達すると、両家の代表者は「友好の葉巻」を吸い、グロトリアン=シュタインヴェークは
それ以降米国での「シュタインヴェーク」および「グロトリアン=シュタインヴェーク」の名称の使用を止めた。
1930年、デラウェア州法人は 解散し、続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークから米国への輸出は減少、
その後完全に中止した。
1950年、グロトリアン=シュタインヴェークは(使われることのなかった)1926年の古い商標出願を放棄した。
1961年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェーク(1935年生)が会社に加わった。
1966年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は米国でのピアノ販売のためにウーリッツァーと契約を結び、
スタインウェイ社はニューヨーク州で訴訟を起こした。裁判は9年続いた。
1975年、合衆国第2巡回区控訴裁判所は、
「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf. 対Steinway & Sons」の陳述を聴取した。
原告のグロトリアン=シュタインヴェークは彼らのブランド名は長く確立したものであり、
ドイツにおいてスタインウェイのブランド名より前から存在する、と主張した。
被告側のスタインウェイ・アンド・サンズは、米国においてよく知られ強く確かである彼らのブランド名が
消費者の混同によって弱められた、と反訴した。
控訴審は、ピアノ購買者は2つのピアノブランドがあることで「購買前の興味」において誤って導かれることになり、
「潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」として
被告側を支持した下級審の判決を支持。
控訴審は、米国では非常によく知られたブランドではないグロトリアン=シュタインヴェークは
スタインウェイ・アンド・サンズが築いてきた確固たる評判に基づいて一定の余分な信頼性を不当に得ている、
と考えた。高級ピアノの購買者が洗練され博識であると理解され、購買時にどの製造会社がどのピアノを
製造しているかに関して混同していなかったとしても、グロトリアン=シュタインヴェークのブランドに対する
最初の関心時に「意識下の混同」が存在するかもしれない、と控訴審は考えた。
グロトリアン=シュタインヴェーク社は1977年以後「シュタインヴェーク」の名称を使った米国での
ピアノの販売を禁止された。その結果、1976年にグロトリアン=シュタインヴェークは北米でピアノを
販売するための補助的なブランドとしてグロトリアン・ピアノ・カンパニーGmbHを作った。
裁判は現在「購買前の混同」として知られる概念を定義した初の裁判例であった。
地方裁判所判事ロイド・フランシス・マクマーンは「購買前の混同へと欺いて導かれ、
潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」と述べた。
「購買前の」混同に関するロイド・フランシス・マクマーンの考えは控訴審判事ウィリアム・H・ティンバース
によって追認された。ティンバースは「こういった購買前の混同はスタインウェイに損害を与える」と述べた。
グロトリアンのウェブサイトの英語版は、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版とは異なり、
「シュタインヴェーク」という姓に一切言及していない。これはおそらく訴訟の結果であり、
法的責任を最小化したいという願望のためであろうとも考えられる。
■現在の業務
1974年、グロトリアン=シュタインヴェーク家はブラウンシュヴァイク北東部に新たな工場を建設した。
ヘルムートとエルヴィン・グロトリアン=シュタインヴェークは引退し、ヘルムートの息子クヌートが
トップとなった。この工場が現在のグロトリアン=シュタインヴェークの生産拠点である。
1999年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェークは社の指揮から退き、日常的な管理を
ブルクハルト・シュタイン(インダストリアルマネージャー、ピアノ職人)の手に委ねた。
2012年時点で、グロトリアン=シュタインヴェーク社はエルヴィン・グロトリアンの娘とクヌートの息子で
株主の6代目ヨブスト・グロトリアン(1969年生)によって所有されている。
毎年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は6種類のサイズのアップライトピアノ約500台と5種類のサイズの
グランドピアノ約100台を生産している。毎年20台程のコンサートグランドピアノが作られており、
その製造にはそれぞれ8か月を要する。2010年、特別な175周年モデルとして「Composé Exclusif」と呼ばれる
118cmのサイズのアップライトピアノを発表し、50台が生産された。
2015年4月1日、柏斯琴行(Parsons Music Group、香港を拠点とする1986年創業の企業)が
グロトリアン=シュタインヴェークの株式の大半を取得した。
2017年、第2ブランドfriedrich GROTRIAN(フリードリッヒ・グロトリアン)が作られた。
このブランドのリム、鋳鉄フレーム、響板は中国(Parsons Music)で作られ、最終的な組み立て、
アクション組込み、仕上げがドイツで行われる。アクションは大部分がレンナー社製が使われている。
2018年以降、製造が完全に中国で行われる第3ブランドとして
WILHELM GROTRIAN(ヴィルヘルム・グロトリアン)と
WILHELM GROTRIAN STUDIOが存在する。
前者は高さが46インチから52インチの間のアップライトピアノ4モデルと、
長さが5フィートから6フィート11インチの間のグランドピアノ3モデルである。
WILHELM GROTRIAN STUDIOブランドは、アップライトの高さが45 1/2インチから48インチ(3モデル)と
グランドピアノの足さが5フィートまたは5フィート5インチ(2モデル)である。 |
GROTORIAN & SONS


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GROTORIAN & SONS グロトリアン・アンド・サンズ
ドイツの「GROTRIAN」とは違うピアノのようですが、詳細は不明
本場ドイツ製のグロトリアンとは違い、スペルが違います。
ドイツ製グロトリアンのスペルは「GROTRIAN」ですが、こちらは「GROTORIAN」になっています。
「O(オー)」が1文字多く入っています。
雰囲気的には韓国製っぽいですが、詳細はまったく不明。
トレードマークはローゼンクランツ(ROSENKRANZ)やシュベルマン(SCHWÄLMEN)と同じなので、
アイケー・ピアノ社か?不明。 |
GRUNEWALD
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グルーネバルト ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
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GUILBERT
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ギルベール プルツナーピアノ製造(株) その他詳細不明 |
ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング

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メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他
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K. KAWAI |
ケイ・カワイ 株式会社 河合楽器製作所 |
K. HERRMANN
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K.HERRMANN K・ヘルマン 日産楽器(浜松市) 詳細不明
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K. TORIYAMA |
ケイ・トリヤマ
製造元:東洋ピアノ製造株式会社
製造元:株式会社 河合楽器製作所
発売元:鳥山楽器店 |
KAFMANN


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カフマン KAFMANN 韓国製
注:イタリア製ではありません、イギリスのKAUFMANNでもありません
カフマンのまくり(フタ部分)の銘柄マーク →★
カフマンの画像はすべて匿名希望者様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
※参考
下記に列挙するブランドはすべて同じ雰囲気のトレードマークとなっており、どれも韓国製造と思われます。
REID-SOHN、KAFMANN、SAMICK、SCHNABEL、WEINBURG、U. WENDELL、UHLMAN SUPER |
KAISER



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カイザー
天龍楽器製造株式会社
日本楽器製造株式会社
ヤマハ株式会社
発売元:河合楽器株式会社
河合楽器(河合ピアノの河合滋氏の義兄の設立)が
日本楽器の天竜工場にオーダーして作ったピアノです。
製造がヤマハで、売るのがカワイということで不思議な感じがしますが、
カワイピアノ製作所とは関係がなく、エテルナと同じ背景のピアノです。
販売するお店が京橋にあったので京橋カワイとも呼ぶ人もいます。
機種バリエーション:35等
ピアノの歴史ってなかなか面白いですよね♪
カイザーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KAYSERBURG
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中国 カイザーバーグ/カイザーブルグ?読み方不明
製造:パールリバー アップライト及びグランドも製造
その他詳細不明
HP:https://kayserburgusa.com/ |
KALLMAN
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カルマン 井ヅツピアノ(井ヅツ楽器株式会社)大阪 井ヅツピアノで発売したブランドの一つ。
その他詳細不明
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KALLMANN



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ゲルスカルマン/ゲルス・カルマン/ゲルス・アンド・カルマン/(グロスカールマン)
GÖRS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
昭和楽器の製造
機種バリエーション GK2000など
ドイツ(旧西ドイツ)製にも同じ名前(R.GÖRS & KALLMANN)がありますがまったく違います。
音色・作りはローレックスKR27等に近い感じです。その他詳細不明。
ピアノ天板をあけると裏に貼ってある昭和楽器の品質保障シール
(作ったピアノすべてに貼ってるとは思いますがね) →★
<参考>
H. GÖRS & KALMANというアトラスピアノ製造が作っていたピアノもあり(→スペル内のLとNが1個)
カールマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KAPS

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カップス KAPS ドイツ
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック
(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)
1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。 |
KARLEN
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KARLEN カーレン 日本 杉山直次 詳細不明
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KAUFMANN
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カフマン イギリス 詳細不明
※韓国製のKAFMANNとは違う
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KAWAI














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カワイ KAWAI (株)河合楽器製作所 創業1927年
※森興業株式会社
言わずと知れた日本のピアノメーカーです。ヤマハに次ぐメーカーです(生産台数として)
世界に目を向けても世界第2位の製造台数です。
トレードマークは時代によって大きく変更されたり、微妙に変わったりしています。
ちなみに製造台数(アップライトピアノ)は、ヤマハが618万台、カワイが258万台となっています。
ヤマハはカワイの倍以上の製造をしていますね。(西暦2007年時点に於いて)
製造番号はすべて1番からの通し番号で、二つとして同じ製造番号はありません。
従いまして、メーカーの製造番号から製造年も分かります。
日本楽器(現ヤマハ株式会社)に12歳から勤務していた河合小市氏が独立し、
昭和2年(西暦1927年)に河合楽器研究所として設立したのが始まりです。
カワイは日本で初めて独自のアクションを製作したピアノ会社です。
X-JAPANのYOSHIKIがカワイの透明なピアノ(クリスタルピアノ)を使っているのは有名です。
某調律師さんからこのカワイのクリスタルピアノについて下記のような情報を頂きました。
ヤマハ内部の人からの情報によりますと、YOSHIKI氏が以前浜松駅で展示されてたこのクリスタルピアノを見て、
同じような感じのピアノを作って欲しいとヤマハに一度オーダーを持ちかけたようです。
しかし、ヤマハは「プラスチック(アクリル)のボディーで作ったピアノは弊社の求める音では無い」と拒否。
それでもYOSHIKI氏は、どうしてもそのプラスチックピアノが欲かったらしく、結局カワイに頼んだそうです。
先日、1台1億円もするクリスタルピアノがカワイから売り出され、高額すぎない!?と話題になりました。
力ワイ・ピアノは、アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクールと、
ショパン国際ピアノコンクールで、公式楽器に認定されました。
<豆知識>
カワイのアップライトピアノに一時期採用された「トーンモダレーター」と呼ばれる、
響板の一部に開けられた小窓穴により、響板内に響く籠もった音をピアノの裏側へ排出拡散させ、
音の重なりやハーモニーを豊にさせようとする目的で開けられた穴のことですが、
このトーンモダレーターの採用は一時期のみで、その後一切採用されなくなりました。
カワイのアップライトピアノのアクションレールに貼られたシール
→★
同じくカワイのアップライトピアノのアクションレールに貼られた別バージョンシール(JIS8341)
→★
古いカワイ内部にある防錆剤(ダイアナ)の小袋 →★ カワイの昔懐かしいキーカバー →★
昭和38年製カワイピアノの証明書(保証書) →★ 昭和38年製カワイピアノ(K48)御愛用の栞 →★
カワイのまくり(フタ部分)にあるKAWAIブランド銘柄マーク
→★
<カワイの歴史>
河合小市氏は1897年から日本楽器(現ヤマハ)に勤めていたが、1927年に独立して自身の会社を設立した。
河合が最初に製作したピアノは64鐽のアップライトで、350円で売られた。そしてその一年後、河合は最初の
グランドピアノを製作する。河合が会社創成期に克服しなくてはならなかった困難は並大抵のものではなかった。
優秀な職人も、良質の材料も不足していただけでなく、販売網が確立されていなかったからだ。
1930年代にはすでに社名が河合楽器製作所となり、年間250台程度だった生産高が1,000台にまで増大したが、
第二次世界大戦で工場は完全に破壊され、将来の見通しが立たなくなってしまった。
河合小市氏の努力と前向きさに加え、学校のカリキュラムに音楽が組み込まれたことも追い風となり、
工場は再設立され、1949年にはアップライトとグランドの生産が開始された。
1953年にはピアノ生産高が年間1,500台にまで伸び、従業員数は500人になった。日本におけるカワイの多大な
功績を称えられ、河合小市氏は天皇陛下より栄誉ある藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章した。
このような賞を受賞したのは楽器産業界初であった。
1955年に河合小市氏が亡くなると、息子の河合滋氏が会社を引き継ぎ、生産高を向上させるため、
工場に近代的な生産技術を導入する。河合は若い親たちに子どもの音楽教育の有用性を訴えるなど、
積極的なセールス手法をとり、特にピアノを推奨した。そして全国規模の音楽教室のネットワークと、
音楽講師の養成学校を設立した。その後、河合は生産ベースを工場1ヶ所から14ヶ所に拡大する。
その中には1988年に設立されたアメリカの工場も含まれる。
1960年代、力ワイは約2,000人の訪問セールス員を雇い、カワイ音楽教室には300,000人以上が受講。
アメリカ国内でピアノと電子オルガンを販売するため、1963年に力ワイアメリカコーポレーションが設立され、
力ワイヨーロッパ、力ワイカナダ、力ワイオーストラリア、力ワイアジアが続いて設立された。
1980年、面積29,879平方メートル(9,038坪)の工場が建設され、
1日に60台のグランドピアノを生産することが可能になった。
1989年に滋氏の息子の河合弘隆氏が社長に就任し、製造工程にロボット技術を導入するために
莫大な資金を投入した。近年、会社は生産拠点をアメリカやマレーシアなどの日本国外に設立した。
より丈夫で安定したアクション部品の材料を追求し、力ワイは他に先駆けて新素材を使用し始め、
現在の力ワイのアクション部品はABS樹脂などでできている。
<附録>
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1951年~1988年) →★
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1988年~2012年) →★
<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)に勤務していた河合小市が独立し、1927年(昭和2年)に
河合楽器研究所として設立された。1935年(昭和10年)に合名会社、1951年(昭和26年)に株式会社へと改組。
1952年(昭和27年)に河合小市が死去すると、1955年(昭和30年)、娘婿の河合滋が社長に就任。
1956年(昭和31年)にカワイ音楽教室を創設、音楽教育事業によるユーザ層の拡大に乗り出すと共に、
1989年(平成元年)に河合弘隆が社長に就任し、滋は会長に専任となった。
河合滋が社長を務めていた頃は、業界に先駆けてピアノの割賦販売を打ち出すなど、同業のヤマハと切磋琢磨し、
日本の音楽普及に貢献した。
バブル時代にはゴルフ場事業等にも進出し、非ピアノ事業の育成を企図した多角化を行ったが、
近年はピアノ事業に回帰する姿勢を鮮明にしている。
ピアノを中心とした楽器製造・販売のほか、近年はカワイ精密金属などでピアノの部品素材のノウハウを生かした
半導体素材の生産も行っている。
かつてはDTM関連製品やムーンサルト、F-I、Rockoonシリーズ等のエレキギター/エレキベース、
K5000シリーズなどのシンセサイザーを製造・販売していたが、現在では楽譜作成ソフトウェア
「スコアメーカー」や入力用の小型キーボード「HYPERCAT」を除き撤退している。
出版部門は「カワイ出版」のブランドで、多くの楽譜、音楽書を出版している。
音楽書以外にも絵本等の出版も行っている
また、ピアノの製造過程で出る端材を活用して、木製の玩具なども発売している他、
学校向けのスポーツ用具も製造している。
国内のアコースティックピアノにおけるシェアはヤマハが約6割、同社が同4割で長らくこの比率は変わっていない。
ヤマハが特約店方式で各地の楽器店と契約しているのに対し、全国に直営店を展開している。
グランドピアノは1990年代まではドイツ製ピアノの影響が強い製品を製造していたが、
現在ではスタインウェイの特徴を取り入れ、近代化されたRXシリーズを中心に、手作り工程と
入念な出荷調整を取り入れた高級機SKシリーズ、コンサート用のSK-EXシリーズを出荷している。
アップライトはKシリーズを出荷している。
いずれも炭素繊維強化プラスチックを採用してレスポンスを改善したアクションを特徴としている。
また騒音対策としてエニタイム仕様やピアノマスク仕様のピアノも出荷している。
他にも外装部が透明アクリル樹脂でできているクリスタル・ピアノ「CR-40A」を受注販売している。
連合赤軍あさま山荘事件の発生当時、連合赤軍に占拠されたあさま山荘の所有者であった。
(正確には当社の健康保険組合の所有)
1970年代以降、カワイはピアノ性能の一貫性と安定性を向上させるための代替素材の使用を開拓してきた。
1971年、カワイは木材の使用と関連する問題を克服するためにアクションの部品に
ABS(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレン)複合材料を使用し始めた。
カワイの設計エンジニアは、湿度の変化にともない顕著に収縮および膨潤する性質を持つ木材は、
安定なピアノタッチを確保するために厳密な公差を維持しなければならないピアノアクションで使用するためには
理想的とは言えない、と結論を下した。
そのため、彼らは選ばれた木製アクション部品を徐々にABS部品に置き換えた。
カワイによれば、カリフォルニア州立工科大学ポモナ校、教授Abdul Sadatによって
1998年に行われた科学的試験では、カワイのABSアクション部品が相当する木製部品よりも強く、
湿気による収縮と膨潤に対してはるかに影響されにくいことが明らかとなった。
カワイは、複合材料部品の使用によってカワイのピアノアクションは他のメーカー製のものよりも安定で
一貫性があると宣伝している。
2002年、カワイは炭素繊維入りABS樹脂を使ったウルトラ・レスポンシブ・アクションを発表した。
ABSカーボン(ABS-Carbon)と名付けられたこの新素材はカワイのアクション部品の強度を高め、重さを低減し、
これによって全体のアクション操作がより速くなった(トリルを演奏する時のコントロールのために
非常に重要である)炭素繊維の追加はABSカーボンアクション部品の剛性も高め、
これによってアクションは奏者のより少ない労力でより大きな力を生み出すことが可能となった。
カワイは、素材および設計におけるこれらの進歩が長年にわたって高い堅実性を持って
ウルトラ・レスポンシブ・アクションが奏者の意図により正確に応答するのを助ける、と強く主張している。
※一般向けグランドピアノとフルコンサートグランドの中間的ピアノである「SHIGERU KAWAI」という
特別ブランドも河合楽器製作所から出しております。詳しくは→Shigeru Kawaiの項目へ
カワイのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
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KAZUMI |
カズミ
アトラスピアノ製造株式会社 |
KEIMAN
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KEIMAN カイマン 永栄楽器(名古屋)、東洋ピアノ製造(株) 浜松市竜洋町高木
その他詳細不明
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KEMBLE

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KEMBLE ケンブル イギリス ミルトン・キーンズ
Kemble and Company Ltd.
ケンブルのピアノは、豊かでまろやかなヨーロッパ的な音色で知られている。
バイエルンの「持続可能森林」のスプルース材が響板に用いられており、また鍵盤も
さまざまな気候条件において安定した状態を保てるように同じくスプルース材で出来ている。
クァンタム131の外装デザインは、イギリスの有名なデザイン会社
コンラン・アンド・パートナーズ社が手掛けた。
ケンブルの従業員の70パーセント以上が同社で15年以上働いており、その豊かな経験は
世代から世代へと工場の中で受け継がれている。
1930年代に生産された『ミンクス』というアップライトピアノは高さが90cmしかなく、
アクションは鍵盤より下に位置するため、鍵盤後部が上がることによって突き上げるのではなく、
下から引き上げることでハンマーヘッドが弦へ向かう仕組みだった。
また追加で、弦が発する音量を弱くするモジュレーターを取り付けることができた。
ケンブルの輸入会社は成功し、1920年までにはロンドンのストーク・ニューイントンの工房で
自社の楽器を製作するようになった。第一次世界大戦までこの地域はピアノの町だったため、
ロバー卜・ケンブルは工房の職人を見つけるために、正面の窓にカーテン代わりにピアノフェルトを
吊るしている家を探してまわったという。そのような家を見つけると、戦前にピアノ工房で
働いていた者がいないか尋ね、もしいれば、その人を雇った。ケンブルは妻のいとこの
ヴィクター・ジェイコブスとともに働き、彼の会社は1920年代と30年代の厳しい経済情勢下でも
繁盛した。1935年にケンブル社は3つの新モデルを売り出す。ジュビリー(その年のジョージ5世
在位25周年を記念した名称)と、キュビストと、ミンクスだ。特に小型のミンクスの人気は
めざましく、これらの楽器への需要は生産が迫いつかないほど高まった。
1939年になると、ケンブル社は戦争に協力するため、爆撃機のドアを生産するようになったが、
戦後はすぐにピアノ生産を再開した。1967年、ケンブル社はクラーマー(Cramer)と
ブリンスミード(Brinsmead)のブランド名を買収し、翌年、ロンドンからミルトン・キーンズの
ブレッチリーへ移転した。ここでは今もアップライトピアノが生産されている。
その前の年に、ケンブル社はヤマハ株式会社の電子オルガンを配給する契約を結んでいた。
そしてその配給契約は株式購入へと発展する。1971年にヤマハはケンブル社の少数株主となった。
1980年代の初め、ケンブル社は廃業の一歩手前まで追い込まれるが、その寸前にディートマン・
ピアノをイギリスで生産するという大きな契約をイパッハ社から取り付ける。
1984年にケンブル社はまた苦境に陥り、ふたたびヤマハが多額の投資をして、
今回は株の過半数を取得した。1986年まで、ケンブル社はヤマハの名前でヨーロッパ市場向けの
ピアノを生産し、生産高を急激に増やすために大きな投資をした。1992年、ケンブル社は
輸出部門で英国女王賞を受賞。3年で輸出量が2倍以上になった。1999年に生産高はピークに達し、
約7,000台のピアノが生産された。そして現在も安定した生産高を保っている。
したがって、近年のものはヤマハ製アクションを使用している。
現在、ケンブル社はヨーロッパでも最も進んだピアノ製造工場を誇る。
1968年にロンドンの伝統的なピアノの町から、パッキンガムシャーのミルトン・キーンズへ
移った先見の明により、会社は見事な成長を遂げて、今やヨーロッパ最大のピアノ製作会社となった。
<附録>
ケンブルピアノ 製造番号/製造年対照表(1930年~2000年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ケンブル(Kemble)は、1911年にロンドン北部のストーク・ニューイントンでマイケル・ケンブルによって
創業されたピアノ製造会社である。
2009年の生産終了までイギリスで約35万台のアップライトピアノおよびグランドピアノを製造した。
父の会社を引き継いだ後、創業者の息子はピアノ生産をミルトン・キーンズのブレッチリーへ移転した。
1964年、イギリスのピアノメーカー・J・B・クラーマー& Co.を買収した。
1968年に日本の楽器メーカーヤマハとの合弁事業Yamaha-Kemble Music (UK) Ltd. が発足し、
この会社はイギリスにおけるヤマハの輸入・楽器およびプロオーディオ機器販売業務を担当した。
1986年、創業者の孫のブライアン・ケンブルが社長となった。
1980年代はイギリスの経済が落ちこみ、1986年にヤマハがケンブル& Co. の支援に乗り出した。
以後、2009年まで約12万台のピアノが生産され、1992年には輸出に関する功績によりピアノ産業として
唯一「The Queen's Award for Export Achievement」を授与された。
2007年7月、ヤマハはケンブル家が少数保有していたYamaha-Kemble Music (UK) Ltd. の残りの株式を購入した。
売却後、Yamaha-Kemble Music (UK) Ltd. はYamaha Music U.K. Ltd. に改名されたにもかかわらず、
この売却はヤマハのイギリスにおけるピアノ販売・製造部門であるKemble & Co. Ltd. には影響を与えなかった。
2009年、ケンブルピアノの生産は全てアジアへ移され、欧州での生産が終了した。
これによってイギリスにおけるピアノ製造の幕が降ろされた。
閉鎖時にも、ケンブルはまだ年間約7千台のピアノを輸出していた。
ケンブルは2018年現在中国で生産されるヤマハの手頃な価格のブランドである。 |
KEMP
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KEMP ケンプ 東日本ピアノ製造(株)浜松 詳細不明
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KEMPF
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KEMPF ケンプ 上記ケンプとは違うのか?不明 |
KEYFER
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KEYFER キーファー 日本 詳細不明
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KHOHL
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KHOHL コール ドイツ 詳細不明 |
KIMBALL


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KIMBALL PIANOS キンボール ジャスパーコーポレーション(アメリカ)
創業1857年 ※現在は生産されていません
キンボール社は小さな小売店から始まり、世界最大クラスのピアノ製造会社へ発展した。
それは創立者のウィリアム・ウォレス・キンボールの賢明さと努力の賜だったとも言える。
キンボールは音楽的なバックグラウンドはなかったものの、1850年代の市場変化への優れた洞察力を持ち、
アイオワの土地を売ってグロヴェスティーンとトラスローのスクエアピアノを4台購入し、
1857年にシカゴに小売店を開いた。
1864年、キンボールは名門クロスビー・オペラハウスの中に店舗を設け、低価格のリードオルガンや、
チッカリング、ヘールなどの東海岸のメーカーのピアノを販売した。
キンボールは精力的に働き、すぐにアメリカ西部で最大のピアノディーラーになり、会社は繁盛し続けたが、
1871年にシカゴ大火に見舞われ、キンボール社はすべての商品と在庫、ならびにショールームを失う。
ジョセフ・ヘールはキンボールが築き上げてきた業績への尊敬の念から、「とりあえず私の10万ドルを
使って下さい」と、火事の当日に電報を打ったと伝えられている。
キンボールは店を自宅に構えなければならないほどだったが、1880年には100万ドルを超える
収益を上げるようにまでになった。
1880年代にはリードオルガンの生産を開始し、1882年に面積960,000平方フィート(89186平米)
の工場をオープンしてからは、年間15,000台もの楽器を製造するようになった。
1887年に既存のオルガン工場を増設し、1888年からはそこでピアノの生産がスタートした。
最初の年に生産された500台のピアノは満足のいかない出来だったが、スタインウェイやベヒシュタインに
勤めていた技術者を雇ってからは、楽器の品質が一気に向上した。
キンボール・ピアノは積極的に売り込まれ、数多くのショールームに展示された。
そして展示にとどまらずキンボール社は40人の出張セールスマンによって販売もされ、北米の隅々まで
販路を広げるためにキンボールに雇われた人たちだった。
そうしたことで、キンボールは、パイプオルガンおよびピアノ製造の伝統的な長い歴史を持ち、
現在では電子オルガンのメーカーとしても世界的に知られている。
生産するピアノの種類は極めて多く、スピネットからコンサートグランドに至る各種ピアノのほかに、
プレイヤーピアノ(自動ピアノ演奏)まで作っている。
ウィリアム・ウォレス・キンボールは会社を後継者に遺して1904年に亡くなった。
キンボール社は中価格市場向けのピアノを生産し、1910年に絶頂期を迎えるが、1959年には破産状態に。
原因は1930年代の大恐慌と、当時の社長W.W.キンボール・ジュニアによる度重なる楽観的な判断だった。
1959年、オフィス家具メーカーのジェスパー・コーポレーションというインディアナ州の
アメリカ屈指の巨大なテレビおよびステレオなどのキャビネットメーカーの傘下になり、
社名はキンボール・インターナショナルに改められました。
従業員はピアノ製作の経験がなく、生産したピアノの半分が工場に戻ってくるという結果になったものの、
キンボールピアノは他のメーカーと比較した場合、はるかに有利な条件で木材が入手出来たという。
その後、生産技術は向上し、1966~67年にかけてオーストリアの偉大なピアノメーカーである
ベーゼンドルファー社を買収し、さらに1980年にはアメリカのクラカウアー社を買収したことにより、
ピアノ製作面でのサポートを得て、 その秀でたピアノ製作技術がキンボールに導入されました。
その後、1995年にグランド製造中止、翌年1996年にはアップライトも製造中止に。
<キンボール社の特徴>
キンボールはその長い製作の歴史の間に、幾多の構造上・デザイン上のパイオニア的役割を果たしています。
第一に挙げられるものとしては、”ライフクラウンド”とよばれる響板の改良である。
これは気温や湿度の変化に対して絶対に割れる危険性のない、通常の3倍の強度を持ったものとのことだ。
また、”ユニロック”とよばれるチューニングピンを確実に保持する装置の開発によってピアノの調律を
長持ちさせることに成功している。
さらにキンボールは、”スーパーフォニックスケール”とよぶアップライトピアノの音色を、
グランドピアノの音色に近づける方法や、耐水接着剤の使用を可能にしたエレクトロニック接着法の開発、
その他幾多の新技術をピアノ工業へ導入し、その製造技術を飛躍的に向上させました。
また、現在あらゆる鍵盤楽器に白と黒の鍵盤の原型を作り出したのもキンボールであると伝えられています。
ピアノやオルガンの白鍵と黒鍵の配列法は非常に微妙で、黒鍵は白鍵の真ん中にはなく弾きやすいように
各音によって少しづつ左右にずらしてあります。
ピアノのまくり(蓋部分)にあるKIMBALLのブランド銘柄マーク →★ キンボールの外観全体写真 →★
画像はすべて「gunchan様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
<過去にキンボール社が取り扱ったピアノブランド名>
Kimball、Conn、Jasper-American、W.W.Kimball、Hinze、Harrison、Schuerman、
DeVoe & Sons、Whittaker、Becker、La Petite、Krakauer、Whitney、Whitmore
キンボールのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KIMURA PIANO |
キムラ・ピアノ 木村末雄・正雄 |
KINCAID

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キンケイド KINCAID アメリカ(ノースカロライナ)
ノースカロライナのモルガントンで作られているピアノで、会社名はグランドピアノ会社。
この会社名から推察すると、グランドピアノを専門に作っているように想像できますが、
名称とは真逆に安価なアップライトのみを作っており、ピアノには15年の保証をつけて販売。
キンケイドピアノには種類が多く、約25種類もある。
日本のピアノといえば黒塗りが多いが、アメリカやヨーロッパのピアノといえば、
生地塗りや部屋の模様にマッチしたさまざまなデザインのものが多いのが普通です。
キンケイドにもさまざまなデザインのものがありますが、そのデザインにも伝統的な
流儀があり、あまり突飛なものがあるわけではありません。
ちなみに、キンケイドピアノのデザインは大きく分けて次の9種類に分類されます。
■モダン:近代的なデザインののっぺりしたデザイン(別名ボックストライク)
■コンテンポラリー:現代風の部屋にマッチしたケースのピアノ
■トラディショナル:伝統的なスタイルのケースで、アメリカでは最も人気
■トランシィショナル:過渡期という意味で、トラディショナルとコンテンポラリーの中間的デザイン
■アーリー・アメリカン:開拓史時代のデザインのケース
■スパニッシュ:スペイン風の優雅なスタイルのケース
■フレンチ・プロビンシアル:フランスの田舎風なという意味で、ネコ脚のついたロココ風な優美なデザイン
■イタリアン・プロビンシアル: イタリアの田舎風なという意味で、古風なデザイン
■メディタレニアン:地中海風のという意味で、重厚なデザインのもの
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KING
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キング アメリカ(シカゴ) 詳細不明
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KING DAVID
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キングデイビッド 台湾(中国)
聲茂楽器製造股份有限公司
工場は新竹県湖口工業区にある。
奥行き140cmのベビーグランド1種類のみ製造し、アメリカやイギリスなどに輸出していたとのこと。
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KINGSBURY
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キングスブリー ケーブル・ネルソン(ケーブルピアノ社) アメリカ(オレゴン州)
このブランドは、学校やピアノ教育専用に使われているとのこと。
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KIRKMAN


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KIRKMAN カークマン イギリス(ロンドン)
KIRKMANに関する画像はすべて「アンジュールの家」様よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
チューニングピンが特殊な形状ですね。通常のチューニングハンマーでは調律出来なさそうです。
■ 前パネ部分には見事な象眼細工が施されております。その外観写真 →★ →★
■ まくり(フタ)部分の銘柄マーク →★ →★
その他詳細不明
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KNIGHT

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ナイト Knight イギリス・ロンドン/イングランド Since 1935
ナイトのアップライトピアノは温もりのある歌うような音色で、高音部は均一な響きを持つ。
ナイトの鉄フレームは標準的なピアノのフレームの二倍の強度を待つ。それは桁の構造原理に基づいた
全周フレームで、ビーチ材の4本支柱の背面構造に固定されている。
極めて高い調律の安定性を得るため、ピン板はフレームのポケットに収められている。
K10モデルには高音部のストレスバーがない。ピアノの左下の角に弦張力に抵抗するためのバーが
何本かあり、響きが弱くなることを防ぐ。チューニングピンを支えて調律の安定度を強化するため、
硬質繊維板のビンブッシュが用いられている。重い純銅線が巻かれた低音部の弦は総重量が3Kgある。
<歴史>
ラジオ、映画、蓄音機の出現によってすでに苦しんでいたピアノ産業は、
1930年代の大恐慌でさらに大打撃を受ける。
そのような状況ドの1935年に、アルフレッド・ナイトは絶大な自信をもってロンドンに会社を設立した。
アルフレッド・ナイトはさまざまなピアノ会社で働いた経歴があり、また才能のあるピアノ奏者でもあったため、
自分が作った楽器を喜んで実演していた。
ナイトのピアノ作りへの情熱は報われ、創業から10年経つ頃には、
ナイト社は年間1,000台のピアノを生産していた。
第二次世界大戦中もナイト社は政府からの受注でピアノを作り続けた。
1944年のノルマンディー上陸作戦の直後、保護のため金属の緑を取り付け、ビールをこぼしても大丈夫なように
特別に作られた9台のナイト製ピアノが、ヨーロッパ大陸へ上陸したと言われている。
戦時中もピアノ生産を中断せずに済んだナイト社は、戦後、他メーカーに大きな差をつけることが出来た。
アルフレッド・ナイトは輸出先を開拓しようと休みなく働き、自社のピアノが高い水準に達していることを
センスとユーモアを交えて実演してみせた。
1955年、アルフレッドは会社をエセックス州ラフトンの大きな工場へ移し、50年代の終わりに
ブリティッシュ・ピアノ・アクション社の経営権を取得した。
アルフレッドは当時新たに開発されたプラスチックを用いて、自らピアノアクションの再設計に着手した。
彼は黒鉛を含ませたナイロンとグラスファイバーを用いて、摩擦のないジャックとフレンジを
作り出すことに成功し、さらに、染みがつかない白いプラスチックの白鍵キートップを開発した。
アルフレッドが亡くなると、会社の経営は娘の一家が引き継いだ。
1991年から、ナイト・ピアノは自社仕様の楽器の生産を、ブリティッシュ・ピアノ・マニュファクチャリング社の
一部であるウェルプデール、マックスウェル・アンド・コッドに依頼している。
<附録>
ナイトピアノ 製造番号/製造年対照表(1936年~2000年) →★
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KOHLER & CAMPBELL



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KÖHLER & CAMPBELL (ケーラー・アンド・キャンベル)は1896年ニューヨークで創業、
1983年までに毎年約1万台を生産し、約800,000台以上のピアノを世に送り出した
アメリカ最古のピアノメーカーのうちのひとつです。
1977年、韓国のサミックにブランド譲渡され、輸出向けブランド「ケーラー&キャンベル」として 、
外装・組み立て等工賃のかかる工程をインドネシアで仕上げることによって、
コストパフォーマンスに優れた製品に改変。
日本に輸入されたピアノは、東洋ピアノの管理の中で出荷調整がなされ国内販売されています。
近年販売されたピアノはKÖHLERではなく、どこの部分を見てもKOHLERになっていますが詳細不明。
ピアノの拍子木にあるプレートの写真 →★
【歴史】
1896年にケーラーと、キャンベルの二人が組んでピアノ製作を始めたことからこのブランドが生まれました。
この会社は20年たたぬうちに、アップライトピアノ、自動ピアノと自動再生アクションの性能において
世界有数のものにのし上がったとききます。
このケーラー・アンド・キャンベル社は20世紀の初めに自動アクションの製作に専念し、
それを他のメーカーに販売する傍ら、ベルトミニヨンの再生アクションを作り出して、蓄音機が出来る以前、
はじめて一般の人にコンサート以外でピアノ演奏を聞かせるという功績を残しました。
その後、オート・ニューマチック・アクション社とスタンダード・ニューマチック・アクション社という
二つの子会社を作り、あらゆるピアノメーカーへ自動ピアノアクションを売り続け、その売上げは年間
5万台にものぼったと記録に残っています。
この会社は、その後アメリカで最も古いピアノメーカーであるフランシス・ベーコン社を吸収しているので、
その技術の源は1789年にさかのぼる最も伝統を誇れるものとなりました。
元来、ニューヨークにあった会社ではあったが、その後ノースカロライナに近代的な工場が建てられ、
全米その他に500もの代理店を持ったこともあります。
読み方
× コールアンドキャンベル、コーラーアンドキャンベル
○ ケーラーアンドキャンベル
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KLIBEL

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KLIBEL クリーベル 興和楽器製作所(浜松市天竜川西岸) S・クリーベル
クリーベルという名前は他にも多く、例えば、
■クリーベル(KRIEBEL)ドイツ製
■クリーベル(KRIEBEL)東日本ピアノ製造(株)静岡県浜松市天竜川町332番地(当時)
■クリーベル(CREABEL) 共立楽器 などがあります
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KLINGEL

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クリンゲル
昭和54年、浜松市の向宿町に設立されたトニカ楽器製造のブランドで、
戦前は東京神田神保町のピオバ楽器が広田ピアノに製作を依頼していました。
ですが、いま見かけるクリンゲルピアノは韓国製(英昌)がほとんどだと思われます。
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KLINGEL




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クリンゲル
※写真のトレードマークは韓国(英昌)製のものです
当時、協立楽器が販売しており、ローゼンストックなどと同じ系統のピアノです。
作りや音色もローゼンストックピアノとほぼ同じです。
■機種バリエーション
G803、G806、KU250、KU380、KU700など
クリンゲルピアノの保証書 →★ クリンゲルピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★
※広田ピアノ株式会社、トニカ楽器製造株式会社、浜松ピアノ製造株式会社、
及び有限会社ツルミ楽器との情報もあるが、基本的に韓国の英昌楽器製造のものばかりです
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KLINGMANN
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KLINGMANN クリングマン ドイツ 詳細不明
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KLUGE
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クルーゲ ドイツ(レムシャイト)
詳細不明
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
クルーゲ・クラヴィアトゥーレン(Kluge Klaviaturen、クルーゲ鍵盤)GmbHは、
ドイツ・レムシャイトの大手ピアノ鍵盤製造業者である。
毎年グランドピアノ、アップライトピアノ、およびオルガン用の鍵盤約8千個を生産している。
現在、クルーゲは欧州における最も重要なピアノ鍵盤製造業者である。
約50人の従業員が働いている。
1876年、イバッハ社の鍵盤部門の長であったヘルマン・クルーゲ(Hermann Kluge)が、
ノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータール近郊のバルメン(英語版)で
"Hermann Kluge Claviaturen-fabrik KG" を創業した。
この若い会社はすぐに市場での地位を獲得し、しばらくしてクルーゲはスタインウェイ・アンド・サンズを
顧客とした。生産数は順調に増加し、1902年には既に10万個目の鍵盤が作られた。
1943年までの生産数は50万個と推定される。
この年に全ての専用機械と供給品があった生産施設と事務所建物が破壊されたため、
正確な数をこれ以上遡ることはできない。
第二次世界大戦後、忍耐の時期に入った。賃貸の部屋で当初は家具や窓、扉などが製造された。
元の生産施設の復旧には膨大なエネルギーが必要であり、1946年に事務所建物の地下室で
鍵盤の修理を開始することができた。
ほぼ5年後、工場建物の復旧後、鍵盤の生産を再び開始することができた。
再開後の初年には既に500以上の鍵盤が完成された。
続く53年間、会社は多くの浮き沈みを経験してきた。
ハイライトは間違いなくベルリンにあった強力な競合企業Bohn Claviaturen社の買収であった。
Bohn Claviaturen社の生産はポーランドへ移転された。
また重要な出来事は、1999年にアメリカ合衆国の世界最大の楽器製造業者の一つである
スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツ社によってクルーゲ・グループが買収されたことであった。
クルーゲ社はこの取引によっていかなる損害も被らなかった。
背後に名高い親会社を持つことで、会社の強固な基盤が築かれた。
ほぼ全てのヨーロッパのグランドピアノおよびアップライトピアノ製造業者と自身の鍵盤生産部門を持たない
海外の一部の業者はほぼ例外なくクルーゲから鍵盤を輸入している。
クルーゲ社の広告文句は「The key tot quality and success」である。 |
KNABE


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WM. KNABE & CO. ウィリアム・クナーベ アメリカ
1839年創業 アメリカメリーランド州(都市:ボルチモア)
創業者:ウィリアム・クナーベ/ヴァレンティン・クナーベ(ドイツ生まれ)
アメリカン・ピアノ・カンパニー、
エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品の後、
現所有:ピアノディスク社 現在の製造はサミック社とのこと
※MASON & HAMLINの項目や、AEOLIANの項目も参照
1839年にアメリカのボルティモアに設立されたクナーベ社は、アメリカでもっとも有名な
ピアノメーカーのひとつとなった。
当初は「裕福な上流の人々に相応しい品質のピアノ」というスローガンで宣伝されたクナーベのピアノの音質は、
ダルベールやサンサーンスなどの一流のヴィルトゥオーゾに絶賛された。
またクナーベのピアノは見本市に出展されると、高い職人技と優れた構造を称えられて必ず賞を獲得した。
プロイセンの家具、ピアノ職人の見習いだったヴァレンティン・クナーベは、1833年にアメリカに移住し、
ピアノ製作者のヘンリー・ハーティーのもとで働き始めた。
クナーベは英語と商売の技術を学んだ後、1839年にヘンリー・ゲーレと組んで会社を設立し、
クナーベ・アンド・ゲーレのブランド名でピアノを作り始めた。
1854年にクナーベはゲーレから会社を買い取り、息子のウィリアムとアーネストとともにピアノの生産を開始。
ヴァレンティンが1864年に亡くなるまで会社は上質のピアノメーカーの地位を確立し、息子たちの指揮の下、
会社は繁栄し続けた。
1870年には毎年約500台のピアノが生産されるようになり、工場の再開発を経て1890年に生産高は、
年間2000台まで跳ね上がった。19世紀の終わりの四半世紀にクナーベは絶大な評価を得るようになり、
ニューヨークとワシントンにショールームが設立された。
ルービンシュタインをはじめ、多くの音楽家がクナーベ社の支援を受け、クナーベピアノでコンサートを行った。
1891年のカーネギーホールの「こけら落とし」ではクナーベ社がスポンサーとなり、チャイコフスキーを
ゲスト指揮者として招いた。
1889年と1894年にクナーベ兄弟が相次いで突然亡くなってからは、ヴァレンティンの孫が後を継ぎ、
1908年にアメリカン・ピアノ・カンパニーに吸収合併されるまで会社を経営した。
合併の1年後、ウィリアム・ジュニアとアーネスト・ジュニアはこの複合会社を去り、オハイオ州にクナーベ・
ブラザーズ・カンパニーを設立する。
クナーベ・ブラザーズ・カンパニーは短命に終わったが、1914年までクナーベ家伝統の音を
保持したピアノを生産。
会社の買収と、新たなクナーベ・ブラザーズ・カンパニーの設立があったにもかかわらず、元々のクナーベ社は
ピアノを販売し続け、1916年には生産高が年間3000台に達した。
1932年にアメリカン・ピアノ・カンパニーはエオリアン・コーポレーションの一部になり、アップライトと、
グランドピアノを生産し続けたが、1985年にエオリアン社が倒産し、クナーベのブランド名や設備、
型、未完成のピアノはすべて、ゾーマー・アンド・カンパニーへ売却された。
現在は、韓国のサミック社がWm.クナーベ(Wn.Knabe)のブランド名でクナーベピアノを生産している。
<附録>
クナーベピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Wm. クナーベ& Co.(Wm. Knabe & Co.、クナービとも)は、19世紀中頃から20世紀の初めまで
アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに存在したピアノ製造業者である。
1982年まではニューヨーク州イースト・ロチェスターのエオリアン・カンパニーの一事業として存続した。
現在は三益楽器(韓国)によって製造されるピアノの一ブランドである。
ヴィルヘルム・クナーベは1803年6月3日にザクセン=ヴァイマル公国クロイツブルクで生まれた。
1813年のドイツにおけるフランスの軍事行動によって父親のようにアポセカリーとなるために
学ぶことができなくなり、代わりにキャビネット職人に弟子入りし、その後2年間見習いとして働き、
次に3年間ゴータでピアノ職人のために働いた。その後ドイツのいくつかの都市でピアノ職人見習いとして働いた。
1831年、クナーベはザクセン=マイニンゲン公国からアメリカ合衆国へ移住する婚約者の家族に同行したが、
家長が航海中に死去したため、クナーベと花嫁は兄弟が数年早く定住していたミズーリ州ハーマンへの
旅の途中のボルチモアにとどまった。
クナーベは有名なピアノ職人Henry Hartgeの下で働き、結局は農業従事者になる計画を断念した。
4年後、クナーベはLexington通りのLiberty通りの角にある自宅で中古ピアノの販売と修理を始めた。
1839年、クナービはピアノを製造する目的のためにHenry Gaehleと共同経営を始め、
1841年までに彼らはSouth Liberty通り13にあるより大きな作業場へと移った。
1843年、彼らはEutaw通りとCowpenアレーの角に商品陳列室を開き、その4年後にはEutaw通り9に
商品陳列室を移転し、ここで180米ドルから400米ドルの価格でピアノを販売した。
1852年までに、店はEutaw通り4、6、8、9、11へと拡大した。
Knabe & Gaehleは1848年、1849年、1850年にスクエア・ピアノで、1849年にはグランドピアノでも
メリーランド機械振興会から一等賞を取った。
1852年、会社はEdward Bettsを共同経営者に加えてKnabe, Gaehle & Co.として再編され、
1853年までに宣伝された彼らの会社は南部で最大で、100人を超える工員を雇用した。
彼らは「チッカリングのようなダブルアクション」を持つ6から7オクターブの音域のピアノを製造し、
200米ドルから500米ドルで販売した。
1853年11月、Eutaw House近くのCowpenアレーにあった工場が火事になり、推定損失額は19万米ドルであった。
共同経営会社を解消するために1855年初頭に訴訟が始まった。
Henry Gaehleは死去し、クナービは残りの在庫と資材を全て購入したこと、Eutaw Houseの向いにある
North Eutaw通り1、3、5、7にある古くからの売り場でWm. Knabe & Co. として商売を続けると宣伝した。
代表社員となったWilliam GaehleはWm. Gaehle & Co. として営業を続けると宣伝し、Pratt通りとGreen通りの
角の工房でグランドピアノとスクエア・ピアノを製造し、Eutaw通りとFayette通りの角に展示場を構えた。
クナーベはWest通りとChina通りの角にあった元製紙工場を新工場のために購入し、1859年までに
ボルティモア通り207に商品展示場を開設した。
クナーベは1855年、1856年、1857年、1858年にメリーランド機械振興会からスクエア・ピアノで
金メダルを獲得し、1857年にワシントンDCのメトロポリタン協会から銀メダル、1856年に
フィラデルフィアのフランクリン協会からメダル、1855年と1856年にバージニア州リッチモンドの機械工協会から
一等賞を獲得した。
1860年、クナーベはEutaw通りとWest通りに新たに5つの工場の建設を開始したが、南北戦争の勃発のため
その中の一つしか完成できなかった。南北戦争によって、クナーベは南部の主要市場を失なうこととなり、
その損失を埋め合わせるために西部で新たな取引を開拓せざるをえなくなった。
ウィリアム(ヴィルヘルム)・クナービは1864年5月21日に死去し、
息子のウィリアムとアーネスト・J・クナービ兄弟と義理の息子のチャールズ・ケイデルが後を継いだ。
1866年、Wm Knabe & Co. は鋳鉄製フレームに直接螺入される代わりに
より重い真鍮の部品へと螺入されたアグラフを持つ「agraffe treble」を発表した。
1866年までに、彼らは約230人の工員を雇用し、年間約千台のピアノ(アップライト、スクエア、グランド)を製造。
工場は30馬力(22 kW)の蒸気機関や蒸気駆動のエレベータ、乾燥室を備え、グランドピアノのケース、響板、
アクションの製造、ケースのワニス仕上げ、鋳鉄フレームの金めっきを行う12メートル幅の第二建物が増設された。
さらなる補強とキューポラ(円頂塔)によって1869年に工場が完成した。
米国でのKnabe & Co. の売上はニューヨークのスタインウェイ・アンド・サンズとボストンの
チッカリング・アンド・サンズに次いで第3位につけ、1870年までの生産代数は週に約40台
(600米ドルから2千米ドルの間の価格)と見積られた。
1873年、Wm. Knabe & Co. はニューヨーク5番街に自社経営の商品展示場を開設した。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会にはグランドピアノ、スクエアピアノ、アップライトピアノ、
Tschudi & Broadwood製ハープシコードを出展し、改訂された表彰システムによりその他多くの共同出展者と共に
最高の栄誉を手にした。1882年にはチェスター・A・アーサーのためにホワイトハウスへローズウッド製
コンサートグランドを届けた。
ウィリアム・クナービ Jr. は1889年に死去した。
会社は同年、アーネスト・J・クナービを社長として百万米ドルの資本金で法人格を取得した。
アーネスト・J・クナービは1894年に死去し、工場で修行していた息子達が後を継いだ。
アーネスト・J・クナービ Jr. は社長に選出され、ウィリアム・クナービが副社長兼会計係となった。
Wm. Knabe & Co. は1903年までにカナダとイングランドに代理店を設立し、事業をさらに拡張する目的のために
工場を抵当に入れた。1906年までに、工場は大規模に拡張された元の建物と7つの建物を占有し、
念入りに設計された総床面積は約300,000平方フィート (28,000 m²)、従業員は765人を数えた。
工場設備は個別に動力が供給された機械やボイラーと連結された集塵システムといった現代的な
電気器具を含んでいたものの、Knabeはピアノは丁寧に手作りする必要があるという基準と、
そのために完成までにアップライトで6か月、グランドピアノで2年を要するということを宣伝した。 |
KNABE
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クナーベ ドイツ 詳細不明
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KNABEL
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クナーベル 明音楽器製作所(浜松市) 詳細不明
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KNOCHEL
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クノッヘル ドイツ 詳細不明 |
KOGURO |
コグロ
株式会社 協信社ピアノ製作所
有限会社 エスピー楽器製作所 |
KONETZNY
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コネツネー ドイツ 詳細不明 |
KONING (KÖNING)



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KONIG (KÖNIG) ケーニッヒ
有限会社 三陽楽器製作所、有限会社 ケーニッヒピアノ製作所、マライ楽器製造
当時の本社住所:浜松市伝馬町148番地(現:浜松市中区伝馬町)
当時の工場住所:浜松市中野町670番地(現:浜松市東区中野町)
神原清作氏の設計、および製造指導によって作られた。
神原清作氏は明治28年生まれ。日本楽器で山葉直吉氏、河合小市氏らに教えをうけたが、
後にアメリカに留学しボストンのフォースト調律学校を卒業した。
ケーニッヒのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★
ケーニッヒのエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
ケーニッヒのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KONKORIDIA
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KONKORIDIA コンコリディア 日本 詳細不明
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KONO

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KONO コーノ
コーノピアノ研究所(浜松)
浜松の河野充喜氏が自身の工房で作り組み立てていたピアノ。
河野氏はアトラスの出身。
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KORIN
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コーリン 光輪ピアノ製作所(浜松) 詳細不明
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KRAFT




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KRAFT クラフト
クラフトピアノ製造株式会社
写真は、MODEL:132DW 機種:DU-9
当ページに掲載のエルスナー(ELSNER)というピアノのトレードマークに酷似しています。
トレードマークの外周の円から、ワシ(タカ)の羽根の飛び出し具合や雰囲気などを含め、
エルスナーのトレードマークにそっくりです。
ひょっとしたら、クラウス商事株式会社製のピアノなのかもしれませんが、詳細は不明です。
詳しくはエルスナーの項目へ。
クラフトピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★
<特徴追記>
このクラフトのピアノの低音弦の巻線ですが、銅線の巻き方が一般的な向きでの巻き方とは違い、
逆巻きとなっており、極めて珍しいとのことです。断線した巻線を新たに作ってもらう際に判明しました。
ヨーロッパのピアノに逆巻きが見られますが日本製で逆巻きは見たことがないとおっしゃっていました。
左記画像の上から3枚は匿名希望様よりご寄稿頂きました。ありがとうございます! |
KRAKAUER

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クラカウアー KRAKAUER BROS アメリカ 工場:ニューヨーク 創業1869年
<読み> ○ クラカウアー × カラカウアー
この会社は創業1869年より長い間、家系を重んじ、手工業一途に作り続けてきたメーカです。
製作されているピアノの種類は多く、そのすべてが伝統的な外装を見事に引き継いだもので、
キンケイドの項目でも触れていますが、各種の典型的なクラシックピアノのケースの由来を
本格的に伝えるのがこのクラカウアピアノです。
尚、このクラカウアーピアノの特許に、アップライトピアノの背面を飾り板でふさぐ
というものがある。これは必ず壁に背を向けて置くという従来のアップライトピアノの常識を破り、
グランドピアノと同様に、部屋のどこにでも置けるようにしたもです。
大量生産のピアノではないので日本ではほとんど知られていませんが、品質は極めて優れたもので、
ニューヨークの公立学校だけでも1000台以上も使われているとのことです。
※一時期はキンボール社にて製造
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
クラカウアー・ブラザーズ (Krakauer Brothers) は、クラカウアー (Krakauer) としても知られていた、
アメリカ合衆国の手作り高級ピアノ製造業者で、1869年にニューヨークで、ユダヤ人の移民だった
サイモン・クラカウアー (Simon Krakauer) が、息子デイヴィッド (David) や兄弟のジュリアス (Julius)
とともに創設した。
やがて成長した同社は、ニューヨーク市ブロンクス区のサイプレス・アベニュー (Cypress Avenue) に面した
136丁目から137丁目にかけての場所に、工場を開設した。
クラカウアーは、高品質のピアノの製造とともに、19世紀末から20世紀初めのピアノの発達において
影響力の大きな革新によって知られた、卓越したピアノ製造会社であった。
1917年、クラカウアーは、マディソン・ピアノ・カンパニー (Madison Piano Company) を合併し、
「マディソン (Madison)」ブランドでも数十年間にわたってピアノを製造した。
クラカウアー・ブラザーズは、より大きなコングロマリットに吸収されることなく世界恐慌を生き延びた
数少ないアメリカ合衆国のピアノ会社のひとつであった。
1977年、ハワード・K・グリーヴス (Howard K. Graves) がクラカウアーを買収し、
事業をオハイオ州ホームズ郡バーリン(英語版)に移した。
クラカウアーは、ヴァーティコード (Vertichord)、リリコード (Lyrichord)、
そしてマディソンのブランドで製造を行った。
その後、クラカウラーは1980年にキンボール・インターナショナルの一部門になり、
製造番号86405以降はこの体制で生産された。
バーリンの工場は、1985年に閉鎖され、これによりクラカウアーの名は終わりを告げることとなった。 |
KRANICH & BACH
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クラニッヒ・アンド・バッハ アメリカ 工場:ニューヨーク 創業1864年
1864年、ヘルムート・クラニッヒとジャック・バッハというピアノ技術者が共同で始めた
ピアノメーカーであるためにこの名称が生まれたという。
工場はニューヨークにあり最高級のグランドピアノを製造。
音質、デザイン共に極めて優れていると言われている。
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KRASNY OKTYABR
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クラスヌイ・オクチャーブ ロシア(ソ連) ”赤い十月”という意味 その他詳細不明
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KRAUS




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KRAUS クラウス
昭和36年7月から浜松市和田町の大成ピアノ製造(株)で作られていたブランドです。
その後→株式会社 プルツナーピアノ
U-127、U-130、U-133の三機種がありました。
発売元は浜松市中野町のクラウス商事。協立楽器でも販売。
クラウスというピアノには他に、イタリア製やドイツ製にも
同じクラウス(KRAUSS)がありますが詳細不明。
※一番上のトレードマークは大成ピアノ時代の頃です。
ちなみに、ドレスデン(DRESDEN)のトレードマークも製造会社が同じなのでほぼ同じデザインです。
クラウスのまくり(フタの部分)の銘柄文字マーク部分
→★
クラウスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KRAUSS
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クラウス ドイツ 詳細不明 |
KRAUSS
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クラウス イタリア 詳細不明
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KREUIZBACH

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クロイツバッハ KREUIZBACH
発売元:永栄楽器(名古屋)
製造元:アトラスピアノ製造(製造)(浜松)
(注)スペルの中には、”I”が入ります |
KREUTZBACH
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クロイツバッハ KREUTZBACH ドイツ 詳細不明
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KREUTZER



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KREUTZER クロイツェル (株)クロイツェル
製造元:稲葉楽器/稲葉ピアノ製作所(クロイツェルピアノの旧称)、クロイツェルピアノ製作所(製造)、
製造元:井ヅツ楽器株式会社
発売元:稲葉ピアノ株式会社
発売元:株式会社 渡辺商店
クロイツェルピアノ製作所(創業1953年)で昭和28年から製造されているピアノ。
昭和51年末に新工場設立。浜松市和田町より浜松市安新町に移転(旧称)稲葉楽器。
東京のイナバピアノと縁故が深い。
上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
クロイツェルピアノは左記紹介の2枚の画像以外にもこれまでに何回もエンブレムを変更しています。
この2つ以外で画像をお持ちの方がいたらご連絡頂けたら幸いです。
<附録>
クロイツェルピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1985年~2012年) →★
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
有限会社クロイツェルピアノ(KREUTZER)は、静岡県浜松市にあるピアノの製造業社である。1949年創業。
アップライトピアノの受注生産は2011年に終了した。
ブランド名「クロイツェル」(KREUTZER)と会社名はピアニストのレオニード・クロイツァーに由来する。
以前の名称は株式会社クロイツェルピアノ。
年間の生産台数は少ないが、手造りピアノとして、ドイツ製の基本部品を用い、
総アグラフを採用するなど高品質であり、存在を知る人の間では人気が高い。
グランドピアノは生産していないが、アップライトピアノはさまざまなバリエーションを生産している。
注文生産であり、生産台数は年間数台以下と非常に少ないため、中古ピアノの修理や再生が主な業務となっている。
<クロイツェル社の製造ブランド>
KREUTZER(クロイツェル)、LICHTENSTEIN(リヒテンシュタイン)、ROSENTHAL(ローゼンタール)
<参考>
東京ディズニーランドのアトモスフィア(開催時間、開催場所が非公開のショー)の1つに
「バイシクルピアノ」というのがある →★
アップライトピアノに椅子、ペダル付き車輪を追加装備し、
自走できるピアノを演奏する(時に走りながら演奏する)エンターテイメントである。
これに使用されている「自転車ピアノ」を製造したのがクロイツェルである。
クロイツェルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KRIEBEL





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クリーベル
東日本ピアノ製造(株) 静岡県浜松市天竜川町332番地(当時)
株式会社 バロック
有限会社 興和楽器製作所
1型や3型のピアノは音色・タッチともに重厚な印象のピアノです。
機種バリエーション:TK-380、TK-88(小型)
クリーベルのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄 →★ クリーベルの保証書と検査カード
→★
クリーベル純正キーカバー →★
沢山清次郎氏の発明によるペダルスプリング強弱調整装置(特許No453845)も採用されています →★
沢山清次郎(さわやま・せいじろう)氏のイニシャルを取ってネジ部分にS.Sと入っていますね。
※ちなみにこの強弱調整装置ですが、私の実感としてさほど強弱を変えられない印象です。
クリーベルという名前は他にも多く、例えば、
■クリーベル(KRIEBEL)ドイツ製
■S・クリーベル(KLIBEL)興和楽器製作所(天竜川西岸)
■クリーベル(CREABEL) 共立楽器 などがあります
<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★
クリーベルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
KRIEBEL |
クリーベル ドイツ 詳細不明
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KUHLMANN |
コールマン 井ヅツ楽器株式会社 |
KUNIYUKI

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KUNIYUKI クニユキ
発売元:クニユキピアノ社/クニユキピアノ株式会社
製造元:六郷ピアノ製作所
戦前、神田須田町の交差点のすぐ近くにクニユキピアノ社(国行)という店があり、
六郷ピアノに作らせていたピアノをクニユキのブランドで販売、戦後もしばらく繁盛していた。
|
KURTZMANN
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KURTZMANN クールツマン ゴードン・ローヘッド社 アメリカ(ミシガン州グランドヘブン)
詳細は、GORDON LAUGHEADの項目を参照
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KURZWEIL
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カーツウェル
※カーツウェルの情報は、KURZWEIL JAPAN様に当方より直接問い合わせを致しまして、
ご担当者様より下記のようなご回答を頂きました。ご協力ありがとうございました。
↓
「中国のYOUNG CHANG社が”KURZWEIL”のブランド名を使い製造していたOEMピアノと推測される」とのこと。
「日本国内に存在することは考えにくく、大変珍しい」とご回答頂きました。
尚、「KURZWEIL JAPAN」は電子楽器の輸入代理店です。
カーツウェルピアノのまくり(蓋部分)にあるブランド銘柄マーク →★
カーツウェル公式HP:http://kurzweil.com/
カーツウェル公式HP:http://www.kurzweiljapan.jp/(日本法人) |
ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング

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メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他
|
OBERMEIER
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ドイツ ベルリン 詳細不明 |
OFFENBACH
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Offenbach オッフェンバッハ 韓国製 その他詳細不明 |
OHHASHI



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OHHASHI オーハシ/オオハシ
大橋ピアノ研究所 創業1958年(昭和33年)
当時の会社所在地:静岡県浜松市新津町36番地 株式会社 大橋ピアノ研究所
昭和34年から浜松市新津町の大橋ピアノ研究所で作られていたピアノで、
グランドとアップライトがある。
大橋幡岩氏設計製作の国産最高水準を志した意欲作。
その後、息子の大橋巌氏が引き継ぎ、平成4年まで続いていた老舗ブランドです。
オオハシピアノを「和製ベヒシュタイン」と称える人もいるほどファンも多い。
1959年(昭和34年)~1992年(平成4年)までの間で作られたアップライトピアノの生産台数は4639台、
グランドピアノは僅か数十台と言われています。
機種:No132等(アップライト)
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OLYMPIC
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オリンピック OLYMPIC
製造元:三葉楽器製作所
発売元:オリンピックピアノ社
※スペルはOLIMPICではないので注意 |
ONO

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ONO オノ
小野ピアノ(製造)湯河原?、[日本ピアノ製造(株)](製造)磐田郡袋井町(現:袋井市)
ホルーゲルをブランド化した小野ピアノが、戦争中、外国語のネームを避けて
創立者小野好氏の姓を付けたものという。
日本ピアノ製造(株)[シュミットの製造元]でも製作されたことがある。
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ONO HORUGEL



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ホルーゲル/オノ・ホルーゲル (ホリューゲル) 製造:小野ピアノ
通常、ONOは付けずに、HORUGELだけで通用します。
創始者の小野好氏は仙台の富豪で、最初は最初は蓄音機の販売で成功し、
昭和8年、東京大田区の六郷にピアノ工場を持ち、
戦争中は神奈川県湯河原に疎開して大きく発展したようです。
トレードマークのロゴには、ONO PIANO,COとあります。
ホルーゲルは同社のメインブランドでした。
このピアノは私自身1台しか調律したことはありませんが、
作りはうーん。。といった印象です。
<別情報>斉藤喜一郎氏がドイツ留学から帰国後、東京蒲田楽器製作所を設立し
ブッホルツとホルーゲルピアノを製作したとの情報もあり(詳細不明)
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ORGAST HOLSTER
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ORGAST HOLSTER オーガスト・ホルスター
大成ピアノ製造株式会社(浜松市) 詳細不明 |
ORIENTAL
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ORIENTAL オリエンタル 東洋楽器製作研究所 詳細不明 |
ORPHEUS |
オルフェス 杉山楽器製作所(杉山木工有限会社) |
OTTO

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キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。
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OTTO MEISTER


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オット・マイスター OTTOMEISTER otto meister
オットマイスター、中国製
製造:星海 Beijin Piano Factory
ロゴには、MADE IN BEIJING CHINA とあります。
音色はしゃりしゃりしていて、全体的にピアノの作りはうーん・・・とった感じです。
ピン味(調律時に音を合わせるチューニングピン)が硬く、ジャンピングも多いのが特徴。
とても音が合わせづらい印象です。
調律経験が豊富でないと音を合わせるのがかなり難しいピアノです。
中国が本格的にピアノを作り始めた頃ですので仕方ないですね。
DHボールドウィンなどもこの類の仲間のピアノです。
オットマイスターのまくり(蓋部分)にあるメーカーマーク →★
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OTTO-LARE
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OTTO-LARE オット・ラーレ
東京楽器研究所
福島ピアノ研究所 |
OTTO-STEINER
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OTTO-STEINER オット・スタイナー
東京楽器研究所
福島ピアノ研究所 |
OUDIYA
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中国? 詳細不明 |
ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング

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メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他
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P. WELCE

トレードマークなし |
P.WELCE ピー・ウェルス (ピー・ヴェルチェという発音表記の別情報もあり)
フクヤマピアノ(株式会社 福山ピアノ社)
福山ピアノの命名した多数のブランドの一つで、小型で価格の安いものにつけられていた。
中音、高音域のピアノ線が通常のピアノは3本張りなのに対して2本で張られています。
鍵盤数も一般的な88鍵ではなく、鍵盤数も少ないピアノも製造で、廉価版ピアノ。
戦後間もない頃のピアノは材料を苦心して集めたピアノだったようです。 |
PACO


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パコピアノ/グラチアピアノ
PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO
金正日が自国でもピアノ製造を作れとの意向で、朝鮮総連系の日本のピアノ製造会社との
合弁で『平壌ピアノ合弁会社』を設立(1988年)
この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い
北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内(浜松)で行い出荷。
製造が容易な部品のみを北朝鮮で作り、その他の部品は全て日本から輸入して組み立てていました。
製造開始当時は、北朝鮮製の部品の比率は1%程度であったとされています。
日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて
日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。
現在は既に日本との合弁を解消しています。
日本国内での製造輸入は、『PACO』社が行なっていました。
当時の日本においては、アップライトピアノの市場が飽和していた上に、デジタルピアノが登場した事により、
アップライトピアノ製造を主とする工場は苦境を迎えていた。
こうした状況下での、北朝鮮からの技術協力要請は、好意的に受け止められていた。
日本人技術者が滞在しての技術指導は約7年程度続いたとのこと。
ブランドはGRATIAE(グラチア)、FEINTON(フェイントン、ファイントン)など低価格のピアノ。
当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、
東南アジア・中国・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。
1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、
ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。
グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク
→★
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PAPE
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パープ 創業1817年 フランス(パリ)
詳細不明 |
PASTORAL

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パストラル 冨田ピアノ有限会社
画像は匿名希望様からご寄稿頂きました。ありがとうございます! |
PAUL GERHARD |
詳細不明 |
PAUL WEISS
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PAUL WEISS ポール・ワイス ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
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PEACE
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PEACE ピース 大和楽器製造株式会社 詳細不明 |
PEARL RIVER


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PEARL RIVER パール・リバー(珠江) 中国(広州)
珠江牌とよばれる広州製のピアノ。珠江とは広州の街の真ん中を流れる大河。
ピアノはすべてアップライトで、背が低く、当時スピネットタイプの小型が多かった。
中国のピアノのうちでは最も安価なものの部類。
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
広州珠江鋼琴集団(こうしゅうしゅこうこうきんしゅうだん、グァンヂョウジュジャンガンチィンジトゥアン、
英語: Guangzhou Pearl River Piano Group Co.,Ltd、SZSE: 002678)股份有限公司は、
中国で最大のピアノ製造業者であり、世界最大のピアノ工場を有している。
1956年に中華人民共和国広東省広州市で設立された。
通称は広州珠江鋼琴集団股份、広州珠江鋼琴集団、広州珠江鋼琴など。
中国国外ではパールリバー(Pearl River)として知られている。
パールリバーは年間10万台を越えるピアノを生産する能力があり、それらを80を越える国々へ輸出している。
今日、パールリバーピアノは幅広いブランドと水準の下で生産されている。
パールリバーは「Kaiserburg」、「珠江(Pearl River)」、「Ritmuller」、「京珠」などのブランドを中心に
様々な種類のピアノを製造・販売している。
2016年1月、パールリバーはドイツ・ブラウンシュヴァイクのピアノメーカーヴィルヘルム・シンメルの
株式90%以上を取得した。ドイツにおける経営は変わらないままであり、シンメルの工場は
今でもシンメル家によって管理されている。
1998年、パールリバーは中国のピアノメーカーとして初めて、全ての部品と構成要素を含む
グランドピアノおよびアップライトピアノの全製品について国際標準化機構ISO 9001認証
(ISO 9001)を取得した。パールリバーは最近ISO 14001も取得した。
パールリバーは米国において自社での流通を行っていたが、2000年に流通を
North American Musicに引き渡した。パールリバーは自身の社名の下で米国において
ピアノを販売した最初の中国ピアノメーカーの一つであり、ピアノ教師と調律師によく受け入れられてきた。
パールリバーは世界最大のギターおよびバイオリン製造業者の一つでもあり、
百貨店ターゲットで一般に見られる人気のあるギターブランド「ファーストアクト」の主要な供給業者である。
ドラム、金管楽器、木管楽器も国際的に販売している。
中華人民共和国では、自身のブランド名「紅棉」の下でギターを生産している。
パールリバーは新しいリットミュラー(Ritmuller)シリーズを作るために
ピアノデザイナーのLothar Thommaを雇った。
最終的に、Thommaはリットミュラーシリーズのパフォーマンスモデルとプレミアムモデルの
両方を設計するか設計を手助けするかした。
パールリバー社は、Lothar Thomma設計のリットミュラーピアノはヨーロッパのスケール設計を備え、
最高級のヨーロッパ製部品を使用し、手仕上げを行うためにより小規模でゆっくりとした製造工程である、
と述べている。パールリバーとリットミュラーの違いには、Thomma設計の低張力ドイツ式スケール、
ドイツFilzfabrik Wurzen GmbH製フェルト、ドイツ・レスラウ(Röslau)製弦、本物の黒檀鍵、
ドイツAbel製ハンマー(パフォーマンスモデル)及びドイツレンナー製ハンマー(プレミアムモデル)等がある。
米国の3つの大規模なピアノ小売企業はOEM自社ブランドの供給元としてパールリバーを使っている
(Jordan Kitts Music、Sherman Clay〔閉店〕、Schmitt Music)。
これらの小売チェーンは独自のブランド名(Henry F Miller、Christofori)を使用している。
ヤマハは1995年にパールリバーと合弁事業を作り、中国市場向けのピアノを製造するための工場を設立した。
この工場は経済技術開発区の広州の東、パールリバーの工場から約35マイル離れている。
この工場はパールリバーピアノグループのために2つのモデル、UP125M1およびリットミュラー
UP126Rを生産している。どちらの製品種目も小売ピアノ店によって米国で販売され、
鍵盤の横に「Yamaha Pearl River」という追加の刻印が押されている。
パールリバーはスタインウェイ・アンド・サンズの「エセックス」ブランドのグランドピアノと
アップライトピアノを含む全てのモデルも広州工場にて製造している。
2005年5月1日、スタインウェイ・アンド・サンズとパールリバー・ピアノグループは
合意について合同で発表した。両社はスタインウェイ・アンド・サンズが系列会社の
ボストンピアノCo., Inc. のために設計した複数の新しいエセックスモデルの開発を開始した。
エセックスピアノは2006年の初めに市場に届いた。
これはスタインウェイの中国における初の事業であり、
パールリバーが西洋のピアノメーカーと結んだ初のOEM関係であった。
Hallet, Davis & Co. Boston (HD&C) は、通常Hallet & DavisまたはH&Dと呼ばれる
ピアノ製品ラインである。元々のHallet, Davis & Companyは1841年に
George H. Davis、Russell Hallet、およびその他の共同経営者によってボストンで設立された。
この会社はDavisと創業者とは別のHallet(Benjamin Franklin Hallet)によって
1950年代にボストンで再構成された。
1900年代初めにW. W. Kimball CompanyがHallet & Davisを買収した。
1905年、持ち株会社Conway CompanyがKimballからHallet & Davisの名称を取得した。
1927年にConwayはピアノ事業を整理した。
Hallet & Davisのブランド名と100年以上続くその製造の起源に関しては混乱があった。
1904年12月版の「Piano and Organ Workers’ Official Journal」において、
編集者らは「数年前にHallet & Davisの工場がシカゴから撤去され、
Kimball Companyと合併したにもかかわらず、いわゆる業界紙がボストン製の楽器として
Hallet & Davisピアノを発表し続けていること、結果として犯罪的なごまかし・詐欺を手助けし
幇助していることについて読者は興味を持って知りたいと思っていることだろう」と述べた。
20世紀中頃、 Hallet & Davisの名称は、その他多くの 米国ピアノブランドと同じように、
エオリアン-アメリカンCorp.(1985年に破産宣告)の下に集約されていた。
Hallet & Davisブランドとその適切なボストンとのつながりを復活させようという試みが
1998年に成され、商標「HALLET, DAVIS & CO. BOSTON」がNorth American Music, Inc. によって
出願された。この出願は米国特許商標庁(USPTO)によって「拒絶/却下または無効」とされた。
その翌年の1999年、North American Musicは再びHallet & Davisの商標
(この時はBOSTONを外して単に「HALLET, DAVIS & CO.」として)を出願し、
最終的に2001年にUSPTOによって許可された。
新たなH&Dピアノがマサチューセッツ州ボストンと少しの関係もないという事実にもかかわらず、
中国のパールリバー・ピアノグループはH&Dのステンシルの下に「Boston」を
(登録商標の一部ではないにもかかわらず)入れている。
パールリバー・ピアノグループは2014年以降H&Dラインを生産してきた。
2014年以前は、このブランド名のピアノは東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)によって作られていた。
しばらくの間、H&Dブランドは両方のメーカーから同時に生産されていた。
今日、Hallet & DavisはNorth American Musicが卸すために製造されるピアノのOEMラインである。
ここ数年全てのH&Dピアノはパールリバーによって作られているものの、
このブランドには非常にさまざまなデザインと品質を持つ詳細が不明確な製造の歴史がある。
過去このブランドは、北京星海楽器や東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)、
Silberman Piano、Parsons Music、そしてパールリバー・グループを含む
複数のピアノメーカーによって製造された。
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PEARL RIVER
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PEARL RIVER ユンチャン(パールリバー) 韓国 詳細不明
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PERZINA

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GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製
ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、
現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。
1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、
北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。
現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に
こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある
ピアノのひとつとなりました。
また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、
ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。
しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は
東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、
大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。
2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。
(※)第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。
<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ペルツィーナ(Perzina、Gebr. Perzina〔ペルツィーナ兄弟〕)は、1871年から1929年頃まで
ドイツ北部のシュヴェリーンの鍵盤楽器製造業者(Gebr. Perzina GmbH、Alvari-Piano-GmbH、
Pianofortefabrik Gebr. Perzina)によって使われたブランド名である。
日本ではペレツィーナとも呼ばれる。
現在、ペルツィーナブランドのピアノはオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・
煙台ペレツィーナ (Yantai Perzina Piano Manufacturing Co., Ltd.) によって生産されている。
ザクセン系ピアノ職人を父に持つユリウス・ペルツィーナとアルバート・ペルツィーナの兄弟は、
20代後半になると父の仕事を引き継ぎたいと望み、ベヒシュタインの創業者である
カール・ベヒシュタインの元で修行した。
その他にもドイゼン(ドイツ語版)やシュヴェヒテン、レーニッシュの下で修行と経験をつみ、
ピアノ職人の技術を修得したペレツィーナ兄弟は、1871年7月1日にドイツ北部のシュヴェリーンという町で
「Pianoforte Fabrik Gebrüder Perzina」(ペルツィーナ兄弟ピアノ工場)を創業した。
会社を設立した初年度は20台のピアノが製造された。1883年にメクレンブルク大公家御用達の称号が
ペレツィーナに授与された。数年後、Gebr. ペルツィーナ社は「オランダ女王」、「ポルトガル王」、
「アンハルト公」の御用達称号を授与された。
ペルツィーナ社はオランダのウィルヘルミナ女王や、ハインリヒ・メクレンブルク=シュヴェリーン
(オランダ女王ユリアナ王妃の父)、オルデンブルク公爵等にピアノを納めた。
ピアノ工場を開業して数年後、兄のアルバートが引退したが、
社名のGebr. ペルツィーナ(ペルツィーナ兄弟)は残った。
1894年にペルツィーナ社はアントウェルペン国際博覧会は、1895年にアムステルダム国際博覧会へ出品した。
1900年頃から会社は急成長をし始めた。1901年のレターヘッドでは自社を
「ドイツ・バルト海諸国で間違いなく最大で最も効率的なピアノ工場」と形容していた。
1897年の始め、シュヴェリーン工場のスタッフが約10週間仕事を止めた。
従業員らは賃金の引き上げを求めてストライキを行った。
1897年4月、わずか52歳で共同創業者のユリウス・ペルツィーナが死去した。
工場の経営は、合名会社の設立後、続く20年間ハンブルクの実業家ダニエル・フス(Daniel Huss)の
手に渡った。社主の義理の息子は経営責任者としてピアノ工場を手工芸工場から産業工場へと転換した。
創業年の1872年に生産された楽器は20台だったが、1897年には既に315台、1900年までには
シュヴェリーン工場の生産数は年間768台に伸びた。
1904年7月26日の壊滅的な火災によって生産建物のほとんどが破壊された。
それからの3年間にわたって、宮廷石工のLudwig Cleweが合名会社の株主の指定にしたがって
新たな工場建物を建設した。この中にはWismarschen通り44番地の本館も含まれ、今日も現存している。
1910年頃には年間製造台数が1000台まで増加(グランドピアノの製造は1905年から開始)。
数年後、製造工場を拡大するためシュヴェリーンより約60 km南下したレンゼンという町に移転した。
第一次世界大戦まで急激に成長した。この頃がドイツ時代のペレツィーナの製造のピークであった。
第一次世界大戦の開戦以降、Gebr. ペルツィーナは「フォッカーヴェルケ・シュヴェリーン
(Fokkerwerke Schwerin)」のためにバルブとプロペラの生産を行い、
1914年8月からは弾薬袖も生産ラインに加わった。1916年、ペルツィーナ社は検察庁の標的とされた。
排出された薬莢が新たな供給品に再び混入された; 従業員1名が贈収賄で通報、逮捕された。
このスキャンダルは多忙な経営責任者ダニエル・フスを直撃し、
10カ月の禁固刑と2年間の市民権剥奪を言い渡された。
1917年8月23日、アントニー・フォッカーが工場と400名の従業員を買収した。
ヴェルサイユ条約の条項の結果として、航空機メーカーのフォッカー社は1919年に本社を
シュヴェリーンから移転した。
戦後、フォッカーはピアノ工場をオットー・ルボー(Otto Libeau)に貸した。
1920年4月から、会社はピアノに加えて家具と木箱も生産した。
グーテンベルク通りの第三工場は1923年に「Alvari-Piano-GmbH」に改称した。
Wismarschen通りにおけるピアノの生産は1929年頃まで行われた。
1930年代、「低地ドイツ・ベオハバター」(Niederdeutsche Beobachter)紙が以前の本館に移転してきた。
シュヴェリーンのピアノ製造者Wilhelm Meyerはオットー・ルボーと共に
「Gebr. ペルツィーナGmbH」という名称でピアノを製造した。
ルボーは1930年代中頃に会社を離れた。1929年まで、ペルツィーナ社はシュヴェリーンの住所録に
「Gebr. Perzina GmbH, Pianoforte-Fabrik, gegr. 1871. Inh. Wilhelm Meyer, Wismarsche Straße 153」と
掲載されていた。1984年から2013年まで、シュヴェリーン市立図書館は
「ペルツィーナハウス(Perzinahaus)」を使用した。
二度の世界大戦によって多くのピアノメーカーが姿を消す中、
ペルツィーナは東ドイツの国営企業として生き延びた。
「Perzina」ブランドのアップライトピアノとグランドピアノはレンツェンにおいて
国有企業の下で1959年から1972年まで生産された。
1930年代の始め、ベルリンのピアノ修復者Friedrich Geilがレンツェンで
「Wagner」ブランドのピアノ生産を始めた。
Geilはシュヴェリーンの議会から登録商標「Gebr. ペルツィーナ」を使用する権利を与えられた。
1972年、この会社は収用され、VEBドイツピアノ組合ライプツィヒに譲渡された。
1989年の転換後、ブランド名「Wagner」および「Perzina」はGeil家によって再び引き継がれ、
ピアノ生産の再編が目指された。経営責任者の突然死の後、1990年末に以前の生産責任者が新たに
設立された有限会社(GmbH)のトップとなった。
1990年代中頃にオランダの楽器卸売業者Ronald G. Bol(Music Brokers International B.V.)が
世界的な販売権を取得し、その後事業に参加した。
Bolは徐々に生産をドイツ国外へ移し(1998年に中国の煙台〔エンタイ〕に生産拠点を移転)、
レンツェンのピアノ工場は最終的に1996年12月に閉鎖された。
ペルツィーナブランドのピアノは、Yantai Longfeng Piano Co.での生産を経て、
現在は煙台ペレツィーナの年間15000台の生産能力(アップライト)をもつ近代的な設備のもとで製造されている。
煙台ペレツィーナは、2003年にBolと中国人実業家Sun Qiangとの共同で設立された。
Bolがこの民営企業の副社長で、海外への供給責任者である。
主任技師はドイツ人のHas Leferinkである。彼によって設計や品質管理がされている。
ドイツ・レンゼンのピアノ工場は1996年12月に閉鎖され、
現在の欧州本部はオランダ・ヴィーネンダールにある。
煙台ペルツィーナで製造されている「Gebr. Perzina」ロゴのピアノのみが、
ドイツ生まれの歴史ある「Perzina」ブランドを継承している。
それ以外では製造されていない。60%以上を日本や欧米をはじめとする海外50か国以上に、
残りは中国内100以上の都市に供給しているとしている。
日本では、1972年設立のピアノ量販店「ピアノ百貨」の7店舗で販売されている。
Music Brokers Internationalは他にも欧州生まれのピアノブランドの製造権を所有しており、
煙台ペルツィーナで、これらの他ブランドのピアノも製造している。
「Gerh. Steinberg」(ドイツで1908年創業)、「Carl Ebel」(ドイツで1877年創業)、
「Eavestaff」(イギリスで1823年創業)、「Rippen」(オランダで1937年創業)などの
ブランドがそれである。
2002年に公開されカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した映画「戦場のピアニスト」の
廃墟の中の演奏シーンで、ドイツ時代のペルツィーナのグランドピアノが使用された。
また、ペルツィーナ(Gebr. Perzina)のアップライトピアノは、アメリカのLarry Fine著
「THE PIANO BOOK (2007-2008)」のピアノラ |