【頭文字Cから始まるピアノブランド】


さらに詳しい解説は下記「アルファベット順1930種類」のページへ


ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

C. BECHSTEIN BECHSTEIN(→ベヒシュタインの項を参照)
C. HARMAN
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シー・ハーマン (シー・ヘルマンという発音表記する資料もあり)
井ヅツ楽器(株)大阪

U-110W、U-110M、U-5C、U-7C の四機種があった。
C. THWAITES シー・スウェイツ (シー・ツワイスという発音表記する資料もあり)
スウェイツ商会
CABLE



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ケーブル CABLE PIANO CO. エオリアン・アメリカン・コーポレーションの子会社
工場:オレゴン州 販売店:シカゴ
詳しくはAEOLIAN(エオリアン)の項を参照

ケーブルピアノの美しい木目調の外観 →★ ケーブルのまくり(フタ)部分の銘柄マーク →★
ケーブルピアノに貼られた各シール類 →★  →★

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CABLE-NELSON


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CABLE-NELSON PIANO CO. ケーブル・ネルソン

1903年シカゴで創業。その後ミシガン州に移り、
1926年にボストンのエベレットピアノ(EVERET PIANO)と合併。
ケーブル・ネルソンのブランドによるピアノは、創業以来合計40万台作られたといい
エベレットピアノの廉価版として広く販売された。

尚、この会社ではKINGSBURY(キングスブリー)、WELLINGTON(ウエリントン)、
SCHILLER(シーラー)というブランドも作っていました。

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CALACE カラチ 佐藤商会(名古屋)が戦前に取り扱ったもの。
CALISIA カリシア(ガルシア?) ポーランド Since 1878 その他詳細不明
CALISIA シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
CAPMAN キャップマン イタリア 詳細不明
CARL HARDT


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カール・ハルト
販売:福山ピアノ
CARL HERT



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カール・ヘルト

大成ピアノ製造株式会社
東洋ピアノ製造株式会社
CARL SEILER



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カール・ザイラー

製造:(株)プルツナーピアノ(浜松)
発売元:三協ピアノ株式会社(浜松)

プルツナーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたピアノ。
発売は三協ピアノ株式会社。
フレームのメーカーロゴは持ち合わせておりませんが、調律師の心をくすぐるトレードマーク。
音叉の後ろにチューニングハンマー2本を交差させたデザインです。
回りの星形はチューニングハンマーのチップ(差し込み部分)をイメージしています。

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CARL STEINMANN カール・スタインマン ドイツ(ドレスデン) 詳細不明
CARL & SONS カール・アンド・サンズ 東洋ピアノ製造株式会社
CARLBEKE カールベッケ ドイツ 詳細不明
CARL MAND <以下、ウィキペディアより引用抜粋>
カール・マント(Carl Mand、1811年10月27日 - 1892年8月28日)は、
ドイツのピアノ製作者であった。
カール・マントの経歴に関する情報はわずかである。
彼の父はコブレンツ近郊のホルヒハイムの指物師・ワイン醸造家であった。
彼の邸宅の近くにベルリンの銀行家メンデルスゾーンの別荘があり、
時折フェリックス・メンデルスゾーンが訪れていた。
メンデルスゾーン家は最初にカール・マントの兄弟ニコラウス(Nikoraus)に
ウィーンで音楽とピアノ製作の知識を深めるよう働き掛けた。
しかしながら、ニコラウスが病気になると、カールがウィーンへの旅を始めた。
カールは1827年か1835年までウィーンでピアノ製作者として働いた。
帰郷後、カールはコブレンツで自身のピアノ製造会社を設立し、
この会社はその後数十年もの間大きな成功を収めた荒るそのため、
マントは宮廷御用達称号を得て、彼の会社を自信を込めて「19年間最高賞のみ
(国際博覧会での11の賞を含む)を受賞している世界唯一の工場」と呼んだ。
1909年、マントの会社はコブレンツを拠点とするピアノ製作者ハインリッヒ・クラウス
(Heinrich Knauß)によって買収され、同年にRheinische Pianofortefabrik AG
(ライン・ピアノ工場株式会社)となった。
会社は1911年にKapplerによって買収され、1928年に生産が終わった。
カール・マントの現存する楽器の大半は個人によって所有されている。
コレクションはエーレンブライトシュタイン城塞にあるコブレンツ州立博物館で維持されている。
1900年頃に建築家・デザイナーのヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された
独特なデザインのグランドピアノは、ベルリン楽器博物館に展示されている。
この八角形のマント=オルブリッヒ・グランドピアノには他のモデルも存在し、
入り組んだ装飾を持つ黒色モデルはダルムシュタットのMathildenhöheにある。
カール・マントが特許を取得したベル・グランドピアノ(Glockenflügel)および
Eckflügelはとりわけ特殊である。
これらの特に小型のグランドピアノは場所を節約するために部屋の角に置くことができる。
CARLZEILER カールザイラー 大洋楽器(浜松) 詳細不明(プルツナーピアノのカールザイラーとは違うのか??)
CAROD キャロッド 中国(湖南省長沙市) 2014年~ 詳細不明
HP:http://www.carodpiano.net/
CAROL OTTO


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C.OTTO  販売:デーリング商会(横浜)※

キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー  (CAROL OTTO/Carol Otto)

ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。

※デーリング商会は1874年横浜で創業

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CASTELLO カステロ イタリア 詳細不明

CASTLE

CASTLE ピアノ

CASTLE PIANO

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キャッスル

六郷ピアノ(大田区六郷 →後に茨城県土浦) キャッスルピアノ製作所
田中貞三氏が田口氏の協力を得て、初め六郷で、後に茨城県土浦で製造した。
2種類あって音は良かったが、外装に厚い材料を使用していたため温度に弱かったとのこと。

当時としては大変珍しく曲線を意識した脚が特徴的です。

キャッスルまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄 →★  キャッスル全体写真 →★

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CASTLE キャッスル 鈴木ピアノ製作所
CHAIKA →TCHAIKAの項目へ
CHAIKOVSKY 日本国内でもチャイコフスキーというブランドがあったようだが、詳細不明
ソ連製のチャイコフスキーはCIAIKOVSKYの項目へ

H, CHALLEN

H, CHALLEN

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チャーレン イギリス/ロンドン
1986年からはマレーシア西部で作れれている

チャールズ・H・チャーレンは1804年にすでに最初のピアノを製作していたと考えられているが、
イギリスのピアノメーカー、チャーレン・アンド・サンズは1830年に設立された。
チャーレンといえば信頼性と耐久性であり、そのピアノの音質は高く評価されている。
チャーレン・ピアノは英国放送協会(BBC)で頻繁に使用されている。

チャーレン社は小型のグランドピアノでよく知られているが、1935年の英国王ジョージ5世即位25周年には、
世界最大のグランドピアノを製作したというエピソードがある。
全長355センチ、弦の総張力は30トンあったそう。

19世紀の最後の四半世紀から20世紀の最初の四半世紀にかけて、チャーレン社は年問約500台の
高品質のピアノを生産していた。この会杜に好機をもたらしたのは、1926年に新社長に就任した元チャペル社の
ウィリアム・エヴァンスだった。
エヴァンスは、チャーレン社が20世紀の初めに開発した全長152cmのベビーグランドピアノを再開発する。
大量生産技術の導入により、チャーレン社はこの楽器の価格を125ポンドから65ポンドに下げることに成功し、
その結果、ベビーグランドはイギリスの家庭からアップライトを追い出すほどの人気となった。
ほとんどのピアノ製造業者に打撃を与えた1930年代の大恐慌も、チャーレン社には影響を及ぼさなかったといい、
ピアノの生産高は1925年の500台から、1935年の2,500台にまで跳ね上がった。
チャーレン社は1932年にブロ―ドウッド社のピアノの生産を引き受け、また1936年には、
スタインウェイ社、ベーゼンドルファー社とともに、BBC(英国放送協会)にピアノを供給する契約を取り付けた。
これによりチャーレンピアノの音がイギリス中の家庭で聞かれるようになった。
1959年のウィリアム・エヴァンスの引退に伴い、チャーレンのブランド名はブラステッド・ブラザー社に売却され、
その後1970年に同社が消滅した際に、バラット・アンド・ロビンソン社へ移った。
1986年からチャーレンピアノは、ヴィエナ・ミュージック・Sdn・Bhd社の工場部門であるミュージカル・
プロダクツ・Sdn・Bhd社によって、マレーシア西部で組み立てられている。

<附録>
チャーレン・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~2000年) →★

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CHAPPELL



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THE CHAPPELL PIANO CO.,LTD.
/Chappell & Company チャペル・アンド・カンパニー
イギリス チャペル社  ※所有:ワーナー・ブラザーズ

チャペル社といえば、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている風変わりな
スクエア・グラス・ピアノで有名。この楽器には弦の代わりにガラスの棒が取り付けられており、
ダウンストライキング方式のハンマーで叩く仕組みになっている。
チャペル製のコンサートグランドは非常に変わっていて、最高音部に3本ではなく 4本の弦が張られている。

リヒャルト・シュトラウスはチャペル・ピアノについてこう書いている。
「音色は極めて甘く、共鳴しやすい音質。タッチはとても反応が良く、軽い。
英国のメーカーのこのような完璧な楽器に出会えたことは、私にとって素晴らしく快い驚きだった」と。

すでに楽譜出版社を始めていたサミュエル・チャペルと、ヨハン・クラーマーと、フランシス・ラトゥールは、
1811年にチャペル・アンド・カンパニー社をロンドンに設立した。
その後、彼らの会社は1840年代にようやくピアノの製造を開始し、「ウェア・ルーム』と称する
特別なショールームで展示販売を始めた。
クラーマーはロンドンで人気の作曲家、音楽教師であったため、彼自身が店にあるすべてのピアノを
選んだということは、ライバル会社に差をつける良い宣伝になった。
楽譜やピアノの販売の他に、チャペル社はロンドン内のコンサートのプロデュースも行うようになり、
フィルハーモニック協会と密接な関係を築いた。
1840年にチャペル社はロンドンのソーホーでピアノを製造するようになるが、生産量が増えると、
チョークファームの工場へ移転した。
1901年にチャペル・ピアノ・カンパニーとパブリッシング・カンパニーが分離すると
ピアノの生産高は増大し、1920年代と30年代は年間1,000台も生産された。
1929年にチャペル社はアリソン・ピアノ社とカラード・アンド・カラード社を買収し、さらに1938年には
ジョン・ストローメンガー・アンド・サンズ社を買収して規模を拡大した。
1968年、フィリップス・レコード・カンパニーがチャペル・カンパニーを1750万ポンド
(2550万米ドル)で購入する。
そしてワーナー・チャペル社が所有するケンブル社がライセンスのもと、
2000年までチャペル・ピアノを製造した(ワーナー社は独占権を保有し続けている)
今もボンド通りにはチャペルの店があり、楽譜や楽器を販売している。

<附録>
チャペル・アンド・カンパニー 製造番号/製造年代 対照表(1840年~1969年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チャペル& Co.(Chappell & Co.)は、かつて存在したイングランドの企業である。
音楽出版とピアノ製造を行っていた。
1810年にサミュエル・チャペル(c.1782年–1834年)によって音楽教授Francis Tatton Latourと
ヨハン・バプティスト・クラーマーと協力して創業された。
クラーマーは有名なロンドンの作曲家、教師、ピアニストでもあった。
会社の店舗には複数のフロアにピアノやその他の楽器(販売または貸し出し)、楽譜のための広い展示室があり、
ボンド・ストリートの目立つ目印となった。チャペルはロイヤル・フィルハーモニック協会の創設にも取り組んだ。
チャペル社の評判は急成長し 、1819年にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが出版したいと
思っている作品に関して仲間に手紙を書いている;
「ポッターは、ボンド・ストリートにあるチャペルが現在最良の出版社に一つだと言っている」。
サミュエル・チャペルは1834年に死去し、長男のウィリアム・チャペル(1809年–1888年)が会社を引き継ぎ、
母のエミリー・チャペル(旧姓Patey)の代理として会社を経営した。
1843年頃、ウィリアムはクラーマー& Co. に加わり、その後パーシー協会と音楽古物研究協会
(Musical Antiquarian Society)を設立した。
弟のトーマス・ペティー・チャペル(1819年–1902年)が次に経営を引き継いだ。
最初は音楽出版と演奏会の主催に専念していたチャペル社は1840年代にピアノ製造を始めた。
トーマスはチャペル& Co. の出版事業を拡大し、ミュージカルに関する出版に重点的に取り組んだ。
これは今日もチャペルの成功にとって重要である特異分野である。
チャペル社は楽譜販売のための市場を作ることになるかもしれないコンサートやオペラ、その他の催しを主催した。
トーマスはチャペル家が部分的に所有していたセント・ジェームズ・ホールにおける月曜から土曜までの
ポピュラーコンサートを思い付き、出資した(1859年)。
このコンサートは弟のサミュエル・アーサー・チャペルによってうまく運営され、1901年まで続いた。
トム・チャペルの成功の一つはギルバート・アンド・サリヴァンのオペラとアーサー・サリヴァンのその他の楽曲、
古いグノーのオペラ『ファウスト』、バルフのオペラ『ボヘミアの少女』の出版であった。
トーマスは王立音楽大学の最初のDirectorの一人やロイヤル・アルバート・ホールの最初の
支配人の一人でもあった。トーマスは1902年に死去した。
トーマスは音楽出版社協会の創設メンバーであり、協会の初代会長となり、
1881年から1900年まで会長職を務めた。
20世紀の間、チャペル社はイギリスで一流の音楽出版社・ピアノ製造業者となった。
1964年、建物が火災で破壊されたが、その後に再建された。
1970年代末までに、チャペル社はミュージカル作品(ロジャース&ハマースタインなど)の出版で有名な
世界的一流音楽出版社となった。1980年、チャペルは小売事業を売却し、音楽出版のみに専念した。
ロンドンのボンド・ストリートの店舗はヤマハピアノの大流通業者であったケンブル& Co.によって購入され、
ケンブル社はチャペル・オブ・ボンド・ストリートの名称でこの楽器店を経営した。
チャペル& Co. の出版事業は後にポリグラムによって、1987年にはワーナー・ミュージック・グループによって
2億米ドルで買収され、ワーナーの音楽出版部門と合併してワーナー/チャペル・ミュージックが設立された。

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CHAPPELL チャペル
国内でもCHAPPELL(チャペル)というブランド名で製造販売していたピアノもあったようですが詳細不明
CHARIS


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カリス CHARIS

東洋ピアノ販売  韓国製造 その他詳細不明

※東洋ピアノが扱っていたBÖCKLER(BOCKLER)/ベックラーというピアノのトレードマークと
まったく同じマークということが分かります(文字の部分を除いて)

ちなみに、ドイツ製の「グロトリアン・チャリス」とはまったく別のピアノです
CHERNY


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CHERNY チェルニー

製造:東洋楽器製造株式会社(広島市)
広島の東洋楽器製造のワグナー、ヒロタに次ぐ第三のブランドでした。

<参考>
あのピアノ練習曲を数多く残したことで有名なカール・チェルニーの正しいスペルは”CZERNY”ですが、
東洋楽器製造株式会社が作っていたピアノ、ツェルニーのスペルは”CHERNY”です。
CHEW
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→S. CHEW(周ピアノ)の項目を参照
CHIKERING & SONS


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チッカリング・アンド・サンズ アメリカ(ニューヨーク)
CHICKERING & SONS

創業1823年。エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品。
※エオリアン(AEOLIAN)の項目も参照

チッカリングは19世紀中盤は一流のメーカーとして君臨していたのは皆様ご存知だと思います。
なんといってもチッカリングを有名にしたのは、現代のピアノを決定づけたといってもよい、
鉄のフレームの特許をとっていることです。
1867年にはパリの世界博覧会で金メダルもとっています。
この金メダルをとったピアノもリストに献呈され、リスト・アカデミーの院長室にあるようです。
リストは贈呈されたチッカリングのピアノが運ばれてきたとき、大感激して2時間も弾きつづけたという。

<歴史>
1823年、ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトを製作。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念する。
1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおけるピアノ製造の基礎を築いた。

<附録>
チッカリングピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チッカリング&サンズ(Chickering & Sons)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに所在した
ピアノ製造会社であり、優れた品質と設計の楽器の生産で知られていた。
1823年にジョナス・チッカリングとJames Stewartによって「Stewart & Chickering」が創業されたが、
4年後にこの協力関係は解消した。1830年までにジョナス・チッカリングはジョン・マッケイと共同経営者となり、
「Chickering & Company」、後には「Chickering & Mackays」としてピアノを製造した。
1841年に老Mackayが死去し、1853年に会社は「チッカリング&サンズ」として再編された。
チッカリングブランドのピアノは1983年まで作られ続けた。
ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが1823年、
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始した。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトピアノを完成した。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念した。1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおける
ピアノ製造の基礎を築いたといわれている。
1841年に事業を担当していたジョン・マッケイが船で遭難し行方不明となってしまい、このためチッカリングは
経営事業にも直接携わるようになった。ロンドンでピアノメーカーの最高の栄誉賞を受けるなど
ピアノ事業は順調だったが1852年、不幸にもピアノ工場が火災に遭い全焼してしまった。
新工場の再建に着手するも、創業者のジョナス・チッカリングは
1853年でこの世を去った。その頃、工場はチッカリング・アンド・サンズと名称を改めており、
チッカリング社のピアノ製造事業は、ジョナスの長男であるトーマス・E・チッカリングが引き継いだ。
トーマスは商才にたけた人物で、将来を期待されていたが若くして死去した。
トーマスの死後はジョナスの次男であるC・フランク・チッカリングが事業を引き継いだ。
1867年、パリ万博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得したが、その数日後、フランク・チッカリングは
当時のフランスの皇帝であったナポレオン3世に拝謁を仰せつかるという栄誉を受け、
音楽芸術に対する貢献として十字勲章を授けられた。
この頃、ヨーロッパにはピアニストとして名をはせていたフランツ・リストがおり、
チッカリングはリストが滞在していたローマまでピアノを届けている。
チッカリングが製作したピアノが運ばれてきたときリストは感激して2時間弾き続けたという。
また「今日、私はリストの壮麗な音のチッカリングを弾いた」と手紙に記している。
1891年にフランク・チッカリングはニューヨークで死去したが、チッカリング社は1904年に
クォーターグランドピアノと呼ばれる当時世界最小のピアノを製作した。
1909年以降チッカリング社はエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収され、
チッカリング一族は経営から姿を消した。

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CHIYODA
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チヨダ 千代田楽器 戦前にあったブランド。
CHOPIN


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ショパン

製造:三高アクション製作所(浜松市薬師町)、及川ピアノ製作所(浜松市)
発売元:三浦ピアノ店(文京区東大前) 

WALDSTEIN ワールドシュタイン(バルトシュタイン)の項目も参照。
戦前から東京文京区東大前の三浦ピアノ店を代理店として売り出された。
ワールドシュタイン(バルトシュタイン)も同様に売り出されていた。

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CIAIKOVSKY




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CIAIKOVSKY

チャイコフスキー ロシア(ソ連製USSR) RAZNO製造
スペルは、「CHAIKOVSKY」や「TCHAIKOVSKY」ではないので注意!

フレームのロゴにはRazno(ラズノ)と書いてあります。いろいろな楽器を作っていた会社のようです。
(ベリョースカやウラジミールなど)

このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。
何台か調律したことがありますが、外装、アクション、音色含めかなり酷い作りのピアノで苦労しました。。
※ちなみにあの有名な音楽家であるチャイコフスキーの正しいスペルは、TCHAIKOVSKYです。

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CITY LIFE



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CITY LIFE シティー・ライフ

カワイが作った廉価版ピアノ。
鍵盤が1枚板からではなく、中央部分で継いである2枚の接ぎ合わせ板を使用したり、
フェルトブッシングの代わりに段ボールのような硬い紙を使っていたり、
アクション部品を新たに開発した新素材(プラスチック等)に変更したりしています。
都会の団地向けの小型軽量ピアノということで開発したとも言われています。

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CLAIR


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クレール 日本

東京蒲田楽器製作所の創始者である斉藤喜一郎氏が戦後、
横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立して製作したピアノ。
現在のウイスタリア・ピアノ製作所

<ウィスタリア・ピアノ歴史(抜粋)>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッホルツ」および「ホルーゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。
CLEAR クリアー 詳細不明
COBLENZ Königl. Hof-Pianofabrik 詳細不明
COLLARD & COLLARD


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コラード・アンド・コラード イギリス(ロンドン) 詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
コラード&コラード(Collard & Collard)は、かつて存在したロンドンに拠点とする
有名なアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
社名は2人の兄弟フレデリック・ウィリアム・コラードとウィリアム・フレデリック・コラードに由来する。
1767年、ロンドン・チープサイド通り26番地に音楽販売および製造業者である
Longman & Broderipが設立された。
Longman & Broderipが販売する楽器は、ピアノメーカーのGeib and Guilfordが製造した。
現在知られている最も古いLongman & Broderipの楽器は1770年製の5オクターブの
スクエア・ピアノであり、ボストンの博物館に展示されている。
Longmanの共同経営者は何度か変わり、社名は1771年にはLongman & Lukey、
1774年にはLongman, Lukey & Comp. と呼ばれていた。
1778年に作曲家でピアノ教師のムツィオ・クレメンティが会社に加わり、
会社はLongman & Clementiとなった。
クレメンティの後の共同経営者の一人が木製家具職人のフレデリック・コラードであった。
コラードは楽器製作者として、特に響板の専門家として需要があった。
クレメンティが販売を担当したのに対して、コラードはピアノ生産に責任を持つようになった。
クレメンティは非常に保守的であり、ピアノ製造における革新に反対していた。
ウィリアムとサモシン・コラードの息子フレデリック・ウィリアム・コラードは、
1772年6月21日にサマセット州ウィベリスクームで洗礼を受けた。
14歳の時にロンドンへ移り、Longman, Lukey & Broderipに雇われた。
弟で共同経営者のウィリアム・フレデリック・コラードは、1776年8月25日にウィベリスクームで
洗礼を受けた。ピアノ製造技師および発明家としての才能に加えて、彼は詩や文学にも情熱を持っていた。
1799年、Longman & Co. は経営難に陥り、John Longman、ムツィオ・クレメンティ、
Frederick Augustus Hyde、フレデリック・W・コラード、Josiah Banger、
およびDavid Davisの新会社が事業を引き継いだ。
1800年6月28日、LongmanとHydeが引退し、会社はMuzio Clementi & Co. となった。
しばらくした後、弟のウィリアム・F・コラードが共同経営者として加わった。
1817年6月24日、Bangerが共同経営を下りた。
1831年6月24日、F・W・コラード、W・F・コラード、クレメンティの間の共同経営が終了した。
コラード兄弟は弟のW・F・コラードが引退する1842年6月24日まで事業を継続し、
F・W・コラードが単独の経営者となり、彼の2人の甥フレデリック・ウィリアム・コラードJr. と
チャールズ・ルーキー・コラードが共同経営に加わった。
1832年の後、長年クレメンティの名前で販売されていたピアノのブランドが
「コラード&コラード」と命名された。
多くの特許が取られ、主に演奏機構とフレームシステムの改良が含まれた。
会社はすぐに音楽出版を中止し、ピアノ製造に集中した。
例外として、彼らは1858年までイギリス東インド会社向けのラッパ、横笛、太鼓の製造も行なった
(1858年にインドの統治権がヴィクトリア女王に譲渡され、東インド会社は解散した)
コラードは1851年のロンドン万国博覧会にグランドピアノを出品した。
会社は2度の大火にあった。1807年3月20日、トテナム・コート・ロードにあった工場が全焼した。
1851年12月10日、カムデン・タウン、オーバル・ロードに新たに建設された工場が全壊した。
弟のウィリアム・フレデリック・コラードは1842年にピアノ製造業から引退し、
1866年10月11日にフォークストーンで死去した。
兄のフレデリック・ウィリアム・コラードは1860年1月31日にチープサイド通り26の自宅で88歳で死去した。
彼は1786年にロンドンに着いてからずっと同じ住所に居住した。
より多くのドイツのピアノメーカーがイギリスの市場で成功し始めたため、コラード&コラードは
1900年からイングランドにおけるピアノ製造の落ち込みに巻き込まれた。
1929年、コラード社はチャペル& Co.に買収された。
1963年の火災でコラードとクレメンティの全ての記録が失われた。
1980年、チャペルのピアノ製造および小売事業はケンブル&カンパニー(Kemble & Company)に売却された。
COLORATURA

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コロラトゥーラ

製造元:HAILUN楽器(中国) 出荷最終調整:アサヒピアノ(中国人社長、浜松)
ピアノ線(ミュージックワイヤー)は、レスロー弦を使用しているとのこと。

ピアノ自体のの雰囲気や作り、製造&販売背景が私がよく調律する
「ウエンドル・アンド・ラング」というピアノによく似ています。
ピアノの音色はまだ実際に聴いたことがないので感想はまだ書けませんが、
今後、調律する機会があればここに感想をアップさせていただきます。

<参考>
コロラトゥーラとは、クラシック音楽の歌曲やオペラにおいて、速いフレーズの中に装飾を施し、
華やかにしている音節のこと。具体的にはトリルが多用される。
これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルトの歌劇『魔笛』における
第2幕の夜の女王によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。

<ハイルンピアノ詳細:Wikipediaより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、
FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。

ハイルンピアノ公式HP:http://www.hailunpiano.com/
COLTOT コルトー 内外ピアノ(東京) 詳細不明
CONCERT
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コンサート 羽衣楽器製造(株)浜松市 詳細不明

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CONN キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
CONOVER
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コノーバー ケーブルピアノ社製(アメリカ・オレゴン州)
生涯をかけて音の研究に没頭したJ.フランク・コノーバーが作り出した最高級品質のピアノとのこと

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CONSERVATOIRE
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コンセルバトワール Conservatoire アトラスピアノが国立音大の研究室で作っていたブランド
※詳しくはアトラスの項を参照

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CONSOLE
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コンソール 日本 村瀬克己氏 詳細不明
CORBERT
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コルベール 日本 小出一三氏 詳細不明
COSMOPOLITAN コスモポリタン 日本 詳細不明
COSMOS


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コスモス

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
その他にも違うブランドでピアノを製造していたとの記録あり。

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CRAMER


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J.B.Cramer クラーマー/(クラマー)
イギリス(ロンドン)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J・B・クラーマー& Co.(J. B. Cramer & Co.)はロンドンにかつて存在した楽器製造、楽譜出版、
音楽販売業者である。1824年にヨハン・バプティスト・クラーマーによって創業された。
ボンド・ストリートにあった建物は1964年に会社がケンブル& Co.に買収された時に閉鎖された。
1824年に音楽家のヨハン・バプティスト・クラーマーとRobert Addison、Thomas Frederick Bealeによって
共同で創業され、「Cramer, Addison & Beale」と呼ばれていた。
ヨハン・バプティスト・クラーマーは1833年末に事業への関与をやめ、
1844年にAddisonはBealeとの協力関係を解消してRobert Hodsonとの事業を始めた。
Robert Hodsonは以前ルイス・ヘンリー・ラベニューと協力関係にあった人物で、
AddisonとHodsonはコンデュイット・ストリートの反対側のリージェント・ストリート210番地にあった
Cramer & Co.の道路の向こう側に「Addison & Hodson」を設立した。
Cramer & Co. 社はその後Cramer, Beale & Co. と呼ばれた。
次にウィリアム・チャペルがBaeleの事業に加わったが、1847年に関係を解消し、
事業はThomas Bealeによって行った。
チャペルは再び事業に加わったが、最終的に1861年に引退した。
当時「Cramer, Beale & Chappell」という名称が出版物上で使用された。
1862年、George WoodがBaeleとの事業に加わり、その期間は「Cramer, Beale & Wood」という
名称が使われた。1864年までに、Baeleは会社を離れ、名称は「Cramer, Wood, & Co.」に変わった。
主な店舗はリージェント・ストリート201番地、コンデュイット・ストリート67番地、
コンデュイット・ストリートとリージェント・ストリートの角にあった。
この住所は1820年代から1890年代までこの会社との結び付きがあった。1873年に会社は
「Cramer's Great City Warehouse」または「Cramer's City Warerooms」と呼ばれた展示場を開業した。
(最初はムーアゲート・ストリート43から46番地、後に40から42番地にも拡大した)
1896年から1901年に主要な店舗はリージェント・ストリート207および209番地に移転し、
その後1902年までにオックスフォード・ストリート126番地に移った。
1912年、主要店舗はニューボンド・ストリート139番地に移され、
1964年にピアノ製造会社ケンブル& Co.に買収されるまでここで営業を続けた。
ケンブルは限られた期間「J. B. Cramer & Co.」ブランドを使い続けた。
CREABEL クリーベル 協立楽器 詳細不明 ※注:他にもクリーベルという名称のピアノあり
CRISTOFORI クリストフォーリー(クリストフォリ) 発売元:三協ピアノ株式会社(浜松市) 詳細不明

CRISTOFORI

CRISTOFORI

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クリストフォリ 東洋ピアノ

18世紀にピアノを発明したとされるイタリアのBartolomeo Cristoforiにちなんで
命名されたクリストフォリシリーズ。
家具調のRU-118と木目調ピアノのスタンダードなデザインのRU-121があった。

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CURRIER


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キュリエール CURRIER アメリカ

インターナショナル・ミュージカル・インストゥルメント社
会社名はやや大げさな名前ですが、大衆的なピアノを作る会社で、
工場はノースカロライナにあり、アメリカのピアノ工場としては
10本の指に数えられるほどの大規模な工場です。
ハワイ州、アラスカ州を含むアメリカ50州すべてに代理店を持ち、
ヨーロッパ、南米、カナダ、カリブ海諸島などにも輸出されています。
この会社は歴史こそありませんが、スピネットの小型のものから
一般的なアップライト、そしてグランドにいたるまでその種類は
極めて多く、さらに会社の中に独自の配送部門も持ち。全米各地へ
工場から自社のトラックで輸送が可能だそう。
伝統的な品質を誇るというよりは、販売力で勝負しようとする会社といえよう。

ボストンで同じ名前のキュリエール(CURRIER)というピアノが
作られているが、これとは全く無関係です。
こちらのキュリエール社は100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。

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CURRIER


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アメリカ ボストン
100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。上記キュリエールとはまったく別の会社です。
CZERNY チェルニー ロシア(ソ連) 詳細不明









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