【頭文字Pから始まるピアノブランド】
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ピアノ銘柄ブランド トレードマーク 紹介 & 知名度ランキング ![]() |
メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 |
P. WELCE![]() このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方 |
P.WELCE ピー・ウェルス フクヤマピアノ(福山ピアノ社) 福山ピアノの命名した多数のブランドの一つで、小型で価格の安いものにつけられていた。 中音、高音域のピアノ線が通常のピアノは3本張りなのに対して2本で張られています。 鍵盤数も一般的な88鍵ではなく、鍵盤数も少ないピアノも製造で、廉価版ピアノ。 戦後間もない頃のピアノは材料を苦心して集めたピアノだったようです。 ピーウェルスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
PACO 画像クリックでHPへ戻る |
パコピアノ/グラチアピアノ PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO 金正日が自国でもピアノ製造を作れとの意向で、朝鮮総連系の日本のピアノ製造会社との 合弁で『平壌ピアノ合弁会社』を設立(1988年) この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い 北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内(浜松)で行い出荷。 製造が容易な部品のみを北朝鮮で作り、その他の部品は全て日本から輸入して組み立てていました。 製造開始当時は、北朝鮮製の部品の比率は1%程度であったとされています。 日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて 日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。 現在は既に日本との合弁を解消しています。 日本国内での製造輸入は、『PACO』社が行なっていました。 当時の日本においては、アップライトピアノの市場が飽和していた上に、デジタルピアノが登場した事により、 アップライトピアノ製造を主とする工場は苦境を迎えていた。 こうした状況下での、北朝鮮からの技術協力要請は、好意的に受け止められていた。 日本人技術者が滞在しての技術指導は約7年程度続いたとのこと。 ブランドはGRATIAE(グラチア)、FEINTON(フェイントン、ファイントン)など低価格のピアノ。 当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、 東南アジア・中国・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。 1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、 ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。 グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク →★ パコのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
PAPE このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
パープ 創業1817年 フランス(パリ) 詳細不明 |
PAUL GERHARD | 詳細不明 |
PAUL WEISS このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
PAUL WEISS ポール・ワイス ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明 |
PEACE このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
PEACE ピース 日本 詳細不明 |
PEARL RIVER![]() ![]() 画像クリックでHPへ戻る |
PEARL RIVER パール・リバー(珠江) 中国(広州) 珠江牌とよばれる広州製のピアノ。珠江とは広州の街の真ん中を流れる大河。 ピアノはすべてアップライトで、背が低く、当時スピネットタイプの小型が多かった。 中国のピアノのうちでは最も安価なものの部類。 <以下、ウィキペディアより引用抜粋> 広州珠江鋼琴集団(こうしゅうしゅこうこうきんしゅうだん、グァンヂョウジュジャンガンチィンジトゥアン、 英語: Guangzhou Pearl River Piano Group Co.,Ltd、SZSE: 002678)股份有限公司は、 中国で最大のピアノ製造業者であり、世界最大のピアノ工場を有している。 1956年に中華人民共和国広東省広州市で設立された。 通称は広州珠江鋼琴集団股份、広州珠江鋼琴集団、広州珠江鋼琴など。 中国国外ではパールリバー(Pearl River)として知られている。 パールリバーは年間10万台を越えるピアノを生産する能力があり、それらを80を越える国々へ輸出している。 今日、パールリバーピアノは幅広いブランドと水準の下で生産されている。 パールリバーは「Kaiserburg」、「珠江(Pearl River)」、「Ritmuller」、「京珠」などのブランドを中心に 様々な種類のピアノを製造・販売している。 2016年1月、パールリバーはドイツ・ブラウンシュヴァイクのピアノメーカーヴィルヘルム・シンメルの 株式90%以上を取得した。ドイツにおける経営は変わらないままであり、シンメルの工場は 今でもシンメル家によって管理されている。 1998年、パールリバーは中国のピアノメーカーとして初めて、全ての部品と構成要素を含む グランドピアノおよびアップライトピアノの全製品について国際標準化機構ISO 9001認証 (ISO 9001)を取得した。パールリバーは最近ISO 14001も取得した。 パールリバーは米国において自社での流通を行っていたが、2000年に流通を North American Musicに引き渡した。パールリバーは自身の社名の下で米国において ピアノを販売した最初の中国ピアノメーカーの一つであり、ピアノ教師と調律師によく受け入れられてきた。 パールリバーは世界最大のギターおよびバイオリン製造業者の一つでもあり、 百貨店ターゲットで一般に見られる人気のあるギターブランド「ファーストアクト」の主要な供給業者である。 ドラム、金管楽器、木管楽器も国際的に販売している。 中華人民共和国では、自身のブランド名「紅棉」の下でギターを生産している。 パールリバーは新しいリットミュラー(Ritmuller)シリーズを作るために ピアノデザイナーのLothar Thommaを雇った。 最終的に、Thommaはリットミュラーシリーズのパフォーマンスモデルとプレミアムモデルの 両方を設計するか設計を手助けするかした。 パールリバー社は、Lothar Thomma設計のリットミュラーピアノはヨーロッパのスケール設計を備え、 最高級のヨーロッパ製部品を使用し、手仕上げを行うためにより小規模でゆっくりとした製造工程である、 と述べている。パールリバーとリットミュラーの違いには、Thomma設計の低張力ドイツ式スケール、 ドイツFilzfabrik Wurzen GmbH製フェルト、ドイツ・レスラウ(Röslau)製弦、本物の黒檀鍵、 ドイツAbel製ハンマー(パフォーマンスモデル)及びドイツレンナー製ハンマー(プレミアムモデル)等がある。 米国の3つの大規模なピアノ小売企業はOEM自社ブランドの供給元としてパールリバーを使っている (Jordan Kitts Music、Sherman Clay〔閉店〕、Schmitt Music)。 これらの小売チェーンは独自のブランド名(Henry F Miller、Christofori)を使用している。 ヤマハは1995年にパールリバーと合弁事業を作り、中国市場向けのピアノを製造するための工場を設立した。 この工場は経済技術開発区の広州の東、パールリバーの工場から約35マイル離れている。 この工場はパールリバーピアノグループのために2つのモデル、UP125M1およびリットミュラー UP126Rを生産している。どちらの製品種目も小売ピアノ店によって米国で販売され、 鍵盤の横に「Yamaha Pearl River」という追加の刻印が押されている。 パールリバーはスタインウェイ・アンド・サンズの「エセックス」ブランドのグランドピアノと アップライトピアノを含む全てのモデルも広州工場にて製造している。 2005年5月1日、スタインウェイ・アンド・サンズとパールリバー・ピアノグループは 合意について合同で発表した。両社はスタインウェイ・アンド・サンズが系列会社の ボストンピアノCo., Inc. のために設計した複数の新しいエセックスモデルの開発を開始した。 エセックスピアノは2006年の初めに市場に届いた。 これはスタインウェイの中国における初の事業であり、 パールリバーが西洋のピアノメーカーと結んだ初のOEM関係であった。 Hallet, Davis & Co. Boston (HD&C) は、通常Hallet & DavisまたはH&Dと呼ばれる ピアノ製品ラインである。元々のHallet, Davis & Companyは1841年に George H. Davis、Russell Hallet、およびその他の共同経営者によってボストンで設立された。 この会社はDavisと創業者とは別のHallet(Benjamin Franklin Hallet)によって 1950年代にボストンで再構成された。 1900年代初めにW. W. Kimball CompanyがHallet & Davisを買収した。 1905年、持ち株会社Conway CompanyがKimballからHallet & Davisの名称を取得した。 1927年にConwayはピアノ事業を整理した。 Hallet & Davisのブランド名と100年以上続くその製造の起源に関しては混乱があった。 1904年12月版の「Piano and Organ Workers’ Official Journal」において、 編集者らは「数年前にHallet & Davisの工場がシカゴから撤去され、 Kimball Companyと合併したにもかかわらず、いわゆる業界紙がボストン製の楽器として Hallet & Davisピアノを発表し続けていること、結果として犯罪的なごまかし・詐欺を手助けし 幇助していることについて読者は興味を持って知りたいと思っていることだろう」と述べた。 20世紀中頃、 Hallet & Davisの名称は、その他多くの 米国ピアノブランドと同じように、 エオリアン-アメリカンCorp.(1985年に破産宣告)の下に集約されていた。 Hallet & Davisブランドとその適切なボストンとのつながりを復活させようという試みが 1998年に成され、商標「HALLET, DAVIS & CO. BOSTON」がNorth American Music, Inc. によって 出願された。この出願は米国特許商標庁(USPTO)によって「拒絶/却下または無効」とされた。 その翌年の1999年、North American Musicは再びHallet & Davisの商標 (この時はBOSTONを外して単に「HALLET, DAVIS & CO.」として)を出願し、 最終的に2001年にUSPTOによって許可された。 新たなH&Dピアノがマサチューセッツ州ボストンと少しの関係もないという事実にもかかわらず、 中国のパールリバー・ピアノグループはH&Dのステンシルの下に「Boston」を (登録商標の一部ではないにもかかわらず)入れている。 パールリバー・ピアノグループは2014年以降H&Dラインを生産してきた。 2014年以前は、このブランド名のピアノは東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)によって作られていた。 しばらくの間、H&Dブランドは両方のメーカーから同時に生産されていた。 今日、Hallet & DavisはNorth American Musicが卸すために製造されるピアノのOEMラインである。 ここ数年全てのH&Dピアノはパールリバーによって作られているものの、 このブランドには非常にさまざまなデザインと品質を持つ詳細が不明確な製造の歴史がある。 過去このブランドは、北京星海楽器や東北鋼琴(ドンペイ・ピアノ)、 Silberman Piano、Parsons Music、そしてパールリバー・グループを含む 複数のピアノメーカーによって製造された。 パールリバーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PEARL RIVER ユンチャン(パールリバー) 韓国 詳細不明 |
PERZINA![]() このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製 ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、 現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。 1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、 北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。 現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある ピアノのひとつとなりました。 また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、 ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。 しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は 東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、 大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。 2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。 (※)第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。 <以下、ウィキペディアより引用抜粋> ペルツィーナ(Perzina、Gebr. Perzina〔ペルツィーナ兄弟〕)は、1871年から1929年頃まで ドイツ北部のシュヴェリーンの鍵盤楽器製造業者(Gebr. Perzina GmbH、Alvari-Piano-GmbH、 Pianofortefabrik Gebr. Perzina)によって使われたブランド名である。 日本ではペレツィーナとも呼ばれる。 現在、ペルツィーナブランドのピアノはオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・ 煙台ペレツィーナ (Yantai Perzina Piano Manufacturing Co., Ltd.) によって生産されている。 ザクセン系ピアノ職人を父に持つユリウス・ペルツィーナとアルバート・ペルツィーナの兄弟は、 20代後半になると父の仕事を引き継ぎたいと望み、ベヒシュタインの創業者である カール・ベヒシュタインの元で修行した。 その他にもドイゼン(ドイツ語版)やシュヴェヒテン、レーニッシュの下で修行と経験をつみ、 ピアノ職人の技術を修得したペレツィーナ兄弟は、1871年7月1日にドイツ北部のシュヴェリーンという町で 「Pianoforte Fabrik Gebrüder Perzina」(ペルツィーナ兄弟ピアノ工場)を創業した。 会社を設立した初年度は20台のピアノが製造された。1883年にメクレンブルク大公家御用達の称号が ペレツィーナに授与された。数年後、Gebr. ペルツィーナ社は「オランダ女王」、「ポルトガル王」、 「アンハルト公」の御用達称号を授与された。 ペルツィーナ社はオランダのウィルヘルミナ女王や、ハインリヒ・メクレンブルク=シュヴェリーン (オランダ女王ユリアナ王妃の父)、オルデンブルク公爵等にピアノを納めた。 ピアノ工場を開業して数年後、兄のアルバートが引退したが、 社名のGebr. ペルツィーナ(ペルツィーナ兄弟)は残った。 1894年にペルツィーナ社はアントウェルペン国際博覧会は、1895年にアムステルダム国際博覧会へ出品した。 1900年頃から会社は急成長をし始めた。1901年のレターヘッドでは自社を 「ドイツ・バルト海諸国で間違いなく最大で最も効率的なピアノ工場」と形容していた。 1897年の始め、シュヴェリーン工場のスタッフが約10週間仕事を止めた。 従業員らは賃金の引き上げを求めてストライキを行った。 1897年4月、わずか52歳で共同創業者のユリウス・ペルツィーナが死去した。 工場の経営は、合名会社の設立後、続く20年間ハンブルクの実業家ダニエル・フス(Daniel Huss)の 手に渡った。社主の義理の息子は経営責任者としてピアノ工場を手工芸工場から産業工場へと転換した。 創業年の1872年に生産された楽器は20台だったが、1897年には既に315台、1900年までには シュヴェリーン工場の生産数は年間768台に伸びた。 1904年7月26日の壊滅的な火災によって生産建物のほとんどが破壊された。 それからの3年間にわたって、宮廷石工のLudwig Cleweが合名会社の株主の指定にしたがって 新たな工場建物を建設した。この中にはWismarschen通り44番地の本館も含まれ、今日も現存している。 1910年頃には年間製造台数が1000台まで増加(グランドピアノの製造は1905年から開始)。 数年後、製造工場を拡大するためシュヴェリーンより約60 km南下したレンゼンという町に移転した。 第一次世界大戦まで急激に成長した。この頃がドイツ時代のペレツィーナの製造のピークであった。 第一次世界大戦の開戦以降、Gebr. ペルツィーナは「フォッカーヴェルケ・シュヴェリーン (Fokkerwerke Schwerin)」のためにバルブとプロペラの生産を行い、 1914年8月からは弾薬袖も生産ラインに加わった。1916年、ペルツィーナ社は検察庁の標的とされた。 排出された薬莢が新たな供給品に再び混入された; 従業員1名が贈収賄で通報、逮捕された。 このスキャンダルは多忙な経営責任者ダニエル・フスを直撃し、 10カ月の禁固刑と2年間の市民権剥奪を言い渡された。 1917年8月23日、アントニー・フォッカーが工場と400名の従業員を買収した。 ヴェルサイユ条約の条項の結果として、航空機メーカーのフォッカー社は1919年に本社を シュヴェリーンから移転した。 戦後、フォッカーはピアノ工場をオットー・ルボー(Otto Libeau)に貸した。 1920年4月から、会社はピアノに加えて家具と木箱も生産した。 グーテンベルク通りの第三工場は1923年に「Alvari-Piano-GmbH」に改称した。 Wismarschen通りにおけるピアノの生産は1929年頃まで行われた。 1930年代、「低地ドイツ・ベオハバター」(Niederdeutsche Beobachter)紙が以前の本館に移転してきた。 シュヴェリーンのピアノ製造者Wilhelm Meyerはオットー・ルボーと共に 「Gebr. ペルツィーナGmbH」という名称でピアノを製造した。 ルボーは1930年代中頃に会社を離れた。1929年まで、ペルツィーナ社はシュヴェリーンの住所録に 「Gebr. Perzina GmbH, Pianoforte-Fabrik, gegr. 1871. Inh. Wilhelm Meyer, Wismarsche Straße 153」と 掲載されていた。1984年から2013年まで、シュヴェリーン市立図書館は 「ペルツィーナハウス(Perzinahaus)」を使用した。 二度の世界大戦によって多くのピアノメーカーが姿を消す中、 ペルツィーナは東ドイツの国営企業として生き延びた。 「Perzina」ブランドのアップライトピアノとグランドピアノはレンツェンにおいて 国有企業の下で1959年から1972年まで生産された。 1930年代の始め、ベルリンのピアノ修復者Friedrich Geilがレンツェンで 「Wagner」ブランドのピアノ生産を始めた。 Geilはシュヴェリーンの議会から登録商標「Gebr. ペルツィーナ」を使用する権利を与えられた。 1972年、この会社は収用され、VEBドイツピアノ組合ライプツィヒに譲渡された。 1989年の転換後、ブランド名「Wagner」および「Perzina」はGeil家によって再び引き継がれ、 ピアノ生産の再編が目指された。経営責任者の突然死の後、1990年末に以前の生産責任者が新たに 設立された有限会社(GmbH)のトップとなった。 1990年代中頃にオランダの楽器卸売業者Ronald G. Bol(Music Brokers International B.V.)が 世界的な販売権を取得し、その後事業に参加した。 Bolは徐々に生産をドイツ国外へ移し(1998年に中国の煙台〔エンタイ〕に生産拠点を移転)、 レンツェンのピアノ工場は最終的に1996年12月に閉鎖された。 ペルツィーナブランドのピアノは、Yantai Longfeng Piano Co.での生産を経て、 現在は煙台ペレツィーナの年間15000台の生産能力(アップライト)をもつ近代的な設備のもとで製造されている。 煙台ペレツィーナは、2003年にBolと中国人実業家Sun Qiangとの共同で設立された。 Bolがこの民営企業の副社長で、海外への供給責任者である。 主任技師はドイツ人のHas Leferinkである。彼によって設計や品質管理がされている。 ドイツ・レンゼンのピアノ工場は1996年12月に閉鎖され、 現在の欧州本部はオランダ・ヴィーネンダールにある。 煙台ペルツィーナで製造されている「Gebr. Perzina」ロゴのピアノのみが、 ドイツ生まれの歴史ある「Perzina」ブランドを継承している。 それ以外では製造されていない。60%以上を日本や欧米をはじめとする海外50か国以上に、 残りは中国内100以上の都市に供給しているとしている。 日本では、1972年設立のピアノ量販店「ピアノ百貨」の7店舗で販売されている。 Music Brokers Internationalは他にも欧州生まれのピアノブランドの製造権を所有しており、 煙台ペルツィーナで、これらの他ブランドのピアノも製造している。 「Gerh. Steinberg」(ドイツで1908年創業)、「Carl Ebel」(ドイツで1877年創業)、 「Eavestaff」(イギリスで1823年創業)、「Rippen」(オランダで1937年創業)などの ブランドがそれである。 2002年に公開されカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した映画「戦場のピアニスト」の 廃墟の中の演奏シーンで、ドイツ時代のペルツィーナのグランドピアノが使用された。 また、ペルツィーナ(Gebr. Perzina)のアップライトピアノは、アメリカのLarry Fine著 「THE PIANO BOOK (2007-2008)」のピアノランクにおいて、中国製ピアノとして初めて グループ3のAランクに入った。当時同ランクメーカーの中では、低価格であった。 現在のペレツィーナのアップライトピアノは、現代ピアノの心臓部とも言われる響板に特徴がある。 フローティング響板(floating Soundboard)、逆クラウン響板(reverse-crown soundboard )などと 呼ばれているものである。いずれも、現代の他のピアノにはまず見られない非常に珍しい構造と言える。 一般的なピアノは、響板は響棒と接着された状態でその全周を土台である「バック」に対して接着され、 しっかりした土台を固定端とすることによって、響板振動の無駄な減衰を防止する。 しかし、現在のペレツィーナのフローティング響板は、響板の下辺が支柱等で構成されるバックから 完全に離れており、響板の左右辺は支柱にネジ止めされている。 また、通常のピアノの響板は、弦側に凸状の形状であり弦圧に対して突っぱるようになっている。 これが響板の「クラウン」であり、適切なクラウンこそが、ピアノの力強い音の源泉であると考えられている。 アップライトピアノの寿命とは、響板がひどく割れたり、響板が沈下してクラウンが失われ弦圧が 維持できなくなったときだと言われることがあるほどである。 適切なクラウンの形成とその維持には高度な技術が必要とされている。 逆クラウン響板では、最初から響板が弦圧によって弦側からみて凹状になっている。 これにより、演奏者側により多くの音響が放射され、また(逆)クラウンが長く保たれるとしている。 また、他の中国製ピアノとは異なり、多くの部品をドイツをはじめとする欧州から調達しているとしている。 このことを煙台ペレツィーナは、彼らのピアノに欧州標準品質(ESQ:European Standard Quality) という 独自のマークをつけて表現している。 ペレツィーナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
PETROF 画像クリックでHPへ戻る |
ペトロフ PETROF 旧チェコソロバキア国家公団製造 創業1864年 チェコスロバキア製(現在:チェコ共和国) 非常に音色が柔らかでまろやかなピアノで、このピアノを指弾すると一瞬で虜になる人がいるほど。 ペトロフアップライトの最高音のミュージックワイヤー(ピアノ線)は、13番よりさらに細い 12番半を使っているピアノもあります (普通のピアノは13番が一番細い弦です) 温湿度の変化に弱い印象も受けますが、総合的に良いピアノだと思います。 ただ、外装に接着してある装飾のモールディング(装飾の飾り)は本当によく剥がれます^^; 一番下のトレードマークは日本向けではないタイプ(アメリカ購入)のペトロフのアップライトです。 <概要> ペトロフはアントニーン・ペトロフによって、チェコのボヘミア(チェコ西部・中部を指す歴史的地名)で 生み出されたとても素晴らしいピアノです。社会主義国家出身のピアノなのであまり宣伝はされませんが、 ロシア(旧ソ連)や東欧諸国、西欧諸国では名器として知られています。 このピアノ製作会社は社会主義時代に国有化される以前、三代にわたりペトロフ家が所有し、 業界の技術革新に乗り遅れることなく、博覧会で数々の賞を受賞してきた。政治変動の世紀を乗り 越え、現在もペトロフ社はチェコ共和国でもっとも有名なメーカーの地位を守り続けている。 コンサートグランドは戦前~戦後を通じて各地の博覧会や国際見本市に於いて 金賞を獲得しており、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Michelangeli) (ミケランジェリは、イタリア出身のピアニスト)や、スヴャトスラフ・リヒテル(ソ連出身のピアニスト)、 ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff)(ドイツ出身のピアノニスト)らもこのペトロフを 愛用していたと記録が残っています。さらにはジャズ音楽のオスカー・ピーターソンや、 デューク・エリントンもペトロフを絶賛したと伝えられています。 <詳細な歴史> 家具職人の修行を積んだアントニーン・ペトロフは、1857年に19歳でウィーンへ出て、 ピアノ製作者のおじ、ヨハン・ハイツマンに弟子入りする。 アントニーン・ペトロフは、オーストリアのさまざまな製作者のもとで働いたのち、 1864年に生まれ故郷のフラデツ・クラーロヴェーに戻って会社を設立した。 初めはウィーン式アクションのピアノを少数製作していた。 旅行を多くしたペトロフは、各地の最新の技術発展を敏感に察知して自らの設計に取り入れ、 1875年には鋳鉄フレームと、イギリス式グランドアクションを改良したレぺティション・アクションを用いた。 1880年に、ペトロフはグランドに加えてアップライトピアノの生産も開始し、亡くなる1915年までに 35,500台のピアノを販売した。 アン卜ニーンの3人の息子と3人の孫たちは、ふたつの大戦と大恐慌を上手く乗リ切って会社を運営した。 会社は1948年に国有化され、産業通商団体チェスコスロヴェンスケー・フデブニー・ナーストロイェ・ ミュージックエクスポートの一部となり、その傘下で繁栄を続けた。 1970年にアップライトピアノの生産を増大するための新工場が建てられ、さらに1989年には、 グランドピアノ市場に集中するためのもうひとつの新工場が建てられた。 そして1990年までに製造番号は450,000に達した。ペトロフ社は近年、年間約12,000台のアップライトと、 年間約1,750台のグランドピアノを生産し、約1,000人の従業員を雇っている。 1997年に設立されたトヴァールナ・ナ・ピアニナ社が、2001年にペトロフ社と結合し、 1991年に始まった会社私有化へのプロセスはクライマックスを迎えた。 ■機種/モデル バリエーション (並び順は後述機種ほど高級機です) ・グランドピアノ (カッコ内の数字はペダルの数) MODELⅤ(2)、MODELⅣ(3)、MODELⅢ(3)、CHIPPENDALE(2)、ROCOCO(2) ・アップライトピアノ CLASSIC、DEMI-CHIPPENDALE(ねこ脚)、125-I、BAROQUE、 CHIPPENDALE(ねこ脚)、ROCOCO(ねこ脚) ペトロフ独特の鉄骨フレームの音響効果を高めるために付けられた無数の凹凸 →★ ペトロフ(日本以外向け)のまくり部分のブランド銘柄マーク →★ <ピアノ調律技術者向け附録> 張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★ <下記はペトロフ社の扱うピアノブランド(2018年現在)> ANT.PETROF、PETROF、Ant. Dalibor、Weinbach、Rösler、SCHOLZE、FIBICH、AKORD <附録> ペトロフピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1900年~2000年) →★ <以下、ウィキペディアより引用抜粋> ペトロフ(Petrof)はチェコ共和国、フラデツ・クラーロヴェーを本拠地とするピアノメーカーである。 1857年、アントニン・ペトロフは、ウィーンでピアノ工房を営む叔父ヨハン・ハインツマンの元で ピアノ作りを学び始め、フリードリッヒ・エルバーやシュヴァイクホーファーといったその他の 著名なピアノ製作者の下で修行した。1864年に故郷のフラデツ・クラーロヴェーに戻り創業し、 父の工房で最初のコンサートグランドピアノを完成させた。 その後、業界で初めて鋳造フレームを採用したり、当時まだ普及していなかったアップライトピアノの 製造をいち早く始めるなど、斬新な技術と高い品質で名声を得た。 1899年にオーストリア王室御用達を取得、1958年にはブリュッセル万博金賞を受賞。 1948年に国有化され経営権は創業家の手を離れたが、1991年に4代目のヤン・ペトロフが経営者として復帰、 2004年より5代目のズザナ・ツェラロヴァー・ペトロフォバー(Zuzana Ceralová Petrofová)が 経営を引き継ぎ現在に至る。 ペトロフは1932年にエレクトロ-アコースティックピアノネオ-ベヒシュタインを生産するライセンスを取得し、 ネオ-ペトロフ(Neo-Petrof)として販売した。 ペトロフ工場は他のブランドも生産している。イジーコフ工場では、Weinbachブランドのピアノが 事前に組み上げられ、最終的に中国で組み立てられる。 この工場では第二次世界大戦までアウグスト・フェルスター社の工場があった(現在の拠点はレーバウ) 国営企業とペトロフ社は2000年までドイツのフェルスター社とは独立にこの工場で August Försterブランドのピアノを生産した。 ペトロフ公式ホームページ(日本語)→https://jp.petrof.com/ ペトロフのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
PFEIFFER![]() 画像クリックでHPへ戻る |
PFEIFFER プファイファー/(ファイファー) ドイツ(バーデン=ヴュルテンベルク州) 1862創業 <以下、ウィキペディアより引用抜粋> カール・A・プファイファー(Carl A. Pfeiffer)GmbH & Co. KGは、 ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州レオンベルクのアップライトピアノおよび グランドピアノ製造業者である。伝統的な技術を用いたピアノ製作でよく知られている。 1862年にヨーゼフ・アントン・プファイファー(1828年–1881年)によってシュツットガルトで創業された。 彼の父カール・A・プファイファーはグウォグフ(現在のポーランド。ドイツ語名グローガウ)で 既にピアノ製作者として働いていた。後者は2つの響板を持つダブルグランドピアノ(独: Doppelflügel) を初めて製作した。今日、会社はプファイファー家の5世代目によって経営されている。 ヨーゼフの息子、カール・アントン・プファイファー(1861年–1927年、社名の由来)は ピアノのための道具をいくつか開発した(ワイヤーを正確に曲げるためのいわゆるKröpfzange〔ペンチの一種〕等) 息子のヴァルター・プファイファーもピアノ、特にアクションを科学的に扱った。 このテーマに関する彼の著作はピアノ製作において標準となる文献として一般的に認められている。 ドイツ民主共和国(東ドイツ)の西への編入後、ライプツィヒを拠点とするピアノ工場であった ルートヴィヒ・フップフェルトAGおよびレーニッシュを買収した。 プファイファー自身は1994年からレオンベルクを拠点としており、高品質のピアノ製造を続ける 数少ない会社の一つである。2005年時点での年間生産台数はグランドピアノが約10台、 アップライトピアノが約100台である。 レーニッシュおよびフップフェルトブランドのピアノの製造は2009年に破産するまで続けられた。 その後、レーニッシュの名称はブリュートナーが購入した。 公式HP:https://www.pfeiffer-pianos.com/en/home |
PHOENIX このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
PHÖENIX (PHOENIX) フェニックス 日本 詳細不明 |
PIANY このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
ピアニー 全音楽器製造KK(浜松) 詳細不明 PIANY(ピアニー)の登録商標(昭和46年2月登録)は現在、株式会社全音楽譜出版社にあり、 今ではピアノのブランドではなく鍵盤ハーモニカ、「ゼンオンピアニー」という商品名で使われているようです。 |
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PIERRE ピエルレ 東洋ピアノ “ピエルレ”は、フランス語で宝石を意味する言葉とのこと。 ピエルレのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PLEYEL プレイエル フランス/パリ 工場:フランス南部アレス 創業1807年 1807年、50歳のイニャス・プレイエル/イニャス・プライエル/イグナーツ・プライエル/ イグナース・プレイエル/イグナーツ・プレイエル/(Ignace Pleyel)はピアノ会社を設立。 (→発音によって色々な読み方があり) イニャス・プレイエルは、ハイドンの弟子であり友人でした。 プレイエルは1807年に最初のピアノをパリで製作する以前に、41曲の交響曲と、70曲の四重奏曲、 数曲の五重奏曲、そしてオペラを作曲しており、演奏家としても作曲家としても高く評価されていました。 このメーカーはのちに世界の重要な音楽遺産となりました。プレイエルの繊細な響きのピアノは、 極めて微妙なニュアンスを表現できたために人気を博し、「音楽があふれ出すのを感じ、自分自身の音を 鳴らす元気があるときなら、私はプレイエルのピアノを必要とする」と語ったのは、あのF・ショパンでした。 プレイエルの名は、200年近くもの間、ピアノ音楽の歴史と神髄を支えてきました。 類希な才能をもったイグナースは、優秀な作曲家、また発明家として多才ぶりを遺憾なく発揮し、 ヨーロッパから注目を浴びる人物でした。 「ピアノとは、演奏者の声としての楽器であり、そして芸術品であるべき」と主張したイグナースは、 厳選された素材、卓越した技術、豊かな感性が織りなす表現の可能性を信じ、楽器創りにその生涯を捧げました。 彼の思想は、熟練した職人によって堅く守られ、今なお南仏Alesの地で、その音色を響かせ続けています。 プレイエルは、洗練された響き、優雅なタッチ、多彩な表現を放つ名器の代名詞といえましょう。 <歴史> 有名な演奏家で、交響曲やオペラの作曲家でもあったイニャス・プレイエル(1757~1831)は、 楽器の製作に魅せられ、新しい作曲家たちのニーズに応えるピアノを作りたいという欲求に突き動かされ、 パリに会社を設立した。 1807年にプレイエルが最初に製作したピアノは、垂直に弦が張られた小型のアップライトで、 ロンドンでよく見られたコテージ・ピアノをもとに製作したものでした。 プレイエル自身は、ピアノ製作に関する専門家ではなかったが、幸いなことにピアノ事業を開始した初期に アンリ・パープの助力を得ることが出来た。その時期は1811年からの5年間でパープがイギリスに渡って ピアノ製造の技術を学ぶことができたのも、プレイエルの資金援助があったからである。 その後、パープは独立してピアノ製作を開始し、プレイエルピアノのライバルとなったが、プレイエルの側も 巧みな方法をとった。当時のヨーロッパに名高かった名ピアニストたちを見方につけたのである。 カルクブレンナーは自ら経営に参加したし、クラーマーやモシュレス、ジョン・フィールドといった 名ピアニスト達は、プレイエルのピアノを賞賛した。その中でも最も力があったのは言うまでもなく フレデリック・ショパンだった。 19世紀のフランスにおいて、プレイエルはエラールと相競った。セバスチャン・エラールが自らピアノを作る 職人だったのに対して、イグナーツ・プレイエルは経営者であった。しかもこの2人は同じ年に没した。 ちなみに会社を引き継いだエラールとプレイエルの息子たちもなんと同年に没している。 その後、会社が著しく成長すると、イニャスは長男のカミーユを経営者に加えた。 1815年に会社を引き継いだピアニストとしての教育を受けたカミーユは、イギリスとフランスのピアノ製作者や 演奏家たちに接触して意見を求めたり、アイディアを交換したりでき、会社の重要な役割を担うようになった。 生産高は増大していったが、それは一部のプレイエル・ユーザーにとっては残念なことだったようで、 1839年にリストは、ロッシーニが語ったことを手紙の中でこう引用している。 「プレイエルはピアノを多く作りすぎている。彼にはもう、それらの面倒を見る暇がない」と。 1855年、会社はカミーユの義理の息子、オーギュスト・ヴォルフに引き継がれ、 ピアノはプレイエル、ヴォルフ・エ・コンパニー(Pleyel, Wolff & Cie)のブランド名で作られるようになった。 1865年までにプレイエル社は約36,000台のピアノを生産したが、これは27年も早く創業していた エラール社の当時の生産高とほぼ同じだった。 1887年に会社はヴォルフの義理の息子のギュスターヴ・リヨンに受け継がれ、 プレイエル、リヨン・エ・コンパニーのブランド名で、ハープ、ティンパニー、チェンバロなど、 ピアノ以外の楽器の生産も行われるようになった。 一方、ピアノの生産も続けられ、プレイエラと称する自動演奏ピアノや、ひとつのケースに向かい合った ふたつの鍵盤が付いているダブル・グランドピアノも作られた。1910年には年間約3,000台の ピアノを生産するようになり、ピークを迎えたプレイエル社は、フランスの上質なピアノの市場を支配した。 1934年、プレイエル社はアントワーヌ・ボール社を買収する。しかし1961年には財政難に直面し、 エラールとガヴォー合併会社と合併した。この会社は1971年にシンメル社に買収され、 プレイエル・ピアノは毎年少数のみ生産された。それから1994年にラモー社がプレイエル(PLEYEL)と、 ガヴォー(GAVEAU)のブランド名を買い取り、その2年後に、プレイエルはふたたび経営権を取り戻す。 プレイエル社は、南フランスのアレスに最新式の生産および研究開発施設を建設して、 その後も、プレイエルの伝統を忠実に守る素晴らしいピアノを生産した。 <プレイエルのエピソード> プレイエル社は、デュオクラーヴ(Duoclave)と称するグランドピアノを少数製作しました。 これは、J.ピアゾンが1850年にニューヨークで特許を取得したアイディアをもとにしたもので、 二つの交差弦がひとつの響板を共有し、長方形のケースに収められた楽器である。 プレイエルは気前のよい音楽界のパトロンで、才能ある音楽家を発掘する才に長けた彼は、 1832年にパリのフォブール・サントノーレ通りのサル・プレイエルで催された演奏会において、 あのフレデリック・ショパンをデビューさせました。フランス音楽文化の歴史に名を残したこの二人は 生涯友人であり続け、ショパンはプレイエルのピアノを弾き続けました。素敵な話ですね♪ 2008年にアップライト、2013年にグランドの製造を停止しました。 Gaveau(ガヴォー)、Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造 エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます! <附録> プレイエルピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1810年~2000年) →★ <以下、ウィキペディアより引用抜粋> プレイエル(Pleyel et Cie)は、フランスのピアノ製作会社である。 ピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」は、イグナツ・プレイエルと その息子カミーユ(1788年 - 1855年、ピアノの名手で1815年に父の仕事の共同経営者になった) によって設立された。この会社はショパンに使用されたピアノを生産し、 また、ショパンがパリで最初に演奏会を(そして最後の演奏会も)行ったコンサートホール 「サル・プレイエル(Salle Pleyel)」も経営した。 19世紀末ころ、プレイエル社は最初の半音階ハープを製作した。 20世紀初頭には、ワンダ・ランドフスカの要請で、ハープシコードの復活に手助けをした。 イグナツ・プレイエルによって1807年にPLEYELを冠した最初のピアノが製造される。 1813年にイグナツは、正式にカミーユにその経営権を譲り、1829年にイグナツの健康状態の悪化を機に プレイエル親子は財産の整理を始め、長年の友人であるカルクブレンナーが、プレイエルピアノの製造、 販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立する。 1855年にカミーユよりオーギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれ、ヴォルフは、工場をパリから サンドニに移動させる。55000m2の広大な工場では、1866年の最盛期には年間3000台のピアノを生産した。 1887年のヴォルフの死を受け、義理の息子であるギュスターブ・リヨンが経営を引き継ぐ。 優れた音楽家でもあり、鉱山技師でもあったリヨンは、製造の近代化に成功する。 1866年には、プレイエルの経営は、パリのロシュシュアールのショールームの他に、パリ市内に2軒、 ブリュッセル、ロンドン、シドニーにそれぞれ1軒ずつ支店を持つまでに成長した。 1927年にパリにサル・プレイエルが建設される。 1930年、リヨンが経営より退く。時を同じくして、1929年のアメリカの株の大暴落を受けたプレイエルの ピアノ部門が1933年財産管理下に陥る。翌年プレイエル破綻。 サル・プレイエルは、クレディリヨネ銀行に買収され、1998年までその管理下におかれる。 1961年、経済的苦境の中、前年に合併したばかりのガヴォー・エラールと合併し、 ガヴォー・エラール・プレイエルとなる。 この時点で、多くのピアニストの証言からプレイエルの音は消えたといわれている。 1971年に、ドイツのシンメル(Schimmel piano company)により買収され、工場をドイツの ブラウンシュヴァイクへと移転する。このシンメルによる経営はその後25年に亘る。 この買収劇によって、プレイエルブランドのピアノはドイツ資本となったものの、 技術者たちが出資者たちの援助のもと、北フランスに工場を開き、ラモー(Rameau)の名で フランスピアノを作り続ける。 サル・プレイエルの所有者であるクレディリヨネ銀行が、1995年に経済的なスキャンダルに見舞われ、 その財産が国の管理下におかれ、競売に掛けられる。翌年、フランス人ビジネスマンの ユーベル・マルティニがサル・プレイエルを購入し、南仏アレスに移転していたプレイエルの 工場の再生にも着手し、名称もフランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)に変更する。 翌1998年、サル・プレイエルの実質的な売却が行われ、70年間の分裂を経て、再びプレイエルが一つになる。 サル・プレイエルは2006年9月に再開されオーケストラの公演など多くのコンサートを開いている。 2002年マルティニの要請を受け、アルノー・マリオンがサル・プレイエルと フランス・ピアノ製造会社の経営に関る。 2006年現在、フランス・ピアノ製造会社は、アラン・ラフォンにより運営されている。 2007年業績不振により、南フランスのアレス工場から撤退し、パリ郊外にアトリエ工房として 再出発を果たす。体制としては受注生産であり、2008年度の生産台数は20台、2009年度は16台と、 零細企業としての経営を余儀なくされていた。 2013年にはついに生産中止を発表。ただし、在庫については当面販売が続けられる。 2014年9月、パリ・ドメニル通りのヴィアデュック・デザールに本社を移転した。 現在は同社ピアノの修復が中心で、グランドピアノのみ特注で製造している。 2016年には中国に販売会社がオープンしている。 プレイエルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PLEYGEL プレイゲル 森技術研究所(浜松市) 詳細不明
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POOLE PIANO COMPANY プーレ アメリカ 当ページの "I" の項目でも紹介した、IVERS & POND(イバース・アンド・ボンド社)の 子会社で、1893年にウィリアム・エイチ・プーレによって設立されたもの。 斬新なピアノを作っているとの情報があるが詳細は不明。 |
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PRAMBERGER プレンバーガー 島村楽器が販売しているピアノブランド。 ※読み方は「プレンバーガー」です。 ×プラムバーガー、×プランバーガーではありません。 製造:ユンチャン(Young Chang) 韓国製 →詳しくはYoung Chang(ユンチャン)の項目へ 細部にまでこだわったデザイン性や作りはなかなか良く音量も十分鳴るピアノです。 ただ、主観ではありますが音色にもっと繊細さがあると良いピアノになるかと。 三代目、ジョセフ・プレンバーガーという NYスタインウエイで設計・技術マネージャーをしていた人が設計し、 韓国のユンチャン(YOUNG CHANG)に製作してもらっているピアノとのこと。 <機種バリエーション> アップライトピアノ:PV-118、PV-115、PV110、PV118、JP-52、JP-121、JP-125等 グランドピアノ:JP-185等 (グランドはほとんど輸入されていないとのこと) 1枚目と2枚目の写真は、プレンバーガーJP-52で、3枚目と4枚目の写真はグランドのJP-185です。 グランドの方の画像は、「Atelier Sonorite」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます! UP機種バリエーションとしては、スタンダードモデル・インテリアモデル・ハイクラスモデルがある。 プレンバーガーの保証書 →★ プレンバーガーのまくり(蓋部分)銘柄マーク →★ プレンバーガーの親板内側に貼られたハングルで書かれた検査シール →★ プレンバーガーピアノ(グランド)の外観写真 →★ <島村楽器のHPに記載の紹介文から抜粋> プレンバーガーピアノは、世界中の厳選された素材を使用して製作されています。 その歴史はさかのぼること約200年。 プレンバーガー家は、1800年代から活躍するピアノマイスターの家系でした。 1987年、ジョセフ・プレンバーガーが「PRAMBERGER」を立ち上げます。 ジョセフは、ニューヨーク・スタインウェイ社において設計・デザインを担当。 「最高のパフォーマンスは優れた設計のもとに成立する」という彼の思想に基づき、 優れた設計・デザインを有しています。 彼が長いキャリアの中で積み重ねた知識と、ピアノマイスターとしての伝統の継承、 そして技術革新がもたらしたこの高品質なピアノは、今や米国を中心に世界中で愛用されています。 芸術的な逸品に、きっとご満足頂けると思います。 プレンバーガーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
PREMBERGER | PREMBERGER× 正しくは、PRAMBERGERです ※すぐ上の項目 |
PRIMATONE 画像クリックでHPへ戻る |
プリマトン (プリマトーン) ※正式な読み方としてはプリマトンの方が正しい可能性があります 合資会社大塚ピアノ商会(発売元)横浜元町 シュベスターピアノ製造KK(東京都蒲田)、協信社ピアノ製作所(製造)(東京都蒲田) 大正10年、沢山清次郎氏と大塚錠吉氏が共同でピアノ店を出したのが始まり。 その後大塚氏のみで大塚ピアノ商会を作り、横浜元町の名店の一つになりました。 国産ピアノの最高級品を目指していくつかのピアノ工場にオーダーしました。 シュベスターピアノの工場で製作した時期が長く、レンナーアクションを使用した 高級品が多いのが特徴です。 一番下のトレードマークはPRIMATONEのグランドです 画像は、H.Y.様からご提供頂きました。ありがとうございます! プリマトンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PRINCETONE プリンストン 製造:富士楽器製造(浜松)、発売元:東京ピアノ商会(外国ピアノ輸入商会)東京銀座 外国ピアノ輸入商会、後の銀座の東京ピアノ商会のブランド。富士楽器に製作を依頼していた。 皇太子殿下の誕生を祝って特に命名されたという。三越本店に納入されていた。 プリンストンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PRINCIPAL プリンシパル ピオバ楽器社(製造)東京都神保町 東京神保町のピオバ楽器社は、ピアノ調律師の野口喜象氏の出店であるが、 この名前でピアノを製造販売したことがある。 野口喜象氏が没した後は野口ふみ未亡人が社長になった。 プリンシパルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PROTHNER プロッスナー 日本 詳細不明 |
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PRUNIER プルニエ(プロニェール?プルニール?) 大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸、広田ピアノ(ヒロタピアノ) 二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。 その他のピアノあり。 プルニエのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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PRUSSNER プロスナー ドイツ 詳細不明 |
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プルツナー/(プルッツナー) PRUTHNER (古いピアノは”U”が入るこの表記でした→PRUTHUER) ×PLUTHNERではありません 大洋楽器工業株式会社(岡本工業所) 株式会社 プルツナーピアノ 有限会社 及川ピアノ製作所 カールザイラーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたブランドで、 昭和20年から浜松の岡本工業所で作られてきました。 昭和29年に有限会社 太洋楽器工業に、昭和37年6月に株式会社に改組、 その後、社名を(株)プルツナーピアノへと変更。 音色はデフォルトではかなり固めな感じですね。 プルツナーピアノのまくり部分(蓋部分)のブランド銘柄 →★ 機種:P-3等 <附録> プルツナーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1970年~1988年) →★ プルツナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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